一
2011年7月19日(火)
開いた窓から、生温い風が入ってきた。
午後五時過ぎ。兵庫県神戸市にある公立大学のキャンパス。その部室棟の一角。
文芸サークル「黒猫の森」の部室はいつも黴臭い。原因は、四方の壁に設置された本棚にある大量の本だった。そこにはあらゆるジャンルの書物が詰め込まれているが、共通しているのはどれも微妙に古く、傷んでいるということ。おまけに換気機能が追いついていないせいで、部屋は年中、雨の日の匂い──と、先輩の誰かが言っていた。
「──年中って、お前まだ三か月しかおらんやん」
部屋の隅。ローソファーに寝転んでカバー付きの本を読んでいる日下部は、そう言って笑った。
「やから、先輩が言ったんすよ。誰やったかな……ほら、あの派手な髪色の」
漫画『動物のお医者さん』を長机に置いて、菊池は頭を搔いた。文芸サークルと銘打っているが、その実態はいわゆる「飲みサー」で、飲み会でしか見たことがない先輩も多い。頭に浮かんでいるのは、ハイボール片手に笑う赤い髪の女性。確か、『梅雨払い』と称した六月半ばの飲み会で一緒のテーブルになった……ダメだ、思い出せない。
「まぁ誰でもええけど、そいつは本を愛さず文芸サークルに入った不逞の輩やな。読書家はこの匂いを好むもんや。……お前のことやぞ、菊池」
「読書家がですか?」
「アホか。お前はええ加減、漫画と東野圭吾以外読め」
東野圭吾を読んだって読書家だろうと思ったが、読書の絶対量では日下部に敵わないので、笑ってごまかした。そもそも、新歓コンパという酒の席の勢いで菊池を無理やりサークルに加入させたのは日下部なのだが。
火曜日と木曜日。今日も本来は活動の時間だけれど、菊池たち以外は誰も部屋に来ていない。元々「臭いから」とメンバーのほとんどが近寄らないが、今となっては、別の理由が生まれているのは明らかだった。
「……しばらくは活動なしですかね? てか、この部屋入っていいんすか?」
「ええやろ、ケーサツの捜査も終わっとるし。活動もなぁ……前は課題図書決めてみんなでそれ読んで感想言い合ってってしとったみたいやけど、今は誰もやる気ないし」
そう言って、日下部は本のページをペラ……とめくる。
菊池は、開け放たれた部室の扉を見た。
正確に言うと、その向こうに見える手すり壁──宮原すみれが飛び降りた場所を。
彼女が飛び降りて死んでから、今日で六日が経っていた。
事件直後は大騒ぎだった。──あちこちで誰かが嘔吐する音、携帯電話のシャッター音、遅れてきた教職員が「部屋に入ってて」と怒鳴り散らす声が響き──やがて警察と消防がやって来て、宮原の遺体はブルーシートに覆い隠された。
目撃者でかつ同じサークルである菊池と日下部は学生課に呼び出され、警察の聴取を受けた。二人同時だったのは、事件性がないと判断されたからだ。……この部室で見つかったのだ。彼女の遺書が。
千切れたノートのページに、乱れた字でこう書かれていた。
こんな結末は耐えられない。お父さんお母さん、ごめんなさい──
「最近病んどったらしいからなぁ、宮原ちゃん」
日下部は本を読みながら言った。
「それ、どこ情報すか?」
「
おどけた調子で言ったのは、自分の彼女の名前を出すのに照れたからだろう。海老名は菊池と同じ一年生だが、サークルに入って間もなく──つまり出会って一か月で日下部と交際を始め、もう二か月ほど続いていることになる。
「へー、仲良かったんすね?」
「いや、友達の友達くらいやて。けど、噂くらいは耳に入ってくる。……だいぶおかしなっとったらしいで。授業中にいきなり騒いだり、夜中に友達に電話しまくったり」
意外だった。飲み会の席で見た彼女は、線が細く、大人しい印象だった。それこそ文学少女チックな。……黒い髪と白い肌と丸い顔。三つ編みにしたら似合いそうなのに、あの子はいつも結ばないでそのままだった。
もちろん、そんなことを伝えたことはない。というより、話したこともあんまりない。
だけど記憶の中の彼女はよく笑っていて、自殺するような人には見えなかった。
自殺なんて──馬鹿な真似をするような人種には。
ぶぶ、と携帯電話が震えた。母からのメールだった。
──夏休みは帰ってきますか?
