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試し読み

書店員さん支持率No.1!角川文庫キャラクター小説大賞《読者賞》作品の試し読みスタート!個性が強すぎるイケメン店員たちのカフェ、開店!『毒母の息子カフェ』#1

第5回を迎えた、角川文庫キャラクター小説大賞。書店員さんによるモニター審査で最も支持された〈読者賞〉受賞作品『毒母の息子カフェ』は、4月24日発売。カドブンでお届けする試し読みで、ぜひカフェのドアを叩いてみてください!ご来店、お待ちしております。

 ◆ ◆ ◆

 僕がそのカフェに辿たどり着いたのは、本当にただの偶然だった。
 だがそれは僕の人生に組み込まれた重大な必然だったのかもしれない。

 大学受験は正直言って失敗だった。
 定員厳格化ってなんだ。定員以上合格させたら補助金なしになるってどういうことだ。そんなのは僕の受験が終わってからにしてくれ。
 数年前に始まった政策のおかげで、滑り止めだったはずの私大にさえ落ちた累々たる浪人生の山が、今年の受験も過酷なものとした。
 僕はその浪人達の積み重なった雪崩に足をすくわれ、安全圏と言われた私大に落ちて、動揺のあまり手堅く出願したはずの第二志望の国公立にも落ちて、後期で超安全圏の市立大学のよく分からない学部にようやく合格した。
 人文社会学部ってなんなんだ? 何を勉強するんだ?
 経済学部志望の僕がなんでそんな学部に願書を出したのか自分でも分からない。
 後期まで受けるつもりなんてさらさらなかった。前期で確実に合格するつもりだった。だから担任に勧められるままに出願してしまった。この担任はその市立大学の出身で、やたらに後期はこの大学にしろと勧めてきた。僕は深く考えもせずにそこまで勧めるならと言われるままに出願してしまった。最悪でも滑り止めの私大に行くつもりだったから、まさか後期まで受けることになるなんて思いもしなかった。
「バカだな、。あの担任は現役合格率ナンバーワンを肩書きにしてるだろ? だから後期は確実に受かる大学しか勧めないんだよ」
「そうそう。オレも市立勧められたもん。でも行きたくもない大学に出願してどうすんだよ。親は反対しなかったのか?」
「それだったら安全圏の私大をいくつか受けておけって親に言われたぜ。だから担任は無視して第一志望に前期も後期も出願したんだ」
「お前の実力があれば、前期失敗したとしても後期で受かる可能性は充分あったと思うぜ。それになんで私大を一個しか受けてないんだよ。普通二、三個は受けるだろ」
 すべて終わってしまってから、クラスメート達は余計にむなしくなるような情報をこれみよがしに耳に入れてくれた。そんな話は出願する前に言ってくれ。誰にも相談しなかった僕も悪いが、みんなピリピリしてお互いの動向を探り合っていて、とてもじゃないけど相談できるような雰囲気じゃなかった。それに僕には……。
 良い助言をくれるような大人が周りにいなかった。
 親身になって僕の未来を一緒に考えてくれる大人などいなかったのだ。
 この一年、死ぬような思いで勉強してきた成果が、この手の平返しのような結果だった僕を慰めるしんせきも、なにやってんだと𠮟しつする家族もいなかった。
 進学校のクラスメート達は第一志望のT大やH大に受かって胴上げをしてはしゃいでいた。国公立には落ちたが滑り止めの有名私大に進学を決めた者達は、髪を染めパーマをかけて浮かれている。浪人して国立を目指す者もいたが、僕に言わせればまだまだ気分は勝ち組だ。る私大もない僕のような負け組の気持ちなど分からないだろう。滑り止めの私大に落ちた時点で、浪人して国公立を目指す選択肢なんてなかった。それほど僕の自尊心は深く傷付けられていた。
 こうして大学合格と同時に都内で一人暮らしをすることを夢見てきた僕は、何の因果か実家から原付で行けるような近くの市立大学に行くことになった。
 行く大学があるだけでもいいじゃないかと人は言うかもしれない。でも僕は完全に未来を見失って絶望しかない荒地を彷徨さまよっている気分だった。

