2/21(金)発売、伊坂幸太郎さんの文庫最新刊『AX アックス』より、冒頭試し読みを特別公開。『グラスホッパー』『マリアビートル』に連なる<殺し屋シリーズ>の最新作をお楽しみください。
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朝起きると、すでに兜の妻は家を出るところだった。「ごめんなさい。テーブルに朝食は置いてあるから。食べておいて」と言い、玄関を開けて飛び出していく。「朝、会議があるのを忘れていたから」
「どうぞどうぞ」兜は言い、洗面所で顔を洗い、トイレを済まして、ダイニングテーブルへと向かう。壁の時計を見れば、朝の七時半だった。
妻が不在の家は、気分が楽だ。もちろん妻が苦手であるとか、嫌いであるとか、そういったことではない。むしろ、それなりに長い結婚生活の中で、愛情は一目盛たりとも減っていないと断言できるが、常に、妻の機嫌を気にかけてしまうのは事実だった。虎の尾ならぬ妻の尾は、家の床中に
テレビが点いていた。朝の情報番組が流れ、天気図の前に若い女性が立ち、関東の週間天気について説明をしている。
「この人、母さんに似ているよな」兜は言う。すでに息子の
「おふくろに? いやあ、ぜんぜん違うよ。この人、二十代だよ」
「あと二十年もしたら、母さんみたいになる」
「それってさ」克巳はテーブルの上の、由緒正しい海外ブランドの、ティーカップを指差した。「これも千年したら、土器になる。って言ってるようなものでしょ」
「土器を馬鹿にするのか? カップよりも、貴重だぞ。それにそれは、土器ではない。いいか、この天気の女の子は、母さんに似ている」
「親父は、思い込みが激しいんだ」
「俺が? 思い込みが激しい?」
「そう。あ、これはこうなんだ! と思ったら、それが真実だと信じるだろ」
「そうかな」
「前もほら、歩いていたら、ビルの前に人だかりができていて、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきたら、『なるほど、あそこが燃えているんだな』と自信満々に指差していた」
「あったな」
「結局、ただのセールで、行列ができていただけだった」
その前日、兜は同じ業界の人間から、放火事件を起こす集団がいると聞いていたばかりで、それが先入観として働いた。が、息子には説明ができない。勘違いだったのは事実だ。「そうだったか」
「宅配便の配達のお姉さんが来なくなったら、『なるほど、運転免許を持っていないことがばれたんだろうな』とか真面目な顔で言うし」
「その頃、ニュースで話題になっていたんだ。無免許の宅配ドライバーが」
「ほら、親父はそうやってすぐに、情報を組み合わせて、結論に飛びつくんだ。何でも結び付けたくなる。親父の、『なるほど』は要注意だ」
自覚はなかったため、不本意ではあったが、兜は言い返さなかった。「そういう側面もあるかもしれないな」と
克巳はすでに兜の言葉を聞いていないかのようで、テレビをじっと眺めている。「そういえば、浮気してるのって本当?」とぼそりと
兜はその場で、座りながらにして転びかける。
〈第4回へつづく〉
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