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試し読み

『いつから、好きでいてくれたの?』『中学のときから』彼女は、俺の告白の言葉をどう聞いたのだろう。 /芦沢央『バック・ステージ』試し読み⑤

「まさか、こうきたか」幕が上がったら一気読み!

いま、最も注目される作家・芦沢央による驚愕・痛快ミステリ『バック・ステージ』
文庫版発売を記念して、第二幕「始まるまで、あと五分」を大公開します!

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 携帯の光が消えると電源ボタンを押し、デジタル時計が表示されるのをぼんやり眺めているとまた光が消える。
 十五時四十分。
 奥田は両目を閉じて細く長く息を吐いた。それと同時に身体の中で淀んでいた何かも少しずつ吐き出されていく気がする。吐き出すものがなくなるまで吐き出してしまうと、新しい息を吸い込みながら目を開けた。
 ──やっぱり、二枚とも伊藤にあげてしまおう。
 そう決意するとすばやくメッセージを打ち込み、送信する。携帯をポケットに突っ込んで空を見上げた。肩にかけたトートバッグが急に重みを増す。中には西山弘美の本が五冊入っていた。既に書店では絶版になっていて買うことができない幻のシリーズで、歴史ものではなくファンタジーであるが、今回の舞台と設定が少し似ている。もし伊藤が来てくれたなら、舞台を観た後に比較しながら話し合いたいと思っていた。
 ──だけど、これももう必要ない。
 奥田は足を引きずるようにして劇場前を後にする。右、左、右、左。意識して動かさないと、立ち止まってしまいそうだった。
 横断歩道を渡り、ファストフード店の角を曲がる。そのまま道沿いに数分歩くと、所々に黒いひびの入った白い建物が現れた。ブックポスト、という赤い看板を横目で見ながら、自動ドアをくぐる。
「こんにちはー」
〈本を返すところ〉と書かれたカウンターから、ゆったりとした声が飛んでくる。奥田は小さく会釈を返しながら、エプロン姿の図書館員の前に立った。トートバッグの口を開き、文庫本五冊を鷲摑みにしてカウンターに置く。
「ありがとうございました」
 低くつぶやいて踵を返したところで、自分がライトノベルをカウンターに返すのは初めてだと気づいた。
 中学生の頃は、たとえ図書館が開いている時間でも必ず袋ごとブックポストに突っ込んでいた。返すところを誰かに見られるのが怖かったし、返却カウンターで図書館の人に本を見られるのも恥ずかしかったからだ。
 奥田は一気に軽くなったトートバッグを肩にかけ直すと、自動貸出機の脇を通ってヤングアダルトコーナーへと向かった。並んだ本の背に視線を滑らせる。奥田の地元は長野で、だから当然、ここは奥田が中学生の頃通っていた図書館ではない。だけど不思議と、棚から受ける印象は懐かしかった。
 まだシリーズを買い揃えるほどのお金もなかった中学生の頃、ヤングアダルトの棚の前に立つたびにわくわくした。目の前にある本がどれでも読み放題なのだと思うと胸が高鳴り、借りられる上限の十冊を選ぶのが楽しみだった。
 だけどいつも、棚の前には三分くらいしか立っていられなかった。もし、他にも学校を遅刻して図書館に来る人がいたら。それが自分のことを知っているやつで、自分がこの棚の前にしゃがんでいるのを見たら。そう思うと落ち着かなかったからだ。
 今は、この棚の前にいても誰かに目撃されるのではないかという不安は湧いてこない。あの頃より歳をとったからだろうか──違う。伊藤と出会ったからだ。
 彼女と本の話をするようになってから、自分にとって好きな本を読むことは後ろめたいことではなくなったのだ。
 鼻の奥がツンと痛んで、天井を仰いで大きく息を吸い込んだとき、
「あの、すみません」
 ふいに背後から声が聞こえた。ハッと振り向く。けれど、その声は奥田に向けられたものではなかった。
 奥田と声の主である小学生の男の子の間にいたのは、図書館員らしき女性だった。
「はい、何でしょう?」
 エプロン姿の女性は、少年の前にほんの少し腰を屈めた。
「……あの、この本がどうしても読み終わらないから、借りたいんですけど」
 黒い短パンに黒いブレザーを着て背中にランドセルを背負った男の子は、腕の中に大事そうに抱えた本を女性に示してみせる。奥田は反射的にその本を見た。
『おもしろくてタメになる! 仏像のヒミツ』
 ──また、ずいぶんと渋い本を。
「貸出カードを作りたいってこと?」
 図書館員らしき女性は、小首を傾げる。
 少年が「はい」と小さくうなずくと、女性は柔らかく微笑んだ。
「何か身分証とか……そうだ、保険証は持ってない? それでカードが作れるよ」
 そのセリフを聞いた瞬間だった。
 脳裏に、ある光景が蘇る。
 それは、伊藤とレンタルビデオ屋に行ったときのことだった。
 その日は、いつも借りられてしまっている人気アニメ映画のDVDが返却されていて、奥田たちは大はしゃぎで確保した。だが、いざ借りる段になってレジに行くと、奥田は財布を忘れてしまっていることに気づいた。
『ごめん、伊藤、カード持ってない? お金はあとで払うから』
『え? 持ってないけど』
『あ、すぐに作れますよ』
 顔を見合わせた奥田たちに、店員が弾んだ声で言ってパンフレットを広げた。