「君、どくぼの息子だよね?」
 初対面のでかい女の人が突然失礼なことを聞いてきた。
「は?」
「うん。どくぼの息子だ。間違いない。そうだと思ったんだ」
 いや、なんなんだ! 初対面でいきなり言うことか?
「でも気にすることはない。ここで働く者はみんなどくぼの息子だからね」
「え?」
 僕は店内を見渡した。
 そう。僕は大学の新入生オリエンテーションを抜け出して、裏道の途中にあるやけにレトロ感満載の喫茶店に入ったのだ。
 生い茂る木立に隠れるように建つ引きこもりのようなたたずまいが、今の僕に見事にシンクロしていた。入ってみるとやっぱり閑散としていて、客は誰もいなかった。
 少し重い木目のドアは物音一つたてずに開き、カウンターの中にいた二人の男がちらりとこちらを見た。
 僕は「いらっしゃいませ」と声をかけられるのすらうつとうしくて、目を伏せたまま一番手前の二人用のテーブルについた。幸いというか、僕の気持ちを察したのか、カウンターの男達は黙ってそれぞれの仕事をしているようだ。
 窓際のテーブルからは、小さな庭が見えている。そこには真っ赤なビートルが飾るように駐車されていて、その隣に青ペンキで塗りこまれた犬小屋があった。そして一匹のビーグル犬がリードにつながれて、こちらに背中を向けてじっとしている。
 ビートル車の隣にビーグル犬というのはシャレのつもりだろうか。
 ビーグル犬のたそがれた背中がやけにシュールでいつまでも見ていられる。
 時折片耳だけぴくりと動いたり、先だけ白いしっぽがぷるんと一回転する。
 その他愛ない姿を眺めているだけで気持ちが安らいだ。なんというか居心地のいい店だ。

