元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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恐怖と期待の中、じっと待っていると彼は拳を降ろしぽかんと口を開けた。見慣れた彼の顔だ。わたしが顔を庇う腕を、ゆっくり膝に落とすと、やがて貴之さんのそれは嘲笑へと変貌した。
「知るか、ボケ。」
ボカッッ!
存外間抜けな音がするのだなと、ぼんやり思った。
視界が暗転する。
……次に目を覚ましたら、貴之さんの匂いの中だった。体を起こし、あたりを見回すと、窓の外はすっかり夜だった。わたしは毛布を肩までかけられ、ソファーで眠っていたようだ。
「あ、起きたんだ、要ちゃん。」
「貴之さん。」
声のする方を見ると、台所から貴之さんが顔を出した。その手にはふたり分のコップが握られており、中には水が入っていた。
貴之さんが台所を抜け、コップを差し出してくる。その瞳には後悔と罪悪感が見て取れる。コップを受け取り、水をひと口飲むと、張り詰めた空気がほっと和らいだ気がした。やがて中身が空になると、貴之さんはそれを受け取り、テーブルに置いた。そして、深く頭を下げた。
「本当にごめん。俺、やり過ぎたよ……召命が、頂けなくて、焦ってた。でも、だからってイライラを要ちゃんにぶつけちゃ駄目だよね。」
「あ……、いいんです、貴之さんが召命を頂けないのはわたしのせいです。よければ、もっと勉強させてください。」
これは本心だった。理解力の劣るわたしに、貴之さんは根気よく聖書を教えてくれる。
「うん、もちろん。……あのさ、俺は聖職者になりたいから、結婚とかはできないけど……、要ちゃんがちゃんとしてくれたら、ずっと一緒にいたいと思ってる、よ?」
貴之さんの顔が、ほんのり赤くなる。浮かべた照れ笑いはどこか幼く、わたしもつられて顔が熱くなった。
「本当ですか? わたし、選ばれるようがんばります。」
「うん。」
「それにしても、すっかり夜ですね。わたし……、」
「うん、四時間近く眠ってたよ。終電、なくなっちゃったね。」
貴之さんがちらりと掛け時計に目をやる。時間は深夜二時を回っていた。これ以上お世話になるわけにはいかないだろう。
幸い、スマートフォンにはタクシーの配車アプリがインストールされている。それを使えば問題なく帰宅できるだろう。
「すみません、遅くまで気絶しちゃって。わたし、もう帰りますね。」
毛布をたたみ、ソファーから立とうとすると、貴之さんの手がわたしの手をぎゅっと握った。あまりにもやさしい静止だった。視線が泳ぎ、手には汗が滲んだ。
「駄目だよ。女の子、こんな時間にひとりにできないから。」
「で、でも、タクシー呼ぶから平気ですよ。」
「運転手さんだって、安全な人ばかりとは限らないし……。」
たしかに、タクシーの運転手からセクハラ行為をされるというのは、少なくないらしい。だが車を持った知り合いなどいないし、万が一いたとしても、こんな時間に呼び出せはしないだろう。困っていると、彼は口を開いた。
「……泊まってく?」
「!……い、いいんですか……?」
思わず視線を寝室にやる。
あそこはわたしが下着を盗みに入った場所だ。神聖な、貴之さんのプライベートゾーンだ。
「もちろん。……でも、ベッド、ひとつしかないから……。」
「わたし、床で寝ます!」
「要ちゃんを、床で寝かせるわけにはいかないよ。ベッド、使って。」
そんなことはさせられない。「家主を差し置いてベッドなんて……。」と遠慮を見せると、食い下がるわたしに業を煮やしたのか、彼はぎゅっと握った拳を見せた。つい肩が揺れるが、貴之さんはにっと笑った。
「あー、じゃ、じゃんけんしようか。勝った方がベッド、負けた方がソファー。これで平等だ。」
素敵な提案だ。わたしはじゃんけんに自信がない。それがこんなにも心強いとは。
「わかりました!」
ここは負けて、貴之さんにベッドで寝てもらおう。
「じゃんけんぽん!」
ふたりの掛け声が響く。
ここでわたしは、友人同士のじゃんけんのように負けるはずだった。
だが、この結果は予想外だった。
(つづく)
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