サイバー攻撃が相次いでいます。いったい何が起こっているのでしょうか。著者は、新聞記者として、世界各地の秘密工作の現場を取材してきました。12月刊行の角川新書『破壊戦 新冷戦時代の秘密工作』では、小説の世界の上を行くような衝撃の世界が記されています。本書の「はじめに」を公開します!
はじめに
イギリス政府が2020年10月、東京五輪を主催する組織や関連企業に対して、ロシア情報機関がサイバー攻撃を仕掛けていたと公表した。組織的なドーピングにより五輪から排除されているロシアは、リオ五輪や平昌五輪でもサイバー攻撃による妨害工作をした疑いがある。それでも、日本の多くの政策担当者にとっては寝耳に水だったようだ。私は危機感を持たずにはいられない。
私は特派員として2回、モスクワに赴任した。その間、ロシアが背後にいると見られる事件が欧米で頻発した。ウラジーミル・プーチン政権は14年、軍事行動の事実を否認しながら、プロパガンダやサイバー攻撃を絡めた「ハイブリッド戦」でウクライナ領のクリミア半島を併合し、同国東部への軍事介入をいまも続ける。欧米と対立を深めたロシアは、各国の選挙に干渉、ネット情報の操作や、サイバー攻撃、政財界人の取り込み工作などにより民主社会を侵すようになる。ヨーロッパを舞台に、猛毒による襲撃事件や暗殺も相次いだ。私は闇の世界に引き込まれるように、取材にのめりこんでいった。
個々の事件の真相を追うなかで、東欧リトアニアのビリニュス大学の研究員、ネリウス・マリウケビーチュスとの17年の議論を通じ、私のなかである方向性が見えてきた。軍事力や経済力による「ハードパワー」、文化や政治的価値観に基づく「ソフトパワー」で欧米に劣るロシアは、「ダークパワー」とも呼べる秘密工作で自由・民主社会を壊そうとしている――。
アメリカと伍する核戦力はともかく、ロシアの経済規模は米国の10分の1以下、日本と比べても3分の1に満たない。そんなロシアが世界をかき回し、影響力を振るうのは、ダークパワーによるところが大きい。
ロシア政府関係者も私の取材で、こんなことを語った。
「まともな世界ならロシアは大国にはなれない。しかし、秩序なき生き残り競争なら、我々の方が(民主国家よりも)使える手段が多く、有利だ」
日本からは遠いことのように感じられるかもしれないが、決して他人事ではない。欧米と程度の差こそあれ、ロシアは日本も標的にしている。
20年1月にもソフトバンクから機密情報を奪ったロシアのスパイ事件が発覚している。この時に取材したある日本の警察高官は、表沙汰にされない政治家や官僚、記者らを狙ったロシアの取り込み工作は過去に何度も起きていると明かした。
中国がロシアの手法を真似ていることも日本は意識しなくてはならない。中国で発生した新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を機に、プロパガンダや偽ニュースを流布する同国の情報戦が目立つようになった。中国は、一党独裁体制の優位性を喧伝し、ロシアばりにアメリカへの敵対心を隠さなくなり、裏工作を本格的に国家戦略として使い始めたようにも見える。
アメリカに次ぐハードパワーを備える中国が、ロシアのように秘密工作を駆使するようになれば、衝撃は計り知れない。「新冷戦」と称される米中の覇権争いのカギを握るのは軍事、経済力だけではなく、ダークパワーかもしれない。
本書は主に2015年から19年のロシアやヨーロッパでの取材に基づいている。第一~三章ではロシアの工作部隊の暗躍とそれを支えるカネの流れを取り上げた。情報機関にくわえて、財閥企業なども工作の担い手となり、西側に浸透する実態に迫った。第四~六章では、ネット世論工作とプロパガンダ、そしてサイバー攻撃の現場を追った。第七章では、新型コロナウイルス禍の中であらわになりつつある中国の戦略をロシアと重ねて考察した。
文中の登場人物の敬称は略している。肩書や年齢、為替相場などの背景設定は、取材当時のままとした。
▼古川英治『破壊戦 新冷戦時代の秘密工作』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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著者プロフィール
古川 英治
1967年生まれ。日経新聞国際部次長兼編集委員。経済部などからモスクワ特派員(2004~09年、15~19年)。その間、オックスフォード大学大学院ロシア・東欧研究科修了。大統領から犯罪者まで幅広く取材。