 第一印象は抜群だったのに、突然目の前に現れた女性が最悪だった。
 注文もとらずにいきなりホットコーヒーを差し出し、勝手に向かいに座った。
 まず僕の飲み物を勝手にコーヒーだと決め付けられたことにいら立ち、客の前にずかずかと座る厚かましさにあきれ、そしてトドメが失礼な質問の数々だ。
「君、名前は?」
 客のことを君と呼ぶのも気に障る。
 目の前の二十代後半ぐらいの金髪、高身長の女性が尋ねた。雑誌のモデルのようなぼうだ。美人だというだけでどんな高飛車な態度も許されると思っているのだろうか。
「なんであなたに名前を言わなきゃダメなんですか。いきなり失礼でしょ」
 このカフェは客が名乗るシステムだというのか。そんなバカな店があるか。
「…………」
 金髪美女はあごに手をやって少し考えるように首を傾げた。そしてうなずいた。
「うん。いい感じのひねくれ具合だ。合格」
「は?」
 僕はいらいらと聞き返した。合格という言葉に敏感になっていた。
 合格に沸く受験生のテレビ中継もSNS発言も全力で回避して見ないようにしていた。
 それなのになんだって初めて会った人にその禁句を告げられなければならないのか。
「それでいつから来れる?」
「いつから?」
 その質問で初めて僕は何かおかしいと気付いた。少し口調を改める。
「あの……何の話ですか?」
「表のバイト募集を見たんでしょ?」
「バイト?」
 そういえばドアに何か張り紙があったようには思うがよく見てない。
「見てないの? じゃあその下に下がってた準備中の札は?」
「え? いえ……気付きませんでした」
 どうやら僕はまだ開店前の店に入り込んだらしい。あいさつもせずに勝手に席に座って、バイト面接を受けにきたくせに名前も言わない超やばいヤツだ。
 厚かましいのは金髪美女ではなく僕の方だった。慌てて立ち上がる。
「す、すみません。開いてると思って入ってしまいました。すぐに出ます。あ、コーヒー代を……」
「いいよいいよ。おごりだよ。せっかくれたんだから飲んで行きなって」
「で、でも……」
「まあいいから座って。うちのコーヒーは美味おいしいから」
「は、はい。すみません」
 気まずそうにする僕の前で彼女はにこにことコーヒーを飲む様子を眺めている。
「君、そこの市立大の学生? 今日は新入生のオリエンテーションだったんじゃないの?」
「はあ……まあ……」
「見たところ新入生っぽいけど、もう脱落? なかなか早い決断だね」
「いえ……、今日で三日目ですし取る授業は決めてます。別に友人と合わせて取りたくもない講義を取るつもりもないんで」
 このオリエンテーションで友人を作れるかどうかが大学生活の四年間を決定づけるなどと言うやつもいるが、バカげている。大学は勉強しにいくところだ。楽に単位がとれるとか、代返OKだとかそんな講義に群れる連中と仲良くするつもりなんてない。
「なるほど。君はうちの店にぴったりのキャラだね」
 金髪美女は満足げに頷いた。
「ぴったりのキャラ?」
「うん。イケメンなのもいいねェ。そこ大事なんだ。君を『どくぼの息子』の一員として歓迎しよう」
 腕を組んで自信満々に告げる彼女に、僕は呆れ返った。
 いや、歓迎って。頼んでないんだけど。
 だいたい、『どくぼの息子』ってなんだ? 僕の頭に浮かぶ漢字は一つしかない。
「どくぼって毒に母って書くんですか?」
「表の看板見てないの?」
「看板? 店の名前ですか? しゃれた横文字の名前だと思いましたが……」
「ローマ字書きだよ。ほらこれ」
 金髪美女はエプロンのポケットから名刺サイズの店のカードを出して見せた。そこには『DOKUBO NO MUSUKO CAFE』と書いてあった。頭文字のDとMは少し崩して飾り文字になっていて、NOは小さな記号のようになっている。
 まさかそんな名前だったなんて……。
