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試し読み

突然声をかけてきた男性を、振り払うような彼女の態度に、気になって仕方がない奥田だった。/ 芦沢央『バック・ステージ』試し読み②

「まさか、こうきたか」幕が上がったら一気読み!

いま、最も注目される作家・芦沢央による驚愕・痛快ミステリ『バック・ステージ』
9/21(土)の文庫版発売を前に、第二幕「始まるまで、あと五分」を大公開します!

>>前話を読む

 二人で書店を出て、いつもの喫茶店に移動しようと歩いていると、彼女が小さく息を吞んだ。見開かれた彼女の両目につられて奥田も振り返る。
 だが、彼女が目にしたものを見つけられないうちに、袖を強く引かれて視線を前に戻された。
『奥ちゃん、行こ』
『え?』
 動揺しながらも足を前に踏み出した瞬間、
『おい、待てってば!』
 突然背後から声が追ってきて、伊藤の肩がびくりと揺れた。伊藤はぎこちなく首を回して声の方へと振り返ってから、かすれた声でつぶやく。
『……コウスケさん』
『ちょうどよかった、今からおまえんちに行こうとしてたんだよ。俺、こないだのたこ焼きパーティーのときに論理学のノート忘れなかった?』
『帰ったら捜してみるから』
『あ、それとおまえとのトーク履歴が見つからないんだけど、』
『ごめんなさい、今ちょっと急いでるからまた連絡するね』
 男のセリフを途中で遮り、踵を返す。
 明らかに不自然だった。次は喫茶店に行くつもりだったのだから、それほど急ぎの用があるわけがない。
 奥田は、何の説明もせずにひたすら前に進んでいく彼女を追いかけながら、ぽかんと口を開いたまま立ち尽くしている男を振り返った。
『今の人は? いいの?』
『大丈夫、サークルの先輩だから』
 伊藤は前を向いたまま、独り言のように答えた。
『そっか』
 答えになっていないと思いながらも、奥田は何も気にしていないそぶりであっさりとうなずいてみせる。だけど本当は、気になって仕方なかった。先輩相手なのに、どうしてタメ口なのだろう。本当にただの先輩なのか? あの男と何かあるんじゃないの? 奥田は心の真ん中に浮かんだ疑念を必死に飲み込んだ。そんな彼氏気取りのセリフを口にできる立場ではないとわかっていたからだ。
 だけど、それ以来、奥田の中に消せない焦りがくすぶり始めた。もし、伊藤とあの男の間に何かあるんだとしたら──今はまだつき合っていないとしても、このままでは時間の問題なんじゃないか?
 せめてあの男よりも早く告白しなければ、と考えるようになったのはそれからだった。今ならまだ、彼女の気持ちを動かすことができるかもしれない、と。

