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試し読み

【新連載試し読み】篠田節子『失われた岬』

9月27日発売の「本の旅人」2018年10月号では、篠田節子『失われた岬』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。

冬の旅(一)

 
二〇〇七年冬
 携帯電話に送ったメールに返信がなくなった。
 ほどなく、送信しても「ユーザーがみつかりません」というメッセージとともに戻ってくるようになった。
 電話もかからない。機種変更でもしたのだろう、と考えていたのが、自宅の電話にかけて「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というメッセージが流れてきたときには、さすがに心配になった。
 何かあったのか、と不吉な想像をすることは実際にはあまりない。
 自分は嫌われたのではないか、何か誤解を生じて一方的に関係を切られてしまったのではないか、普通の人間関係、友人関係の範疇はんちゅうであれば、そう考える。
 そして友に対しての自分の言動に思いを巡らす。周辺にいる人物が、自分について何かよからぬ話を吹き込んだのではないか、という疑念も抱く。
 悩んでいる妻に、「夜逃げでもしたんだろ」と夫の和宏かずひろは茶化してみせた。そのうち連絡が来るさ、気にするほどでもない。
 そう言われてみれば心配するほどのことでもないだろう、と妻の美都子みつこにも思えてきた。
 年齢は四つ上。世代的にはそう違いはないが尊敬できる友達。松浦まつうら美都子にとって、清花さやかはそんな人だった。
 転勤の多い夫について地方都市を回りながら、実直に生きている四十代の主婦にとって、友に抱く尊敬の念は、特別なものについてではない。偉業を成し遂げたとか、高邁こうまいな思想と行動力で社会的弱者のために尽くしたとか、世間が認める芸術的才能を持っているとかいうことではない。
 家の中がいつもきれいに片付けられ、さほど手をかけずに作った普通の総菜がどれもおいしく、朝、ゴミ出しに出てきたときにも、きちんと身なりが整えられて薄化粧が施されている。子供と動物が好きで、何を話しても人生に対する誠実さや真剣さが伝わってきて、それが決して説教じみることがなく、常に温かくほどほどのユーモアがまぶされている。ときおり受け取る絵手紙の絵も文字も美しく、服装の趣味もインテリアのセンスも良いのに、決してこれ見よがしではない。

 まさにプロの主婦、と賞賛の思いを抱いていたら、ある日、招待状が届いた。東京のさる展示場で行われたパッチワーク展で入賞したということだった。
 当時、住んでいた金沢から電車を乗り継いで東京に出た美都子は展示場と受賞パーティーの華やかさに圧倒され、挨拶をした清花のペルシャ文様の刺繍ししゅうを施した和服の美しさに陶然としたが、ねたましさはまったく感じなかった。
 会場に展示された清花の作品は子供用夏掛け布団で、その素朴ながらも見事な仕上がりに、ああ、この人は華やかな舞台に立っていても普段の清花と変わらない、作品は人柄そのもので、彼女の人柄が評価されたのだ、と感じいった。そして自分が栂原つがはら清花という人の友人であることが誇らしく思えた。
 その夜、東京のホテルに女二人で泊まり、最上階のスパで並んで施術を受けた。花と香油と眼下に広がるきらびやかな夜景……。
「こういうのいいな。主婦をやっているとホテルとかエステとか、街中に出てパフェを食べることさえ、本当にうれしいのよね」
 タオルのターバンを巻いてオイルでてかてかに光った顔で微笑ほほえむ清花を、美都子は大好き、と感じた。若い頃の異性への恋など、本当に浅薄なものだと思った。この人とは、家族ぐるみの一生の付き合いになるだろうと信じていた。

 それからわずか二ヵ月後に、夫、和宏に本社勤務の辞令が下り、美都子は生まれ育った東京に戻ってきた。同じ頃、清花も夫とともに信州に引っ越していった。
 その前年に栂原夫婦の一人娘がアメリカに留学し、寂しさもあって大型のそり引き犬を飼ったのだが、夏の暑さに弱りがちで途方にくれていたところ、大手精密機械メーカーの社員であった夫亮介りょうすけに長野県内の大学から研究員の声がかかったのだと言う。
 必ず遊びに行くからね、と言って別れた後も、約束通り行き来があった。 
 子供のいない美都子夫婦のマンションに、清花は夫とともにやってきて和宏の切り分けるローストビーフで、持ち寄った様々なワインを味わった。また、美都子夫婦の方も和宏の運転する車で信州に出かけた。
 暖炉とシャンデリアの下がる栂原家の居間で談笑し、清花の夫、亮介の運転するランドクルーザーで夏の高原をドライブした。
 夜逃げ、と夫に言われてみれば、確かに冗談ではなく思い当たることはあった。
 四ヵ月前に信州の家を訪ねたとき、栂原家の居間の天井からシャンデリアが消えていた。観光施設やホテルにあるような、クリスタルガラスのきらめく華やかなものではなく、自在に曲がる何本もの真鍮しんちゅうの腕にチューリップ形のシェードがついたもので、それを清花は風にそよぐ柳の枝のような形に整えていた。イケアの広告で似たようなものを見かけたので、美都子はてっきりそちらの製品だとばかり思っていたのだが、ヨーロッパのさるメーカーの百万を超える製品だと知った。 
 そのシャンデリアの代わりに天井にはごく普通のシーリングライトが貼り付き、青白い光が照らし出す室内を見渡せば、パキスタン製の絨毯じゅうたんもシープスキンの敷物も革張りのソファもなくなり、むき出しの床に木製の食卓テーブルとベンチだけが置かれていた。それでも訪ねたのが八月の半ばでもあり、単に夏向きに模様替えしただけだろうと考えていた。
 その食卓で、美都子と夫の和宏は、清花の作った精進ちらしや地物野菜の煮物をごちそうになった。グラスには地元のワインが注がれたが、清花と亮介夫婦のグラスにはハーブティーが入っていた。
 最近、何となく飲みたくなくて、と夫妻は穏やかに笑っていた。
 清花の料理は相変わらずおいしかったが、濃厚な味付けの肉料理の好きな夫は拍子抜けした様子でもあり、またハーブティーを飲んでいる二人の前でワイングラスを傾けるのは気が引け、以前のように酔って陽気に騒ぐということもなく、何とはなしの違和感を抱えて夫婦は東京に帰った。