それだけの文面。「帰る」というわずか二文字を打つことが面倒で、菊池はそのまま机に放る。
「そう言えば、何か変なもんが見えるとか言うてたんやっけ」
起き上がった日下部と目が合った。
「俺も写メを晴美ちゃん経由でもらってな、お前に見せよう思てたんや」
そう言って携帯電話を操作する。すると、ポケットで菊池の携帯電話が震えた。メールだ。日下部からだった。写真データが添付されている。
「……うわ、何すかこれ」
まるで子供の落書きだった。
黒い滝のような長い髪の毛。その下には、四角を集めて描かれたドレスみたいな服。さらにその下には、異様に細い脚のようなもの。
「宮原ちゃんにはこれが見えとったらしいで。確か──〈カミの化け物〉や言うてたて」
カミ?……髪?
「黒い髪の化け物ってことっすか?」
「いやペーパーの方の紙。身体についてるんは全部白い紙やねんて。御札くらいの」
それを聞いて改めて絵を見ると、ゾッとした。この化け物にというより、そんなものを見てしまう宮原すみれの心理状態に。
「……宮原さんって、出身どこでしたっけ?」
「あ? あー、確か、佐賀とか言うてなかったっけ」
九州か。なら、今年の三月に起きた大地震は関係ない……のだろうか。
宮原すみれの死を目の当たりにして以来、ふとした瞬間に彼女の死の理由を探ってしまう。……こんなこと、意味がない。菊池は、自嘲の意味を込めて下唇を嚙んだ。友人ですらなかった自分がいくら考えても、彼女の真意など理解できるはずがない。いや、そもそも理解する必要もない。終わったことだ。死にたい奴は死ねばいい。
ただし、自殺したとわからないように、ひっそりと、誰も知らないところで。
「ああ、もう行かなあかん、だるっ」
本を閉じた日下部はソファーから立ち上がって、伸びをした。
「……何読んでたんすか、さっきから」
「ん? ああ、これか?」
すると、日下部はにやにやと笑い出した。書店の名前が入ったブックカバーを取って、その本を見せる。菊池は「あっ」と声が出た。
それは──あの日、宮原すみれの遺体のそばに落ちていた本。
「それ、持ってってたんすか。いつの間に」
「へへへ。職員らが来る前にな、さっと」
悪びれない笑顔。好奇心を優先して非常識な行動を取るのは、日下部の悪癖だった。
「マズいんやないですか、警察に届けないと」
「へーきへーき。自殺やって警察も言うてたやろ? 今更こんな本持ってったところで、何も変わらへんわ。それにこれは、元々ウチのんやしな」
ほれ見てみ、と本を渡される。菊池はそれを恐る恐る受け取った。
タイトルは『ゆうずど』。著者名は鬼多河りさ。……知らない作家だ。
「古い本ですね。焼けてるし傷んでる」
「ああ。奥付見たら一九九九年刊行やった。十年以上前やな」
表紙に描かれているのは幾何学模様にも生物にも見える奇ッ怪なイラストで、下には「角川ホラー文庫」と記されていた。
「……てか、これ何かベタベタしません?」
「ああ、血ぃ付いとるからな」
げ、と菊池は顔をしかめた。よく見ると、表紙にはいくつか赤茶色の染みが残っていた。血だ。宮原の血が乾いてこびりついているのだ。
まるで、宮原がこの世に残した怨念のように。
「ちょっ……先言うてくださいよ!」
カラカラと日下部は笑った。菊池は指先だけで本を扱う。血はすでに乾き切っているはずだが、あのとき感じた忌々しい鉄の臭いが鼻腔に蘇った気がした。
「裏表紙見てみ。〈くろねこ〉って書いてあるやろ? ウチのサークルの備品って証拠や。たぶん、宮原ちゃんはここで見つけたんやろなぁ、それ」
