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試し読み

「本当に悪い奴は、みんなにそう思わせるんだから」――伊坂幸太郎『777 トリプルセブン』大ボリューム試し読み#9

累計300万部突破! 伊坂幸太郎屈指の人気を誇る〈殺し屋シリーズ〉の最新長篇小説『777 トリプルセブン』が、2023年9月21日(木)に発売となりました。
刊行を記念し、冒頭部分約40ページが読める大ボリューム試し読みを掲載! 全11回の連載形式で毎日公開します。
気になる物語の冒頭をぜひお楽しみください!

★シリーズ特設サイトはこちら:https://kadobun.jp/special/isaka-kotaro/koroshiya/



「本当に悪い奴は、みんなにそう思わせるんだから」――伊坂幸太郎『777 トリプルセブン』大ボリューム試し読み#9

「あまり良くなかったです」紙野結花は正直に言った。
「あら」
「仕事自体は頑張れましたが」「まあ、人間関係はどこにでもあるからね」
 紙野結花が説明するまでもなく、ココは何が起きたのかを理解している様子だった。オーナーであるパティシエの機嫌により、店の雰囲気は変わり、先輩社員からは理不尽に作業を押し付けられた上に、理不尽なしつせきを受けた。商品の質やお客様の喜びよりもオーナーの顔色ばかり気にする店には、悲しみと苦痛しかなかった。「でも、よくある話なんですよね」
「だめだめだめ。よくある話なんて言ったって、紙野ちゃんにとっては重要なことなんだから。そんなこと言ったら、生き物はみんな死んじゃうから、死ぬのは仕方がないよね、とかなっちゃうよ。よくある話じゃ済まないでしょ」
「結局、お店をやめることになったんです。ただその後も、その時のつらさがずっと残っちゃって」
「時間が経てば、嫌なことも忘れられるから、と紙野ちゃんの場合は言えないわけね」さぞかしつらいだろう、とココが同情してくれる。
「精神的にまいってしまって、通院しつつ処方してもらった薬で、どうにかこうにか生きていたんですけど、お金もなくなってしまって」
 身心ともに調子を崩し、預金を薄く削り取るように使いながらどうにか生活をしていたが、少しでも社会に関わりを持っておこうと参加したボランティア先で、手の込んだ詐欺に遭い、半年ほどで口座のお金をほとんど失った。
「あらら」とココが顔をしかめる。
「その頃、乾さんに会ったんです」
 炎天下で一日立ったままのアルバイトをこなし、疲れ果てて家に帰る途中、新しく開店したばかりのタルト店に気づいた。窓ガラスのそばに置かれた、フルーツのたくさん載ったタルトが美しく、いったいどう飾り付けられているのかと顔を近づけ、まじまじと眺めていたのだが、そこに乾が、「お姉さん、そのケーキ、そんなに欲しいの? 買ってあげようか」と声をかけてきたのだ。慌てて、「いえ、見ていただけです」と説明したが、当然ながら言い訳としか受けとめてもらえず、「いいからいいから、一緒に食べようよ」と寄ってきた。
「フットワークが軽いというか、ノリがいいというか、乾らしいね。そうやって、ずるずると人を引き摺り込むんだよ」
 紙野結花はどう反応していいのか分からず、愛想笑いを浮かべる。戸惑いを正直に口にした。「わたしの前では、悪い人ではなかったんです」
「本当に悪い奴は、みんなにそう思わせるんだから」ココが同情するように言った。「何年、乾のところで働いていたんだっけ」
「二年です。事務仕事を。経理も」
「乾が怪しい仕事をしていることは知っていたの?」
「はじめはもちろん知りませんでした」噓ではなかった。ほかの仕事がまともにできない状況だったため、乾のところで働けたのはありがたかったが、それでも法律を守らない、物騒な仕事に関わっていると知っていたら、働こうとはしなかったはずだ。
「乾のほうは、紙野ちゃんの何でも覚えちゃう力のこと知っていたのかな」
