近藤史恵『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』試し読み
「怪と幽」で人気を博した、近藤史恵さんの切なくて愛おしい絵画ミステリ『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』。
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「犬の絵」#4
男は
弥介の話はこうだ。
三ヶ月ほど前、店にひとりの女がこの絵を売りに来た。
幽霊絵師火狂の噂は、弥介も知っていたから、この絵を高く買ったという。
その日から、弥介は夢を見るようになった。
瘦せた黒い犬の夢だ。夢の中で、弥介は地面に横たわっていた。
犬はゆっくりと近づいてきた。弥介は犬が好きではないから、起き上がって追い払おうとしたのに、身体が少しも動かないのだ。
犬はふんふんと匂いを嗅いだ後、弥介の指に嚙みついた。
鋭い痛みが走って、弥介は叫び声を上げたが、それで苦痛は終わらなかった。
犬は飢えているのか、弥介の肉を食いちぎり、骨を嚙み砕いて、弥介を食べ始めたのだという。
意識が遠のくほどの痛みだった。ようやく、夢から覚めたときは、全身が汗でぐしょぐしょに濡れていたという。
夢は毎日続いた。
まるで現実かと思うほどの痛みを伴う夜もあれば、なぜか痛みはまったく感じずに、骨が砕け、肉がちぎられる感覚だけを感じる夜もあった。痛くなければ、それはそれで自分の身体を生きながら食われていることがはっきりわかって、おぞましさにどうにかなりそうだった。
絵が売れるまではと耐えようと思ったが、火狂の絵だというのに、犬の絵はまったく売れなかった。火狂の絵に興味があるという客も、「怖くない火狂の絵なんか、欲しがる奴はいない」と笑うのだ。
思いあまって、弥介は絵を、近くの寺の和尚に見せて、相談した。この絵を供養するなり、焼くなりできないだろうか、と。
和尚は困った顔で答えたという。
「こりゃあ、この絵を描いた者でないと、どうにもできませんな」
横になって話を聞いていた興四郎は、
「その和尚、とんだインチキ坊主だな」
弥介は、興四郎を
「もとはと言えば、おまえがこんな絵を描くから……」
興四郎は、おきあがり
「まあ、話はわかった。でも、そりゃ俺のせいじゃねえな」
「おまえのせいやないと?」
「よく考えてみなせえ。おまえは、この絵をここに置いていった。つまりは手放したわけだ。だったら、おまえは夢から解放されて、次に怖い夢を見るのは、この家の人間じゃなきゃならねえ。なあ、この家のお嬢さん、おまえさんは怖い夢を見るか?」
真阿は首を横に振った。弥介は、はじめて真阿に気づいたような顔をした。
「つまりは、この絵とおまえの夢は関係ねえ。おまえが夢を見るのには、別の理由があるんだよ」
弥介はぶるぶると身震いをした。
「噓や! 俺はこの絵に取り
興四郎は興味をなくしたように言った。
「だったら、絵よりもおまえがお
それを聞くと、弥介の目にようやく
「絵を供養してくれるのか……」
「ああ、水と塩でも供えておくさ」
興四郎の様子からすると、本気で絵の供養をするようには見えないが、弥介にとっては、そのことばが救いに感じられたようだ。
「ありがたい……ありがたい……これでゆっくり寝られる……」
弥介が帰った後、興四郎は黙って下りていった。
戻ってきたときには、手に水の入った湯飲みと、盛り塩をした小皿を持っていた。どうやら、本当に供養するようだ。
掛け軸の前に、水と塩を置くと、興四郎はしげしげと絵を見つめた。
「お真阿殿、さっき、どうして犬が裃を着ているのか? と俺に聞いたな?」
真阿は
「これはな。死に絵だ」
死に絵。はじめて聞くことばに、真阿は息を吞む。犬が裃を着ている滑稽な絵だと思っていたのに、急にまがまがしさを感じた。
真阿の顔が
「いや、怖がるようなものじゃねえ。お真阿殿は見たことねえか? 人気役者が死んだとき、その役者に水浅葱の裃を着せた
つまり、この絵は、犬の死を悼んだ人が興四郎に描かせたのだ。
興四郎は畳に足を投げ出して、絵を見上げた。
「去年のことだ。ふるいつきたくなるようないい女だったな……」
