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試し読み

上司の息子の転落死の現場から社に戻ると、声をかけてきたのは人事課の通称『ゲシュタポ』だった。【月村了衛『白日』試し読み⑦】

出版社課長・秋吉の耳に届いた、上司の息子の突然の死の情報。
進行中の大きなプロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
現代社会の欺瞞を暴き希望のありかを探る、明日のサラリーマン・エンタメ!
第10回山田風太郎賞受賞作家の会心作!


書影

月村了衛『白日』(KADOKAWA)


>>試し読み第6回へ

「こりゃあ、いいところで会ったなあ」
「おまえ、どうして……」
 管理統括本部は別の階にある。飴屋が偶然六階にいたとは考えにくい。
「この暑いのに外回りか。見上げたもんだよ」
「だったら営業はもっと大変だろう」
「そうだなあ、営業は大変だなあ」
 こちらの皮肉など平気で受け流し、つかみどころのない態度で接近してくる。
 飴屋は秋吉の同期であるが、入社以来、まったく異なる道を歩んできた。教育関連書籍の編集一筋であった秋吉に対し、飴屋は主に総務畑を渡り歩いて、気がつけば社内でも独特の存在感を放っていた。だがそれは人に好感を抱かせるものではない。ことに業績不振の文芸編集部では、『秘密警察』あるいは『ゲシュタポ』の仇名で呼ばれているという。
「ちょっといいか、秋吉」
「いいよ、ちょっとだけなら」
 そう応じながら背後の前島を振り返る。普段の彼女ならすぐに察して先に行くところだが、今は忠実な秘書のような顔をして控えたまま動こうとしない。飴屋がなんの目的で接触してきたのか、それだけ興味を惹かれているのだろう。
「どうだった、真夏の警察ごっこは。楽しかったか」
 にやにやしながら親しげに訊いてくる。秋吉が飴屋と親密だったことなど一度もない。
「どういう意味だ」
「事故の現場に行ってたんだろう」
 飴屋はごく自然に〈事故〉と言い切った。引っ掛かりを覚えたが、今はそれを咎めている場合ではない。
「誰から訊いた」
「訊かなくったって分かるよ、それくらい」
 飴屋は質問を曖昧にはぐらかす。社内の誰かから聞きつけたことは間違いないだろうが、情報源を明かすほど甘い男ではない。
「幹夫君のご冥福を祈って近くから手を合わせてきただけだ。現場に入ってもいないし、もちろん梶原さんのご自宅には近寄っていない」
「そりゃあ、いいことをしてきたね。でもそういうのって、普通は休みの日にやるもんじゃないのかなあ」
 反論できないところを衝いてくる。下手な言いわけはすべきでないと判断した。
「人事からすればペナルティだな。いいよ。好きにしてくれ」
 すると飴屋は大仰な仕草で目を見張り、
「おいおい、そんなつもりで言ったんじゃないよ。僕はね、秋吉、ウチにとって君は得難い人材だと評価してるんだ」
「初耳だな」
「そりゃそうだろう。人事がいちいち評価を本人に伝えるわけないさ」
「だったらどうして教えてくれたんだ」
「君のためを思ってさ」
「俺のため?」
 飴屋は大きな顔を秋吉に近づけて、
「現場に行って何か分かったか。もし知っていることがあったら、僕にも教えてほしい」
「さっきも言っただろう、俺は幹夫君に――」
「それは分かってる。だけど、実際に行ってみて気がつくことだってあるかもしれないじゃないか」
「仮にそんなことがあったとして、どうしておまえに報告しなくちゃならないんだ」
「秋吉、君は自分がどれだけヤバい橋を渡っているか、分かっているのか」
 飴屋の口調がにわかに緊張を孕んだものに変わる。
 背後で前島が息を吞む気配がした。トラブルを巧妙に回避する手腕こそ最善の処世術と心得ているかのような彼女のことだ。きっとこの場にとどまったことを後悔しているに違いない。
「おまえが何を言っているのか、さっぱり分からない」
「なら、それでもいいよ」
 相手はあっさりと引き下がった。
「でもこれ以上、下手に動かない方がいい。君のためなんだ、秋吉」
「おい、それは一体――」
 飴屋は秋吉の肩を軽く叩き、
「今度食事でもしようよ。新宿に牡蠣のうまい店があるんだ。また連絡するよ」
 こちらの問いを封じて飴屋は飄然と去っていった。
 振り返ると、前島が蒼白になってこちらを見つめていた。
「課に戻る前にちょっと休んでいこう」