指先で本をひっくり返す。確かに黒のマジックペンで〈くろねこ〉と書いてある。ふとある違和感を抱いたが、そんなことはどうでもいい。
「ちょ……これ、捨てていいですか、窓から」
待て待て待て、と日下部は慌てて本を回収する。それからカバーを付けて、改めて手渡してきた。もう触りたくもないが、待っていても引っ込めないので、受け取る。
「全六章の連作短編集や。四章まで読んだけど、フッツーのホラー小説やな。『ドグラ・マグラ』みたいなんを期待してんけど」
菊池は普段本を読まないが、夢野久作の代表作くらいは知っている。読めば狂う本ならぬ、読めば自殺する本だと面白がって読んだわけだ。不逞の輩はどっちなのだろう。
菊池はためつすがめつ眺めて、違和感の正体に気づいた。カバーを半分だけ外して裏表紙を見る。そこには〈くろねこ〉と書かれているだけで、本のあらすじ──いわゆるウラスジがなかった。本を読まなくても、これだけ本に囲まれていればそれくらいのことは知っている。
どんな話なのだろう。試しに冒頭部分をパラパラと読んでみる。プロローグと呼ぶべき章で、ひょんなことから謎の本を手に入れた男性が何か思い悩んでいる。しかし、これだけではよくわからなかった。
「……これ、どんな話なんすか? ゆうずどって?」
日下部は帰り支度をしながら、
「まぁ、一言で言うと、読んだら死ぬ、呪いの本の話やな。作中に出てくるその本のタイトルが『ゆうずど』やねん」
「へぇ。意味は?」
「まだわからん。最終章でわかるんかな」
菊池は本を返すと、部室を出てトイレで手を洗った。窓の外はまだ明るいが、日は傾き始めてどことなく気怠い光が射している。戻ってくると、日下部が鞄を持って出るところだった。
「戸締りを忘れんなよ」
「わかってますよ。教職は遅い時間に授業あって大変すね」
ほんまそれな、と頷く彼の手には『ゆうずど』が握られている。
「……よく平気ですね。そんな、人の血が付いた本触って」
日下部はまた、カラカラと笑った。
「潔癖なやっちゃな。そんなん言うてたら中古本とか読めんで。誰がどんな使い方しとるかわからんからな。俺も昔、数十円くらいのエロ小説買うたらページの途中がパリッパリで、明らかにザーメ──」
そう言いかけて、日下部はふいにしゃべるのを止めた。
目を大きく見開いている。菊池の背後──中庭に面した手すり壁の方を見ながら。すると、菊池を押しのけるように手すりから身を乗り出した。
「……どうしたんすか?」
「いや……今、何か、白いもんが落ちた気ぃして」
「白いもん?」
菊池も彼に倣い、中庭を見下ろした。白いもんどころか人っ子一人いない。振り返ると日下部が悪戯な笑みを浮かべている──ということもなく、彼は首を捻っていた。
「おかしいな。いや、最近こういうことようあんねん」
聞くと、電車に乗っているときや街を歩いているとき、ふと、何かがビルなどから飛び降りる瞬間を視界の隅に捉えるらしい。驚いて確認しに行くが、何か騒ぎになっていることはないという。菊池は、不謹慎な連想をせざるを得なかった。
「大丈夫すか?……宮原さんに引っ張られないでくださいね。自殺は連鎖しますから」
「アホか。俺が死ぬわけないやろ」
二人で笑って、その日は別れた。
日下部が自宅マンションから飛び降りたのは、その翌週のことだった。
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