「そんな店名だとお客さんが来ないんじゃないですか?」
ものじせずにはっきり言うねえ。君は暴力をふるうタイプの毒母の息子じゃないね」
 人を毒母で分類するコンセプト? どうやら相当変わったカフェらしい。
「でも君の予測はハズれている。このカフェはとても流行はやってるんだ。今は開店前だから閑散としているが、もうすぐ客が並び始めるよ。時間制限で入れ替えるぐらいの人気店だ」
「はは……」
 僕は本気にしなかった。どう見ても流行っている感じじゃない。
 そもそもこんな変な店員がやっている店なんて、また来ようと思わないだろう。
 ただしカウンターにいる二人の男性は確かにイケメンだった。もしかしてあの二人も……。
「みんな毒母の息子なんですか?」
 僕の言葉にカウンターの二人がちらりとこちらに視線を向けた。
 僕の『合格』と同じだ。『毒母の息子』という言葉に敏感になっている。その言葉に敏感ということは、トラウマがあるのだろう。つまり本当らしい。
「彼はゆうすけ。通称瀬戸ちゃん。和風創作料理の店で修業を積んでた。だから料理担当。彼の料理目当てに来るお客さんも多いんだ」
 カウンターにいる長い黒髪を後ろで束ねた男がぺこりと頭を下げた。白いTシャツに黒いエプロンをつけているが、切れ長の目と均整のとれた筋肉はTシャツよりも着物が似合いそうだ。
「その隣がおんらんまる。通称蘭丸。清掃とドリンク担当」
 同じく白いTシャツと黒いエプロンの男がギロリとこちらを見た。黒髪をセンター分けにして黒縁のメガネをかけている。イケメンだが少し神経質そうな顔付きをしていた。だが二人とも見たところ毒母の息子というより普通に好青年だ。瀬戸ちゃんなんかはさわやかで絶対モテそうな和風男子だ。
「そして僕がひと。この店のオーナーなんだ」
「え?」
 僕は目の前の大柄な美女を見つめた。
「そう、僕が正真正銘の土久保の息子。だから『どくぼの息子カフェ』。理解した?」
 なんだ。そういうことか。名字をそのまま店名にしただけだったんだ。いや、本当に? それにしては妙に『毒母』にリンクしてるんだけど。……てか、もっと気になるワードを言わなかったか? 僕? 息子?
「えっ!? 男っ?」
 言われてみれば、女性にしては大き過ぎるし肩幅も広いようにも見えるが……。
 今の今まで疑いもしなかった。なぜならみんなと同じ白いTシャツと黒エプロンを身につけていても、胸のふくらみもあるし、なによりスカートをはいている。
「あらやだ。女だと思ってた? 僕もまだまだ捨てたもんじゃないね。あんた思ったよりいい子じゃないの」
 美女が一瞬にして男にしか見えなくなった。
「あ、でも女装が趣味ってだけで、男性だけが好きってわけじゃないからね。女の子も大好きなの。可愛い男の子も好きだけど」
 そのカミングアウト、僕にはいらない。
「それで君の名前は?」
「あ、どうです」
 動揺していたせいか、あっさり答えてしまった。
「雅玖くんね。じゃあこれからオープンするから手伝ってちょうだい。市立大のオリエンテーションを終えた学生が集まってくる。一人辞めちゃったからちょうど良かった」
「え? いえ、僕はやるとは言ってないし」
 バイト面接に来たわけじゃない。うっかり紛れ込んだだけなんだ。それに自慢じゃないが、接客業が出来るような愛想のいい人間じゃない。高校の時少しやってみて懲りた。バイトならもっと他の引っ越し屋とか配送とかをしようと思っていた。
「うちは時給いいよ。おまけに希望なら住み込みでもいいんだ。部屋は辞めた子の部屋が一つ空いたとこだし」
「住み込みですか?」
 ちょっとその言葉にはかれた。僕はとにかく一刻も早く家を出たかった。
「ともかく時間があるなら一日だけでもやってみようよ」
 こうしてオーナーの強引さもあって、僕は一日だけバイトをすることになったのだった。

