【カドブンレビュー9月号】
絵画において、動きのあるものを鉛筆などで素早くスケッチすることをクロッキーというが、作者の芦沢央が一瞬の情景を速写する様は、まさにクロッキーを描くのを見ているかのようだ。
輪郭を写し取る線の数は必要最小限。しかしその一本一本が、太くくっきりとしている。
物語の中で何枚かのクロッキーを見せられるうちに、決してステレオタイプでない登場人物たちの日常や思いが、連続写真を見るかのように立ちあがって来る。
そんな芦沢央の連作短編集『バック・ステージ」は、日常を舞台にした“人が死なないミステリー”だ。
特に2本目の短編「息子の親友」がいい。
小学生の長男・浩輝の授業参観にやって来たシングルマザーの望。息子から親友だと聞かされていた同級生の母親・志帆子を下駄箱の前で見つけて声をかける。しかし志帆子は、望が誰の母親なのか分からない様子だ。それどころか、二人の息子同士が親友であることすらも知らなかった。望が感じる恥ずかしさと気おくれ。そこに志帆子と仲がいい母親が現われて、会話をさらっていく。それをどうしようもなく見ている時のいたたまれなさ。
下駄箱前のほんの数分を描いたスケッチだけで、読者は一気に心をつかまれてしまう。そして、読み手自身の似たような思い出まで蘇り、主人公の望と苦い思いを共有してしまうのだ。
その後のサッカーの授業では、志帆子の息子が活躍する一方、望の息子・浩輝は、コートのはじっこを行ったり来たりするだけで、全くゲームにからむことができない。息子同士、会話を交わす気配もない。そこで初めて望は、「息子同士が親友」というのは嘘なのではないかと思い到るのだ。望自身もスポーツ万能で活発な志帆子の息子と、地味でおとなしい自分の息子が友だちになってくれたらと願っていたこともあり、ショックは大きい。いったいなぜ息子は嘘をついたのか? 活発な二男を頼もしく思い、おとなしい長男をふがいなく思ってはいなかったか? 自分の子育ては間違っていたのではないか。何よりもまず、「息子同士仲がいい」のかどうか、あとで志帆子が子どもに確認してしまうのではないか。そうすると浩輝は変なヤツと思われないか。望の心は千々に乱れる。
しかし、作者が描き出す最後のクロッキーを見せられた時、謎が明らかになるとともに、景色が一変する。そして、今まで見せられて来た絵をもう一度見返してみると、弱々しく微笑んでいるように見えていた息子が、全く違った表情をしていたことに気づかされるのだ。
短編の中でこんな芸当ができるのは、優れたクロッキーが描ける芦沢央ならではだ。
そして、この作品中の他の短編でも、読者は同じような体験をすることができる。
横暴な上司の不正を暴こうと奮闘する正義感あふれるスーパーウーマンの本当の姿とは?
好意はあるようなのに、決して一線を踏み越えて来ない元同級生の真意とは?
ぜひ作者の抜群の描写力と、風景の逆転を味わってほしい。