 前島は「はい」と小声で応じた。
 エレベーターホールに引き返し、九階のカフェテリアへ直行する。
 例によって隅のテーブルに座り、声を潜めて切り出した。
「さっきの飴屋、どう思った?」
 前島はすぐには答えない。迂闊なことを言って自分の立場を悪くするのを恐れているのだ。
「心配するな。俺は自分の補佐である君の感想を求めているだけだ。何かあったとしても、責任は全部俺にある」
 そう促すと、前島は思いきったように顔を上げた。
「飴屋さんは立花専務の派閥に属すると聞いています」
「君もやはりそれが関係していると思うのか」
 彼女は無言で頷いた。
 公然の秘密だが、現在の千日出版には深刻な派閥の対立がある。すなわち、晴田社長派と立花専務派の抗争である。
 黄道学園プロジェクトは当初から社長マターであった。
 そもそも梶原局長は、千日出版においては言わば外様で、もとは老舗教育系出版社『育草舎』の幹部であったことは社内の誰もが知っている。千日出版が育草舎を吸収した際、社長の強引な押しもあって現在の地位に就いたのだ。従って梶原は社長派ということになる。
 専務派としては、何か口実を見つけてプロジェクトの破棄に利用したいところだろう。しかし社の信用に傷を付けては本末転倒の事態となる。第一、引き返せる段階はとっくに過ぎている。
 いずれにしても、今度の件は処理を誤ると社内の勢力バランスに重大な影響をもたらしかねない。
「だから飴屋が探りを入れてきた、ということか」
「それと、口止めというか、牽制のニュアンスも感じられました」
「『よけいなことはするな』、だな」
「はい」
 前島は不安そうな吐息を漏らす。彼女にしてみれば、妙なトラブルに巻き込まれて出世の芽を摘まれるのはそれこそ想像もしたくない災難に違いない。
 どの会社でもそうだろうが、こうした対立は、一般の社員にとっては大いなる迷惑以外の何物でもない。しかもそれが己の将来に大きく関わってくるとなれば、身の処し方一つにも自ずと慎重になる。まったく厄介極まりない話であった。
「とにかく、今後はお互い行動には要注意だ。特に飴屋には気をつけることにしよう。社内ではどこに奴の内通者がいるか知れたものじゃないからな」
〈内通者〉などという言葉を使ってしまった己を秋吉は密かに恥じた。嫌悪したと言ってもいい。だがこの場合、他に適切な呼称は見つからない。
 手つかずのコーヒーが載ったトレイをそのまま返却口に戻し、秋吉は前島と急いで六階に向かった。午後には来客の予定が詰まっている。それに種々の雑用も。
 第一課のフロアに入ると、すぐに沢本がやってきて留守中の連絡事項を伝えてくれた。
「ありがとう。それで、みんなの様子はどうだった?」
 声を潜めて尋ねると、沢本はさらに声を小さくして、
「一時的に収まってはいますけど、みんなだいぶ殺気立ってますよ。万が一プロジェクトがなくなったりしたら、一課の何人かは確実に会社から放り出されますから」
 それは自分とて例外ではない――秋吉は先ほど飴屋から受けた恫喝を思い出した。
「みんな不安なんだろうな」
「情報が入ってこないってのもまずいですね。自殺なのか、そうでないのか。どっちかはっきりしてればまた違ってくると思うんですけど」
「部長の話では、少なくとも自殺ではないってことだった」
 すると沢本は目を見開いて、
「ほんとですか」
「ああ。だけど警察ははっきりしたことは言わなかったようだ」
「なんだ」
 あからさまに落胆した様子で沢本は続けた。
「じゃあ、いつはっきりするんですか」
「さあな。局長は警察から連絡があればすぐに報告すると言ってるらしい」
「早くしてくれないと……こんな状態が続いたら、みんなどうにかなっちゃいますよ」
 それは秋吉も感じていた。ある程度の目途が立っていれば人間はなんとか耐えられる。しかし、それが分からないという状態が一番まずい。
 社の幹部達も理解しているはずなのだが――
 そのとき、課員の一人が自席から呼びかけてきた。
「課長、お客様がお見えです。ジュピタックの内藤様です」

(このつづきは本書でお楽しみください)

月村了衛『白日』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000382/


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