元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
>>前話を読む
◆ ◆ ◆
人がなにかを得ることで、なにかを失ったとき、いつまでも残るのは、「信仰」、「希望」、「愛」。
その中で最も大切なものが、「愛」だと、貴之さんは教えてくれた。
愛そのものになり果てたわたしたちは、以前より多くの時間を過ごすようになった。
だけれど、貴之さんは苛烈なままだ。
「何回言ったらわかるんだ。やっぱり、馬鹿に人の言葉は難しかったか?」
「ごめんなさい……。」
「ごめんなさいじゃないんだよ。知ってる言葉繰り返すだけなら、インコでもできるんだよ。」
貴之さんの家にはたくさんのルールがある。
リビングではすり足で移動しなければならない。
排泄する際は「どちらか」申告しなければならない。
食事は必ず十分で済ませなければならない。
祈りの言葉を欠かしてはならない。
彼の言葉を天使の福音だと思わなくてはならない。
常に感謝と奉仕の気持ちを忘れてはならない。
帰宅が自由であることにも感謝しなければならないと、貴之さんは言った。
そして、昼食後は勉強の時間。
「『主イエスは御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです』。ここはどこの引用だ?」
貴之さんがノートを片手に言う。
わかるはずがない。
だけれど、五秒以内に答えなければ、結局殴られてしまう。
頭に浮かんだ言葉を口にする。
「あ、う、……よ、『ヨシュア記』……っ?」
「違う!」
そう叫ぶと、貴之さんはノートを床に叩き付け、わたしの前髪を掴み上げた。見開かれた目はわたしを睨みつけ、恐怖から抵抗すらできない。
「『ペトロの手紙二』だ、こんなこともわからないのか!」
「わかりません、ごめんなさい、すみません……っ!」
頭部にじんわりと痛みが広がる。唇を結んで耐えるわたしを尻目に、彼は足元に落ちたノートを拾い上げ、ページをめくった。
「次だ。『憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである』。ここは?」
「……る、『ルカによる福音書』ですか……っ?」
痛みから解放された瞬間、耳の横で、破裂音が響いた。思わず頬に触れると、貴之さんはわたしの手首を掴んで、膝に押さえつけた。
「『マタイによる福音書』だ。お前、頭に浮かんだ言葉、適当に並べてるだけだろ。」
「……ごめんなさい……。」
「やる気あんのか?」
ないはずがない。貴之さんの期待に応えたい。
でも、
「でも、でも、わたし、し、信徒になりたいわけでも、聖職者になりたいわけでもないの!」
「じゃ、お前はなにになりたいんだ?」
「あなたの、あなたの恋人です!」
「浅ましい!」
頬の次は、頭に鈍い痛み。それは一度ではなく、二度、三度とわたしを襲った。だが正座を崩すことは許されない。
耐えて、耐えて、耐え続けると、七度目で貴之さんは言った。
「本当に俺を愛していて、恋人になりたいなら、俺に相応しい女になれるよう努力しろよ。」
その台詞は、わたしに重くのしかかった。
「本当に、あなたを愛していて、あなたの恋人になりたいと思っています! でも、わたし、愚図で、どうしようもない馬鹿なんです、ごめんなさい。」
「『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』んだろ? お前のそれは愛じゃないんだよ!」
そう吐き捨てると、貴之さんは拳を高く振り上げた。顔を腕で庇い、無駄だとわかりつつ貴之さんの解を求める。
「で、では、わたしがあなたを愛していて、大切で、あなたとずっと一緒にいたいというのは、どう言い換えればいいですか!?」
切実だった。わたしにとって、愛は愛でしかない。貴之さんはわたしの「これ」を、どう理解しているのだろうか。
(つづく)
▼渡邊璃生『愛の言い換え』詳細はこちら(KAODOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000345/