    ◇

 先に言っておくと。
 僕の母さんは毒母ではない。ただし、毒妻だった……らしい。

 初めてそれを知ったのは七歳の時だった。なぜ過去形なのかと言うと、その称号を得た毒妻はもうこの世にいないからだ。僕の母さんは、僕が一歳の時に死んでいる。
 どうして死んだのか、どこで死んだのか、何をしていた人なのか、僕は何も知らされてはいない。きっと幼い息子に言えないような死に様だったのだろう。
 一度だけ父さんに聞いた事があった。小学一年の時だ。
 父さんは小さな運送会社を経営していて、スーツが似合うなかなかのイケメンだった。
「お前の父さんシブいなあ」
 友達は口を揃えたようにそう言った。たまに学校行事に顔を出す父さんは、オールバックの髪に忙しい仕事を抜けてきた感を漂わせ、出来る男のイメージらしい。
 しかし、家で僕と二人きりでいる時の父さんを僕は心の中ではにと呼んでいる。毒にも薬にもならない無表情な顔で淡々と家事をこなす、遠い過去の無機質な土で固められただけの男だった。
 言葉数は少ない。
 どれだけ言葉少なく子育てをするかの極限に挑戦しているようにしか思えなかった。
 そしておそらくギネス記録に届く範囲にいると思う。
 だから話しかける時はいつも緊張した。
 しかしその日どうしても話しかけねばならない事案が持ち上がってしまった。
 小学校で自分の名前の由来を家族から聞いてくるという宿題が出たのだ。
「父さん、あのね、僕の名前をどうやって決めたのか聞くように言われたの。ほら、この宿題」
 僕は緊張しながら、学校から親に宛てた手紙を見せた。
「…………」
 父さんは無言のまま手紙を受け取った。
「僕の雅玖っていう字には何か意味があるの?」
みやび
「え?」
「母さんの名前が雅だった」
 父さんは紙にその漢字を書いてみせた。
 僕はこの時初めて母さんの名前を知った。
「そ、そうなんだ。でもどうして雅玖?」
「楽しい」
「え?」
「音楽のがくだ。最初、楽にするつもりだった」
「楽……」
「でもそれだとらくと読んでしまうだろうと言った」
 言ったのはたぶん父さんなんだろう。小学一年の僕は、そう推測するぐらいには父さんの言葉足らずに慣れていた。でも、父さんの顔に表れた微妙な変化に気づくにはまだまだ子供だった。そして初めて母さんの名前を知って、父さんと母さんが会話したらしい光景が見えた事に高揚して、僕の好奇心がかき立てられてしまった。
「ねえ父さん、母さんってどんな人だったの?」
 本当はずっと聞いてみたかったのだと、言葉にしてから自分の気持ちに気付いた。
 自分を産んだ人。
 小学一年という時期において、周りの友達が何より重要な位置づけにしている存在。
 僕の母さんはどんな人?
「…………」
 無言の父さんに僕は更に問うた。
「ねえ、母さんはいつ死んだの? どうして死んじゃったの?」
 うつむいたまま黙り込む父さんの顔をのぞき込んで、僕はハッと凍りついた。
 埴輪が大魔神に変わっていた。
 凶悪にゆがめられた顔はダンディな父さんの面影を忘れるほど恐ろしく、子供心にも見てはいけない物を見てしまったのだとおののいた。
 ぜんと固まる僕に父さんは搾り出すような声でつぶやいた。
「母さんの事は言うな」