「いきなりごめん。でもずっと言おうと思ってたんだ。俺とつき合ってほしい」
 ひと息に言うと、どくんと心臓が大きく跳ねた。さっきと言い方は違えど内容は同じはずなのに、急に鼓動が激しくなっていく。目の前がチカチカして、指先が震えるのがわかった。
 伊藤は静かに肘を伸ばして、テーブルの上に本を置いた。珍しく、水滴の上に無造作に載せたので、あ、と思う。だけど、そんなことを指摘するような空気じゃない。
 伊藤は置いた本から手を離さず、表紙をじっと見つめた。
「いつから」
「え?」
「いつから、好きでいてくれたの?」
 そこに書かれた文字を読み上げるような、感情を悟らせない静かな声音に、奥田は見えない壁に張りつけられたように動けなくなる。
 試されているような気がした。この答えによって、つき合うかどうかを決めるというような。二カ月前から。中学のときから。二つの答えが瞬時に浮かび、奥田に選択を迫る。
 迷った挙句に、奥田は答えた。
「中学のときから」
 口にした瞬間、奥田は自分が選択を間違えたことを直感した。強すぎるほどの力で本を見つめていた伊藤の瞳が、ワイパーを逆戻しするかのようにすっと曇ったからだ。でも、何を間違えたのかがわからない。どうしてだろう。普通は、ずっと好きだったという方が嬉しいものなんじゃないのか。
 伊藤は、つるりとした表紙を指先で撫でた。
「奥ちゃんは、わたしのことをよく知らないから」
 奥田は、から、のあとに続く言葉を待ってしまい、数秒してそこで終わりなのだと気づいて「え」とつぶやく。
 奥ちゃんは、わたしのことをよく知らないから。彼女の声が頭の中を反響するようにぐるぐる回って溶けていく。よく知らないから。それが典型的な断り文句だというのはわかるのに、自分に向けられた言葉だという実感がどうしても湧いてこなかった。
 だって、最低でも週に一度は二人で会うようになってから、もう二カ月近く経っている。二人で一晩中飲み明かしたこともあって、一人暮らしの家に来たこともあって──キスをしたり手をつないだりしたことはなかったけれど、少なくとも、よく知らないという理由が成立しないほどには会ってきたはずだった。
 奥田はすがりつくように水のグラスをつかみ、口をつけた。喉をそらし終える前に、飲み干していたことを思い出す。それでも引っ込みがつかずに真上まで向いてグラスを逆さまにした。空のグラスの底に張りついた氷がぐるりと半周し、そこで止まる。
 何となく気まずくて、音を立てないようにグラスをテーブルに戻すと、目の前に水のグラスが差し出された。
「あ、ありがとう」
 顔を上げると、ようやく伊藤と目が合う。けれど、合ったと思った瞬間には既にそらされていた。腹にぐっと押されたような衝撃がきて、押し出されるようにして、は、と短く息が漏れる。ごまかすように乾いた笑いを続けて「てか何言ってんの」と頰を笑顔の形に意識的に緩めてみせた。
「よく知ってるじゃん。ほら、今だって絶妙な間合いだったよ?」
 茶化す口調で言って、伊藤の水をひと口もらう。冷えた水が食道を通っていくのを妙にくっきりと感じた。
 ──それに、もし俺のことを生理的に受けつけないのであれば、自分が口をつけたグラスを俺にも使わせたりするだろうか?
 わざと極端な可能性を浮かべて消去する。するとできた隙間に入り込むようにして別の可能性が浮かんできた。ただ単に、同じグラスを使っても気にならないほど男として見ていないということかもしれない。いや、だとすればそう言えばいいはずだ。よく知らないなんて、いかにも口実めいた理由よりは──それとも、俺が傷つくと思ったんだろうか。
「わたしが奥ちゃんを、じゃなくて、奥ちゃんがわたしをって言ったの」
「どっちでも、俺としてはだいぶわかり合えてきたんじゃないかと思ってたけど」
 思わず責めるような口調になってしまい、咄嗟につけ加える。
「それに、俺はよく知らない女の子に告白するような人間じゃないよ」
 そう言ってから、さらに責めるような構図になってしまったことに気づいた。こんなことが言いたいわけじゃないのに、と悔しくなる。自分の気持ちを上手く伝えられないことがもどかしかった。
「こんなところで急に話し始めて悪いとは思ってるよ。でも、その本を持って楽しそうに話してるみのりを見てたら、我慢できなくなった」
 奥田は、耳の裏が熱くなっていくのを感じながら、湿った手のひらをジーンズの太腿に押しつけて息を吸い込んだ。伊藤が視線を揺るがせる。何かを堪えるように唇を嚙んだ。それからゆっくりと、縫い目をほどくように口を開いていく。奥田は生唾を飲み込んで彼女の答えを待った。
 けれど伊藤が口にしたのは、告白への返事ではなかった。
「奥ちゃん、わたし、みのりって呼ばないでって言わなかった?」
 その説き伏せるような口調に、身体の軸から熱が消えていくのがわかる。
「ごめん……伊藤」
 奥田はどうにかそれだけをつぶやいた。伊藤は本から手を離し、椅子の背にかけていたショルダーバッグを身体の前に抱き寄せる。肩を小さく縮め、首を折り曲げるようにして頭を下げた。
「わたしこそごめんなさい」
 胸がぎゅっとつかまれたように痛む。謝ってほしいわけじゃない。こんな顔をさせたくて告白したわけじゃない。どうしてこんなことになってしまったのかがわからなくて、けれど、自分が何かを勘違いしていたんだということだけはわかった。
 奥田は呆然と宙を見つめながらつぶやく。
「……あいつが好きなの?」
「あいつ?」
「こないだ、大学の近くで会った人」
「何言ってるの。コウスケさんはただの先輩だって言ったじゃない」
「先輩相手なのにタメ口なんだ?」
「そうしなきゃ怒る人なんだって」
 伊藤は不愉快そうに顔をしかめた。奥田は何と続ければいいのかわからずに黙り込むしかできない。伊藤は視線を手元に落とし、鞄から財布を取り出した。
「わたし、今日はもう帰るね」
 そう言いながら蝶々のモチーフがついたがま口を開ける。
「いいよ」
 奥田は、声が震えないように喉に力を込めて言った。
「このくらいおごる」
「でも……」
「ごめん、払わせて。俺のせいで楽しかったのが台なしになっちゃったから」
 伊藤は動きを止めた。迷うような間を置いてから、がま口を閉じる。パチン、と金属音が響くのを聞きながら、そんなことないよとは言ってくれないんだなとぼんやり思った。そう思ったことで、否定されたくてわざと台なしという言葉を選んだのだと気づいて、一層消え入りたくなる。
 伊藤は、じゃあ、ごちそうさまです、と小さく言って席を立ち、テーブルの上から本を取り上げた。数秒の間、何かを考え込むように表紙を見つめてから、奥田の顔の前に差し出す。
「はい」
「いや、今回は伊藤の番だろ」
 奥田は手のひらで本を押さえるように制しながら、伊藤を見上げた。伊藤は強張ったままの表情でさらに本を前に突き出す。
「奥ちゃんが先に読んでいいよ」
 先に、ということは、もう会わないというつもりではないのだろうか。奥田はそう思うや否や受け取っていた。本を通して物理的につながった瞬間、あ、と伊藤を見上げる。次は、と言いかけた口をかろうじてつぐんだ。
 伊藤が首を傾げる。
「何?」
「……何でもない」
 奥田がそう答えたのと、伊藤の手が本から離れるのが同時だった。伊藤はそのままテーブルを離れ、ゆっくりとした足取りで喫茶店を出て行った。

〈第3回へつづく〉

ご購入はこちら▶芦沢央『バック・ステージ』|KADOKAWA



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