「まさか、こうきたか」幕が上がったら一気読み!
いま、最も注目される作家・芦沢央による驚愕・痛快ミステリ『バック・ステージ』。
9/21(土)の文庫版発売を前に、第二幕「始まるまで、あと五分」を大公開します!
第二幕 始まるまで、あと五分
「チケットを譲ってもらえませんか?」
澄んだ高い声が正面から聞こえてきたのは、開場まで三十分を切った十五時半のことだった。
「え、いやこれは……」
「いくらならいいですか? 三万円でどうですか?」
女の人はそこだけ聞けばあらぬ誤解を受けそうなセリフを口にし、奥田が答える隙も与えずにすばやく手を離して鞄から財布を取り出した。
「いや、あの」
奥田は〈中野大劇場ホール〉と書かれた看板横の壁に後ずさり、助けを求めるように視線を周囲に滑らせる。すると、女子高生の二人組と、よれた背広を着込んだ中年男性が目に飛び込んできた。その手にはそれぞれA4くらいの紙が掲げられている。
〈チケット買います〉
〈S席なら三万円〉
そこに書かれた文字から慌てて目をそらすと、横から袖をぐいと引っ張られた。先ほどの美人は、奥田が振り向くや否や嚙みつくような声音で叫ぶ。
「私、A席でも三万円出します!」
三万円、という言葉にまったく心が動かなかったといえば噓になる。明日も明後日も昼から夜までコンビニのバイトが入っていて、そこでの時給は九百九十円だった。
それに、と奥田はジーンズのポケットを押さえる。財布の膨らみを手のひらに感じた。中には、チケットが二枚入っている。脚本・演出 嶋田ソウ、主演 池田慎平、新里茜、原作 西山弘美──何度も眺めて覚えてしまった文字を思い浮かべながら、指先に力を込めた。
嶋田ソウの舞台はいつも即日完売してしまうことで有名で、しかも今回は男性アイドルグループ「ミニッツ5」の池田慎平と、初の主演映画で新人賞を総ナメにしたばかりの新里茜がダブル主演を務めているということで倍率が跳ね上がっていた。さらに、原作は十五年前から続いている宇宙戦争シリーズの作者である西山弘美が挑戦した初の歴史ものだ。告知直後からテレビでもネットでも話題になっていたし、観客の年齢層も幅広い。
前売りは、販売開始前からパソコンに張りついて購入ボタンをクリックし続けたものの、ようやくサイトにアクセスできたときには既に売り切れてしまっていた。今持っているチケットは、今朝の始発前から並び続けて何とか当日券を入手したものだ。
──もし、
奥田はごくりと生唾を飲み込んだ。──彼女が来なければ、俺はただの紙切れになってしまった彼女の分のチケットを手に、この舞台を一人で観ることになる。
「知り合いが出演することになっていてチケットを手配してもらっていたはずなんですけど……何か手違いがあったみたいで」
女の人は長いまつ毛を伏せ、悔しそうに唇を嚙みしめた。奥田は、ジーンズのポケットに指先を差し入れる。
──たぶん、伊藤は来ない。
脳裏に浮かんでいたのは、最後に見た伊藤の顔だった。つき合ってほしいと告げた奥田に、『ごめんなさい』と謝った彼女の頑なに伏せられたまつ毛。
今朝、当日券を入手してすぐに、伊藤にはメッセージを送っていた。だが、しばらくして既読はついたものの返信が来ない。
やっぱり、彼女は振ったばかりの男とのデートに来るつもりはないのだ。
だとすれば、ここでこの女の人に売ってしまうべきなのだろう。こんなに欲しがっているんだし、それに──どうせこのままでは価値のないゴミになってしまうはずのものなのだ。
だが、奥田は考えとはまったく逆の言葉を口にしていた。
「すみません、人と約束してるんで」
言い終わった途端、そんな自分に驚いてしまう。俺、何言ってんだ? 女の人の目からふっと光が消える。
「そうですよね、ごめんなさい」
あ、と思ったときには遅かった。女の人は肩を落として頭を小さく下げ、ふらふらとよろめくような足取りで去っていく。
奥田は、その頼りないほどに華奢な後ろ姿を視界からしめ出すために目をきつくつむった。
伊藤が来るはずなんてない、ともう一度口の中でつぶやく。何度も繰り返してしまうのは、そうしなければつい期待してしまいそうだったからだ。
だって彼女は、この舞台の情報を話したとき、目を輝かせていた。どうしようそれ絶対行きたい──まだチケットが取れたわけでもないのに、その場で手帳に予定を書き入れて何重にも丸で囲んでいた彼女。