 父さんとはあの日以来、母さんの話をした事はない。

 だが大魔神にへんぼうした父さんを見た日から悩み続けていた僕は、死んだ母さんの代わりに家事全般をやってくれているゆうおばさんに尋ねた。
「僕の母さんってどんな人だったの?」
 裕子おばさんは父さんの妹だけあってれいな人だった。今でこそ中年太りのおばさんになったが、その頃は綺麗なお姉さんという雰囲気で、気さくで優しい人だった。
 少なくとも、その頃の僕にとって母親代わりに世話を焼いてくれる大好きな人だった。
 その大好きで優しいおばさんが、母さんの話を持ち出した途端にはんにやのような顔に変わった。目はりあがり、口はへの字に曲がり鼻さえもけんのんに伸びたような気がした。
 僕はこの時以来、おばさんがどんなに優しげに微笑んでいても、その裏にこの顔が隠れているのだと警戒するようになった。

「あの人は最低の毒妻よ。兄さんの人生も私の人生も狂わせた。絶対許さない」

 この時発したのはそれだけだった。
 だが僕を打ちのめすには充分だった。
 自分を産んだ人間を神聖化するのは本能のようなものだ。僕も御多分に漏れず、母さんは綺麗で心優しい人だと思っていた。だから、その母さんから生まれた僕まで否定されたような深いショックからしばらく立ち直れなかった。
 僕はもう二度と母さんの事は誰にも聞くまいと心に誓った。しかし僕の気持ちとは裏腹に、裕子おばさんはそれから封印が解けたように思い出すたび言葉の端々に母さんの悪口を付け足すようになった。
 母さんの悪口を言う時の裕子おばさんは、邪悪なようかいのように毒々しいオーラをき散らし、僕の人間不信に一役かった。

 昔は確かにあれこれ世話を焼いてくれるおばさんに感謝していた時期もあった。おばさんがいなければ、男二人のこの家は荒れ果ててゴミ屋敷になっていた事だろう。少なくとも家事全般を死んだ母さんの代わりに引き受けてくれた裕子おばさんのおかげで僕は人間らしい幼少期を過ごす事が出来た。
 僕より二歳年下の従妹いとこりんを連れて毎日のように来るお蔭で、孤独な子供時代にならなかった。それには今でも感謝している。
 自分の家庭もあるのに、この家の家事まで引き受けて、なんて出来た人だろうと、僕の家の事情を知る人は口を揃えて褒めた。僕も心優しいおばさんだと信頼していた。そのおばさんの娘である架凜も妹のように大事にしようと思っていた。