 一ヵ月後に栂原夫妻が美都子宅を訪れたときは、彼らが車を使ったこともあり酒はなく、四人で昼食のテーブルを囲んだ。
 近所のデリカテッセンで予約しておいたテリーヌや、美都子の作ったエスカベーシュ、そして夫が切り分けるローストビーフとビーツやホワイトアスパラ、アーティチョークなどのサラダ。デザートは清花が作ってきてくれたスモモのコンポートと、美都子の用意したさるパティシエお手製のガトーショコラ。コーヒーを飲み終えた頃には日暮れ間近になっていた。
 マンションの裏手にある来客用駐車場まで夫妻を送っていった美都子たちは、そこに置かれた軽自動車を見て戸惑った。
「ランドクルーザーはオーバースペックなので売りましたよ」
 清花の夫、亮介は微笑して言った。恬淡てんたんとした口調だった。
「ああ、夫婦二人では確かにこれで十分だね」と和宏がそつなく応じた。 
 そして秋も深まった頃、再び訪れた信州の二人の住居からはさらに多くのものが消えていた。
 玄関からは、亮介が実家から持ってきた九谷焼の壺が象嵌ぞうがんの施されたフラワーテーブルごと無くなっていた。リビングダイニングに入ると刺繍を施したテーブル上のクロスは剥がされ、むき出しの天板の上には目にしみるほど白い台布巾がきちんと畳まれて載っていた。
 季節は冬に向かっていたから、冷え切った無垢むくの床の上を美都子たちはスリッパを履いて歩き回った。それでも足元から冷えてくる。
 暖炉は板でふさがれ、室内には大きなタンクを据え付けた石油ストーブが置かれていた。
 山林を持たない移住者にとっての暖炉やまきストーブは単なる贅沢趣味で、購入する薪代は一冬でたいへんな額になるからだと言う。
 殺風景な部屋にぽつりと置かれた対流式石油ストーブに手をかざしている美都子に「東京の人は寒がりね」と清花は笑いながら膝掛けを貸してくれた。
 何シーズンも丁寧に洗い、使い込んだウールの膝掛けは少し毛羽だっていて暖かかった。
 マグカップのハーブティーを飲みながら、清花が焼いた少し硬めのオートミールクッキーのようなものをかじり、話をした。以前のように次々に話題が移っていき、四人で盛り上がるということはなかったが、途絶えがちな会話の間に入り込む沈黙は決して気詰まりなものではなく、どっしりした寒気の中で赤く燃えているストーブの石油の落ちるかすかな音に、何かほっと安らぐものを感じた。夫一人が居心地悪そうにしばしば身じろぎし、帰りがけに亮介に向かい、冗談ともなくささやいたものだ。
「まだ隠居の年じゃないだろう。何を若年寄りをやっているんだ。僕より年下なのに」

 異変を感じながらも、十二月に入り、ここ数年恒例になった清花の家でのクリスマスパーティーを兼ねた忘年会の誘いのメールを送ったところ、電話連絡も取れないことがわかったのだ。
 夜逃げ、と言う夫の言葉が冗談であることはわかっていた。家から高価な物、高額な物は確かに消えていたが、九谷焼の壺はともかくとして、今時、中古の家具、ましてやラグやテーブルセンターのような品々が、困窮した生活の足しになるほどの値段で売れるはずはない。
「断捨離?」
 美都子は半信半疑でつぶやく。
 モノだけでなく、自分までが断捨離されたのかと思うと泣きたくなった。
「やれやれ、ミニマリストに宗旨替えだったのかね、あれは」と和宏はため息をついて、続けた。
「で、携帯もパソコンも電話もいらん。洗濯機も掃除機も捨てて、たらいとほうきで十分って、日本研究者の外人にときどきいるだろ、そういうの」
 相変わらずの茶化した口調だが、何となく納得する部分もあり、美都子は信州の住所宛に葉書を書いた。
 相手の安否を尋ね、こちらの近況を簡単に伝え、メールでも書いた恒例の忘年会について都合の良い日程を尋ねる。もし引っ越してしまっても、しばらくの間は新住所に転送される。
 数日後に封書で返事が来た。
 紅葉もみじを散らした手漉てすき和紙の、いかにも清花らしい封筒に、やはり生成り和紙の便せん。水茎みずくきの跡も美しくしたためられている、その内容に愕然がくぜんとした。


(このつづきは「本の旅人」2018年10月号でお楽しみください)
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