──どうして、告白なんてしてしまったんだろう。せめてこの舞台が終わった後にしていれば、伊藤は何も気にせずにこの舞台を観ることができたはずなのに。
自分の彼女への気持ちが、他でもない彼女から楽しみを奪ってしまうのかもしれないと思うといたたまれなくなった。
奥田はジーンズのポケットからそっと手を離し、拳を固める。
──違う、本当に伊藤に悪いと思うのなら、彼女に二枚ともチケットをあげてしまえばいいのだ。
だけど、自分はそうしない。なぜなら、彼女が観たがっている舞台のチケットを持っていれば、また会ってくれるかもしれないというせこい思惑があるからだ。
反対側のポケットから携帯を引っ張り出す。ゆっくりと指を滑らせて着信履歴を遡っていくと、二カ月前に自分の手で登録した名前が現れた。
伊藤みのり。
──もう気持ちの整理はついたから、と伝えるべきだろうか。
奥田は携帯を握りしめた。だからデートとかそういうんじゃなくて、ただの友達として遊んでよ。せっかくチケットも取れたんだし、とりあえずこれは観に行こうぜ。そうあっけらかんと言ってみせれば、伊藤も来やすくなるんじゃないか。だが、唾を飲み込んだところで、携帯のディスプレイが暗転する。慌てて電源ボタンを押すと、ロック画面が現れた。
解除しようと親指を乗せるのに、指はぴくりとも動かない。たとえ彼女が電話に出てくれたとしても、用意したセリフをきちんと口にできるとは思えなかった。
だって俺は、まだ気持ちの整理なんて少しもついていないのだから。
伊藤に振られたのは、五日前のことだった。
「そう言えば、俺たち、つき合ってるってことでいいんだよね?」
奥田は、腹に力を込めてできるだけさりげなく響くように言った途端、パニックになりそうになった。真一文字にかたく結ばれた唇、伏せられたままのまつ毛──彼女の表情の意味が、すぐには理解できない。
黙り込んでしまった伊藤を前に、奥田はどうしたらいいかわからなくなってコーヒーカップをつかんだ。口をすする形にしてあおるが、コーヒーは一滴も流れ落ちてこない。カップをテーブルに置き、妙に渇いて仕方ない喉に唾を押し込んだ。
伊藤は、うつむいたまま微動だにしない。彼女の頰は微かに強張っていた。困惑、失望、不快感──彼女の表情が主張する感情が単語として脳裏に浮かんでしまい、慌てて打ち消す。
彼女との間に落ちた沈黙を埋めようとするかのように、周囲の喧騒が今さらながら押し寄せてきた。平日午後三時の喫茶店には、奥田たちのような大学生の他は明らかな大人しかいない。湯気の立ちのぼるカップから口を離さずに宙を見つめているサラリーマン、両肘をテーブルについて携帯をいじっているスーツ姿の女の人、腰に子どもを巻きつけるように抱っこしてケーキをつつき合っている母親たち──
背中にどっと汗が噴き出るのを感じた。場所がまずかったのだろうか。たしかに、ムードが足りなかったかもしれない。せめて店の中ではなく、会話が他人に聞かれないところで切り出すべきだったのかもしれない。
奥田は、視線を伊藤の手元へ向ける。彼女の手の中には、直前まで話題の中心になっていた小説が鎮座していた。二人のお気に入りの作家の新刊で、ここに来る前に駅ビルの書店で買ったものだ。
この場で鞄から出したのは、どちらかが読むためではない。裏表紙に書かれた内容紹介だけを見てストーリーを想像し合うためだった。
お互いの考えたストーリーを披露し終えたら、片方が本を持ち帰って中身を読み、ニヤニヤしながら次のデートのときに相手に本を渡す。相手も読み終わったら、さらに次のデートで予想との違いを含めて本の感想を語り合う。読み終わった本は奥田の一人暮らしのアパートに持ち帰り、伊藤が読み返したくなったら奥田の家に来る、というのが二人の間にできた暗黙のルールになっていた。
言いたくなってしまったのだ。目の前の小説が恋愛モノだったせいもあるかもしれないけれど、彼女が嬉々として自分の考えたストーリーをしゃべるのを見ていたら、どうしても確かめたくなってしまった。
それに、と、奥田はある男の姿を思い出していた。十日ほど前に、
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