 でも僕は中二のあの日、聞いてしまったのだ。父さんとおばさんの会話を……。

「ねえ兄さん、もう少し上げてくれない?」
「…………」
「ほら、雅玖ちゃんも育ち盛りで食べる量も今までとは違うのよ」
「…………」
「そうそう。部活で洗濯も一回じゃ済まないのよ。洗剤代だってバカにならないわ」
「…………」
 リビングのドアの隙間から聞こえる会話。
 父さんはおばさんの苦情に何か答えているようだが、よく聞こえなかった。
「この間なんて雅玖ちゃんの友達が五人も夕飯を食べに来たのよ。ほら、雅玖ちゃんも友達の家でごそうになったりしてるでしょ? こういうのは時にはお返ししないと、雅玖ちゃんにも立場ってものがあるじゃない。雅玖ちゃんのために私も架凜もすごく頑張って料理を作ったんだから」
「…………」
「うん。確かにあの時は別に一万もらったけど、それで足りたと思うの? 中学生の男の子六人よ」
 すっと血流が止まり、体温が下がっていくのが分かった。

『善意』ではなかった。
 裕子おばさんの僕に対する行いは善意ではなかった。
 仕事だったのだ。
 惜しみない愛情だと思っていたものは、すべて『労働』だった。

「おばさん若い男の子の食べっぷりを見るのが好きなのよ。さあ、どんどん食べてね」
 おばさんは僕の友達にそう言っていた。
「またいつでも遊びに来てね。大歓迎よ」
 そう言って送り出してもくれた。
 僕の食べっぷりにも「本当に男の子はよく食べてくれるから作りがあるわ」と目を細めて喜んでくれていた。まさかこんな風に父さんに請求を回しているなんて知らず、我が子のように僕を可愛がってくれているのだと信じていたのだ。

 結局この時おばさんが父さんから勝ち取った月々の報酬額は、食材その他必要経費込みだが、たぶんこの年代のおばさんがパートでもらう金額の二倍から三倍に近い額だった。
 すべてはお金をもらう為の労働だったのだ。

 僕はそれからは食事はコンビニで買うからいいと断るようになった。父さんにも部活の友達と食べて帰るから、おばさんの食事はいらないと伝えた。
 その後の交渉でおばさんの『給料』がいくらになったのかは知らない。
 今は留守の間に掃除だけをしている。

 その日までは、いくら母さんが毒妻だと聞いても、そのせいで人間嫌いになったりはしなかった。友人もいたし好きな女の子もいた。何人か告白されて付き合った子もいる。
 しかしその日を境に、僕の中の、人として大切な何かが詰まった扉が、立ち入り禁止の札を立てて固く閉ざされてしまったような気がする。

 それでも無難に高校生活を過ごし、なんとか社会のレールに沿って行動してきた。
 進学校に通う僕には勝ち組専用の画用紙が渡され、下書き通りになぞって色を塗れば、苦労せずとも誰もが称賛する絵が描けるはずだった。周りのみんなと大差ない似たような絵だが、下書きをなぞっておけば失敗することもなかった。
 人として大切な何かがなくとも、人生など楽勝だと思っていたのに。
 受験に失敗した僕は上手に下書きされた画用紙を取り上げられ、代わりに真っ白な画用紙を渡され今からは下書きなしに自分で描けと突き放された。
 真っ白な画用紙に描く題材を求めて、仕方なく立ち入り禁止の札をどけて扉の中をそっとのぞいてみると、そこには静かに蓄積されてきた人間不信の山がそびえ立ち、大きなれ物からうみはじけるようにあちこちで噴火をおこしていた。

 毒母の息子なのかと聞かれたなら、僕は毒、あるいは毒父の息子と答えるべきだろう。だがそんな人達に育てられる原因となったのは、毒妻であった母だったはずだ。
 そういう意味で言うなら、僕は確かに毒母の息子なのかもしれない。