『登録費も年会費も無料ですし、申込書だけお書きいただいて、あとはお名前と住所が確認できるものをご提示いただくだけで』
『わたし、免許証持っていないんですけど』
『あ、健康保険証や学生証でも結構ですよ』
『……持っていません』
『え、持ってないの?』
 奥田はぎょっとして伊藤を振り返った。彼女は、叱られた子どものようにうつむき『家にはあるけど』と唇を尖らせる。その仕草がかわいくて、奥田は思わず噴き出した。
『それじゃいざっていうとき困るだろ』
『だって……なくしたら困るじゃない』
 奥田は再び噴き出してしまう。
『いやいや持ち歩いてない方が困るって』
『……いつもは持ってるの。今日はたまたま忘れちゃっただけで』
『彼氏さんは身分証明書はお持ちですか? ご提示いただければ仮カードでもお貸しできますよ?』
 店員が身を乗り出して言った。
『あ、それも財布に入ってるんで』
 奥田は、彼氏、という響きに頰が微かに熱くなるのを感じながら答える。結局、仕方なくDVDを取り置いてもらって一度家に財布を取りに帰った。
 ──どうして、伊藤はいつもは持ち歩いているという健康保険証や学生証をあの日に限って忘れていたのだろう。
 そこまで考えたところで、何かが微かに引っかかる。
『中三のとき、市立図書館で見かけたことがあったから。西山弘美の新刊を持ってたから好きなのかなって』
 再会してすぐに彼女が口にした言葉が頭の奥で響いた。
 自分は、市立図書館にはみんなが授業を受けているはずの──同じ学校の知り合いがいないはずの時間にしか行かなかった。つまり、彼女が自分を見かけるとしたら、自分と同じように遅刻するしか方法がなかったということになる。
 ──だけど、伊藤みのりは皆勤賞をもらっていたはずなのだ。
 ぼんやりと浮かんだ像が、少しずつ形を取り始める。
 なぜ、伊藤はみのりと呼ばれることを嫌がったのか。
 なぜ、伊藤はサークルの先輩だというあの男を避けたのか。
 コウスケさん──伊藤の声が蘇る。
 伊藤もまた、下の名前で呼ばれていたんだとしたら。
 大学のサークルでは苗字ではなく名前を呼び合うことが多い。彼女のように同じ苗字の人が多い場合なら、きっとなおさら。
 奥田は震える手で携帯を取り出した。ロックを解除すると、目の前には、さっきから何度も開いていた発信履歴の画面が現れる。
 伊藤みのり。
 その名前を登録したのは、自分だった。そして、コウスケという男の『トーク履歴が見つからない』という言葉。
 奥田は、愕然と画面を見下ろす。
 伊藤が、すぐにはIDを教えてくれなかった理由が、IDの中に自分の名前が入っていたからだったとしたら?
 奥田の学年には、伊藤が三人いた。
 弓道部の伊藤みのりと、バスケ部のキャプテンの伊藤裕也と、優等生の伊藤祥子。彼女が伊藤だと名乗ったとき、奥田はすぐにみのりの方だと思ってしまった。かわいい顔立ちと言えば、伊藤みのりだと思ったし、みのりの方が印象が強かったからだ。
 だけど、もし彼女がだったとしたら。
『いつから、好きでいてくれたの?』
『中学のときから』
 ──彼女は、俺が告白したときの言葉をどう聞いたのだろう。
 奥田は入口まで移動して発信と書かれたスペースをタップし、携帯を耳に押し当てた。発信音が妙に長く感じられる。プツッと音が途絶えると、『はい』という静かな伊藤の声が聞こえた。
「ごめん、俺」
 うん、という何かを嚙みしめるような声音が返ってきて、頭の中が真っ白になってしまう。目をきつくつむり、がむしゃらに空気を吸い込んだ。
「俺、一つ噓をついてたんだ。伊藤のこと、中学の頃から好きだって言ったけど、本当は二カ月前からで……」
 そこで言葉が止まる。俺は何を言いたいんだ? こんなことより、もっと言うべきことが他にあるはずなのに──
『わたしは、中学の頃から好きだったの』
 奥田はハッと目を開けた。え、という小さな声が喉から漏れる。
『ずっと憧れてたけどあの頃は話しかけたりできなくて、だから再会して二人で話せるようになったのがすごく嬉しくて……』
 視界に、すっと影がさしたのと、「続きは直接でもいい?」という声が二重にぶれて響いたのが同時だった。
 顔を上げると、目の前には伊藤がいた。
「……何で」
 ここに、と続けた声がひどくかすれた。伊藤は長いまつ毛を伏せる。
「ごめんね、劇場前まで行ったんだけど、何て声かければいいかわからなくて……いろいろ考えているうちに、奥ちゃんが移動し始めたからついてきちゃったの」
 彼女は語尾を震わせ、ゆっくりとまつ毛を持ち上げた。それでね、と硬い声で続けて、奥田を見る。
「わたしも、奥ちゃんに噓をついてて、」
「祥子って呼んでもいい?」
 奥田は、かぶせるように言っていた。彼女の目が大きく見開かれる。
「……気づいてたの?」
 奥田は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「今、気づいて電話したんだ」
 祥子の顔が、ゆっくりとほころんでいく。奥田は詰めていた息を吐き出し、唇を開きかけたところで、ハッと息を吞んだ。
 二人同時に、手の中の携帯を見下ろす。
 十六時五十五分。
 またしても二人同時に、顔を見合わせた。
 ──舞台が始まるまで、あと五分ある。

つづきは製品版でお楽しみください!▶芦沢央『バック・ステージ』|KADOKAWA



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