その絵を描かせたのが、咲弥で、絵に描かれているのが、くろかどうかはわからない。だが、可愛がっていた犬の死を悼んで描いてもらった絵を、たった一年で古道具屋に売りに行くはずはない。
少なくとも、咲弥なら、金に困っていた様子はないのだ。
翌日、興四郎は警察へ出かけていった。帰ってきたのは、すっかり夜も更けた頃だった。
真阿は話を聞きたかったが、さすがに夜更けに興四郎の部屋を訪ねるわけにはいかない。渋々、床についた。
その夜は、黒い犬の夢は見なかった。
翌朝、真阿は興四郎が風呂屋から帰るのを待って、部屋を訪ねた。
うちわを使いながら、興四郎は犬の死に絵を眺めていた。真阿は、開け放した襖から中をのぞき込んで尋ねた。
「どうだった?」
興四郎はこちらを見ずに答える。
「恐ろしい話と、そうでもない話、どっちが聞きたい?」
真阿は迷わずに答えた。
「本当の話」
ようやく興四郎はこちらを見て笑った。
「お真阿殿は賢いな」
自分が賢いかどうかなどわからない。
興四郎は、煙管を引き寄せて、火皿に煙草を詰めた。
「巡査に話を聞いてもらった。咲弥が大事にしていて、絶対に売るはずのない絵を売りにきた男がいたと言ったら、巡査も興味を持った。咲弥は、三ヶ月ほど前から行方が知れなくなっていたらしい」
興四郎と巡査は、まず咲弥の家を訪ねた。家は荒れ果てていて、人の気配もなかった。台所では、買い置きの食物が腐敗していた。
「金目のものも、なにもなかった。桐の
真阿は、着物の袖をきゅっと握った。怖いが、本当のことを知りたいと願ったのは自分だ。
「巡査は、畳を上げて、床下を捜した。そこに咲弥がいた。本当に咲弥かどうか調べるのには、時間がかかるそうだが、背
興四郎は、死んでいたとは言わなかった。だが、生きた人間が床下にいられるわけはないし、この暑さならどんな状態になっていたか、想像はつく。
「その後、巡査は道修町の弥介の店に向かった」
真阿は身を乗り出した。
「捕まったの?」
興四郎は首を横に振る。
「いいや」
だったら、弥介は逃げ出したのだろうか。金を持っていたら東京にでも逃げられる。そうなると捕まえるのは難しくなるはずだ。
興四郎は、煙を宙に吐き出した。白い煙が上へと上っていく。
「弥介は首をくくっていた」
真阿の喉が鳴った。
「弥介の店の奥から、咲弥の着物や、櫛筓も出てきた。咲弥は舶来の指輪なんかも持っていたらしい」
だから、殺したのだろうか。それとも弥介は買い取っただけで、殺したのは他の誰かかもしれない。そう考えてから気づく。
他の誰かのはずはない。弥介は、くろの夢を見ている。
「警察は、逃げられないと思って首をくくったのだと考えたようだ。まあ、大差はないかもしれんな」
そうではない。毎晩、肉を食いちぎられ、骨を嚙み砕かれる苦しみに耐えられる者などきっといない。それなら楽になった方がましだ。
真阿は、少し考え込んだ。
「興四郎、もしわたしが、怖くない話をと言ったら、どんな話をした?」
興四郎は膝を立てて笑った。
「『咲弥とくろは、ずっと一緒におりました。そして悪人を退治したこの先もずっと』かな?」
そのことばを聞いて理解する。
きっと、くろの
たぶん、もうくろの夢は見ない。
(近藤史恵『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』より「犬の絵」 了)
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作品紹介
幽霊絵師火狂 筆のみが知る
著者 近藤 史恵
定価: 1,705円(本体1,550円+税)
発売日:2022年06月30日
その男の絵は、怖くて、美しくて、すべてを暴く。
大きな料理屋「しの田」のひとり娘である真阿。十二のときに胸を病んでいると言われ、それからは部屋にこもり、絵草紙や赤本を読む毎日だ。あるとき「しの田」の二階に、有名な絵師の火狂が居候をすることになる。「怖がらせるのが仕事」と言う彼は、怖い絵を描くだけではなく、普通の人には見えないものが見えているようだ。絵の犬に取り憑かれた男、“帰りたい”という女の声に悩む旅人、誰にも言えない本心を絵に込めて死んだ姫君……。幽霊たちとの出会いが、生きる実感のなかった真阿を変えていく。
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