    ◇

 渡された白Tシャツと黒エプロンに着替えて店内に戻ってくると、いつの間にか客席はほとんど埋まっていた。
「覇人さん、会いたかったーっ! 聞いて欲しいことがあったの」
「蘭丸くんのれたコーヒー、一日飲まないと死んじゃう~」
「瀬戸ちゃんのポテトサラダ、二日前に食べたのにまた食べたくなっちゃった」
 十一時のオープンと共に、市立大の学生らしい女性客がぞくぞくと入ってきた。
 みんな常連らしく、目当ての相手がいるようだ。そしてカウンター席から順番に、三十席ほどある客席があっという間に満席になった。店の外では入りきれなかった女性客が入り口の予約リストに名前を書いて立ち去っていた。しばらくどこかで時間をつぶして戻ってくるらしい。そこまでしても店に入りたいようだ。人気店だというのは本当らしい。
 こんな目立たない立地で意外だったが、学生だけじゃなく近所の主婦や年輩の夫婦なんかも交じっているから、料理が美味おいしいのかもしれない。
「雅玖くんはドリンクをお願いするね。蘭丸、雅玖くんに教えてあげて」
 僕はカウンターの中に入って黒髪センター分けのメガネ男にぺこりと頭を下げた。
 それに対して彼は「ちっ」と舌打ちを返した。え、感じわる。
「まずこの手袋をつけろ。しん兼道。一寸の光陰軽んずべからず」
 蘭丸は訳の分からない言葉を並べて箱入りのゴム手袋を差し出した。なんとなくだが早くしろと言っているらしいのは分かった。
 中には外科医が手術で使うような白いゴム手袋が入っている。蘭丸も手袋をはめていた。
 僕は仕方なく言われるままにゴム手袋をつけて蘭丸の横に立った。
 蘭丸は真剣な表情でコーヒー豆をいていた。決められた速度があるのか、慎重にミルを回して時折険しい顔で確認している。コーヒー豆を挽くというより、難しい外科手術をしているような深刻さだ。
「あの……それで僕は何をすればいいですか?」
「…………」
「あの……蘭丸さん」
「…………」
 え? 無視? こんなあからさまに? 目の前でお客さんも見てるのに?
 僕は言葉を失ったまま、ミルを回す蘭丸を数分間黙って見つめていた。
 やがて豆を挽き終えた蘭丸が「ふう」と息を吐いてから隣の僕をギロリとにらみつけた。
「あの……それで僕は何を……」
「豆を挽いてる時に話しかけるな。けいちようはくか」
 食い気味に注意された。なんだこの職人気質かたぎの男は。突っ込み言葉が意味不明だし。
「蘭丸さん……でも僕は……」
「さんとか付けるな! 気色悪い」
 どうしろって言うんだよ。
 ぜんとする僕に気付いた覇人さんが、カウンターごしに笑った。
「蘭丸は作業中に声をかけられるのが嫌いなんだ。誰にでもこういう態度だから気にしないでね」
「はあ……」
 蘭丸目当ての女性客も心得ているのか、カウンター席に座って黙ってうっとりとこの職人気質男の手元を見つめている。
「じゃあ雅玖くんはこのコップに水を入れてくれる? まだあっちのお客さんにお水を出してないから」
「はい」
 僕は前にあったコップを取って、氷を入れようとトングを手に持った。
「氷は三つ。左右交互にバランスよく重ねろ」
 突然横から声が響いた。
 蘭丸が挽き終えた豆から目を離さないまま指示した。作業中に声をかけるなと言うくせに、自分は声をかけるらしい。
(なんかヤなやつ)
 だいたい氷の数なんてどうでも良くないか? 僕だってコップからはみでるほど入れるわけもないし、適当に二、三個入れようと思ってたし。それに左右交互に重ねるってなんだよ。真っ直ぐ並んでたら味が変わるっていうのかよ。
 少しムッとしながら氷を入れて水を注いだ。
「水はコップの縁から三センチ下まで」
 またしても声が横からふってきた。
 こまかっ!
 いや、コーヒーにこだわるのはまだ分かるけど、水なんて入ってればよくない?
 ムカついている僕を見て、目の前に座る女性客二人がクスクスと笑った。
「あなた新しいバイトさん?」
「初めて見る顔ね」
 このカフェはカウンター席とちゆうぼうが近い。
 特にドリンクのコーナーは、遮るものもなくて一段低くなったカウンター内に立つと、ちょうど目線が同じぐらいになる。
「新しいバイトというか、今日だけです」
 すでに僕の気持ちは、この蘭丸とは仕事したくないという結論に傾いていた。
「そうなんだ。覇人さん好みのイケメンなのに残念」
「だってあなた普通っぽいもんね」
 普通っぽい。
 それって誉め言葉? それともここでは平凡でつまらないってこと?
 その平凡な僕をせせらわらうように、蘭丸はおもむろに胸ポケットから黒い布切れを取り出し頭に装着した。前髪一本すらこぼれないように布帽子の中に押し込む様は、かぶるというより装着という言葉がふさわしい。
 そしてゴム手袋の隣の箱からマスクを一枚取り出すと顔につけた。さらに別の箱から大ぶりなマスクをもう一枚取り出すと二重に装着した。
 次にメガネの上にルーペ型のメガネを重ねて、ゴム手袋の手を慎重に水で洗うと、後はどこにも触れまいとするように両手を上にあげている。もはやどこから見ても手術前の外科医だ。
 一体何が始まるのかと見ていると、除菌乾燥機のような青い光を発するケースからカップを一つ取り出すと、透明のドリッパーにフィルターと挽いた粉をセットする。それから口の細長いドリップポットに湯を入れて、高く掲げた。
 ピリピリと空気が張り詰め、カウンター席の女性客達も蘭丸の手元をかたんで見つめている。それはまさに待望のコンサートの始まりを待つオーディエンスのようだ。
 緊張感は生死をけた外科手術さえもりようしている。
 一体何を待っているのか分からないが、蘭丸はその体勢のまま一分ほども固まっていた。
 そして機が熟したとでもいうように、湯を注ぐ。だがすぐにポットを上げてフィルターの粉が膨れあがる様をじっと見つめる。
 女性客達はその険しい表情の蘭丸を、息を止めて見つめていた。
 いや、僕は何を見せられてるんだ。
 コーヒー一杯淹れるのに、ここまでの演出が必要なのか?
 やがて納得したようにうなずいて再びお湯を注ぎ始めた蘭丸を見て、ほうっと女性客達からため息のような歓声がこぼれた。なんなら拍手をしてもいいほど客席のテンションが上がっている。
 劇場型カフェ? ただコーヒーを淹れてるだけなんだけど……。
 やがて納得の一杯を淹れ終わると、蘭丸は愛想笑い一つ浮かべずにソーサーにのせてカウンター席の客に斜め四十五度の姿勢から差し出した。
「ありがとう蘭丸くん」
 今日一番最初のコーヒーを受け取った女性客はそれだけで満足そうだ。
 僕はそっとメニュー表に目をやった。
『蘭丸おまかせ特製ブレンドコーヒー 一〇〇〇円』
 たかっ!! コーヒー一杯が千円もするのか。
 続けて二杯目に取り掛かっているが、それは今受け取った女性客の隣に座る女性のコーヒーらしい。ドリンクコーナー前のカウンターに座る四人は、蘭丸のコーヒーだけを飲みにきたコアな信奉者らしかった。
「雅玖くん、ランチの前菜が出来たみたいなんだ。ちょっと運ぶ方を手伝ってくれる?」
「はい。分かりました」
 覇人さんに呼ばれて、蘭丸ワールドに一人入り込めなかった僕はホッとしてカウンターを出た。



尾道理子毒母の息子カフェ』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000197/


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