 紙野結花はうなずく。働き始めた際に伝えた。雇ってもらうにあたり、自分の体質や事情を話しておかなくては迷惑がかかると思ったからだ。
「喜んだでしょ」
「え」
「乾は、自分では何もやらずに他人にやらせるのが大好きだから。紙野ちゃんの記憶力なんて、活用しがいがあるに決まってる。前に言ってたことあるからね、『俺、自分以外の人間のこと、こっそり、道具って呼んでるから』って。さすがに、身もふたもない言い方で、笑っちゃったけど」
 確かに、と紙野結花はうなずいている。乾は利用できる相手がいれば、遠慮することなく頼り、仕事の大半はアウトソーシングでこなしてばかりだった。
 思えば、紙野結花と外を歩いている時も、取引先の連絡先を暗唱させることはもちろん、自分のスケジュールを口頭で述べて、「紙野ちゃん覚えておいて」と気軽に覚えさせたりもした。時折、政治家との食事の場に紙野結花を連れて行ったかと思えば、「あの時、あの人、何て言ってたっけ」と議事録をめくるかのように確認することもあり、そういう意味では、乾は自分のことを、音声で操作する記憶装置のようにとらえていたのかもしれない。
「何が可笑おかしいの?」ココに言われ、自分の表情が緩んでいることに気づいた。
「乾さんが時々、『今日、俺、お昼ご飯食べたっけ?』といてくることもあったんです」
 ココが笑う。「記憶力がいいと言っても、そんなことまで知ってるわけじゃないよね。そこまで人任せだとは」
「どこまで本気だったのか」
「気持ち悪い噂を聞いたことがあるんだよね」ココの顔が急に苦いものをかじったようなものになった。
 紙野結花は緊張する。「何でしょう」
「乾が解剖マニアだって。聞いたことない?」
「解剖?」
 紙野結花の反応を見てココが、しまったな、という表情を見せた。知らないのならば、わざわざ話題にする必要はなかったと思ったのだろう。「行き場のない若者を見つけて、全身麻酔をかけた後で、下ろす。そういう噂をね」
「下ろす?」
「魚を下ろすみたいに」
 紙野結花は口に手を当てたまま、しばらく言葉が出せない。もちろんそのような噂話は初めて耳にした。まな板に置かれた人の身体を思い浮かべそうになる。おぞましい場面を想像しかけ、慌てて頭を左右に振った。
「あくまでも噂だけれどね」
「そうですよね」と答えた途端、紙野結花の記憶が刺激された。
 乾の事務所に置かれた人体模型や、人間の骨や筋肉を図解した本だ。乾はそれをよく、めるように眺め、触れていた。あれはそういう意味だったのか。
 ココがつらそうな顔をしている理由は、紙野結花にも分かった。あなたも捕まったらそうなる可能性はある、と心配してくれているのだ。全身の毛が逆立ち、腹に穴が空いたかのような寒さを覚える。痛みもなく皮膚がぎ取られる自分を想像しかけ、震える息が唇から洩れる。

(つづく)

作品紹介



777 トリプルセブン
著者 伊坂 幸太郎
発売日:2023年09月21日

そのホテルを訪れたのは、逃走中の不幸な彼女と、不運な殺し屋。そして――
累計300万部突破、殺し屋シリーズ書き下ろし最新作
『マリアビートル』から数年後、物騒な奴らは何度でも!

やることなすことツキに見放されている殺し屋・七尾。通称「天道虫」と呼ばれる彼が請け負ったのは、超高級ホテルの一室にプレゼントを届けるという「簡単かつ安全な仕事」のはずだった――。時を同じくして、そのホテルには驚異的な記憶力を備えた女性・紙野結花が身を潜めていた。彼女を狙って、非合法な裏の仕事を生業にする人間たちが集まってくる……。

そのホテルには、物騒な奴らが群れをなす!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000745/
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