2月9日発売の「小説 野性時代」2018年3月号では、桐野夏生『インドラネット』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。
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誰もがうらやむ美貌と才能で、注目を集め続けてきた三姉弟は今、どこに――?
不穏で甘美な世界へ誘う、圧倒的スケールの物語、開幕!
三月終わりの、まだ肌寒い金曜日のことだった。
八目晃がいつものように残業をして、会社を出たのは午後十時を回っていた。長い時間、パソコンを睨んでいたせいで、頭の芯が疲れていたが、ノルマを終えて明日の土曜出勤は免れることができたから、ほっとしている。
今夜は思いっきりゲームでもしようかと、晃は緩んだ気持ちでセブン-イレブンに寄った。弁当と発泡酒、ポテトチップス、シュークリームなどを籠に入れて、レジに並ぶ。その時、LINEがきた。ダウンジャケットのポケットからスマホを出して見ると、珍しく実家の母親からだ。
「野々宮さんのお父さんが、今日亡くなられたそうです」
野々宮空知の父親は、よく知っている。息子の空知とは仲がよく、しょっちゅう家に遊びに行っていたから、父親ともよく顔を合わせたし、喋ったものだ。しかし、まだ六十歳を少し出たくらいのはずだから、突然の訃報に驚く。
「死因は?」と聞くと、すぐに「わかりません。明日十八時から、月旦寺でお通夜だそうです」。やや素っ気ない返信が戻ってきた。
野々宮空知は、都立高校の時の同級生だ。だが、ただの同級生ではない。家が比較的近かったので、晃は高校一年の時から、野々宮家に入り浸っていた。
放課後、空知と一緒に自転車で帰って家に上がり込み、そのまま夕飯時まで、場合によっては夕飯もご馳走になって、深夜まで居座っていた。
空知は、晃がくっ付いてきても嫌な顔ひとつせず、勉強部屋に入れてくれた。そこで好きな音楽やタレントの品定め、そしてクラスの噂話など、他愛のない話を延々としたものだ。
空知は頭がよい上に、晃の生半可な知識など到底及ばないほど、物知りだった。話の運びも、比喩も気が利いていて飽きさせなかったから、晃はもっぱら、空知が話していると、阿呆みたいにぽかんと口を開けて頷くばかりだった。話の面白さだけでなく、空知の美しさに見惚れていたからだ。
そんな自分を、空知のパシリだ、いやゲイだろ、などと同級生が中傷していたのは気が付いていた。しかし、晃は何を言われても気にならないほど、空知が大好きだったし、心酔していた。
長い手足に筋肉がほどよく付いた、バランスの取れた肢体。運動神経は抜群で、陸上部に所属し、走り幅跳びの選手だった。そして、晃が何よりも好きだったのは、空知の顔だ。秀でた額。濃い眉が綺麗なアーチを描き、少し吊り上がった目は、時折、震え上がるほど冷酷に見えることもある。頬はこけているのに、唇は分厚くて赤く、空知が喋るとそこだけが生き物のように蠢いた。老若男女を問わず、空知の顔を見れば、誰もが心の奥底を疼かせたはずである。
ひと目見るなり、心臓がどきりとするほど美しいのは、空知の姉妹も同様だった。巷では、「野々宮の美人姉妹」と言われていたほどだ。
姉の橙子は空知の五歳上で、妹の藍は三歳下。橙子は空知を女にしたような細身の長身で、凄みさえ感じさせるほどの、美貌の持ち主だった。短大に在学している時に渋谷でスカウトされ、卒業と同時にファッションモデルになった。晃と空知が高校を卒業する頃には、女性誌やコマーシャルなどで、よく顔を見ることになった。
妹の藍は、上の二人に比べれば可愛らしい顔立ちで、姉よりも親近感が湧くのか、同級生の間では圧倒的な人気があった。藍見たさに、同級生が毎日、空知の家に押し寄せたが、空知が家に入れてくれるのは、晃だけだった。害がないと思われたのかもしれないが、この依怙贔屓のせいで、晃は学校で執拗に苛められることになった。
藍が中学二年になった時、藍の同級生がふざけて美少女コンテストに応募したことがあった。藍は、書類審査と最初の面接だけで、あっという間に本選に進むことになったが、本選会場に行く途中で消えて、周囲の大人を慌てさせた。
後に本人曰く、「目立つのがともかく嫌い」とかで、そんな逸話さえも、自分の美貌に気が付いていないのか、何て奥ゆかしいのだろう、と藍人気を高めたのだった。
つまり、野々宮空知とその美人姉妹は、晃の通う高校だけでなく、その三人が関わった世界ではどこでも、すぐ有名になり、注目の的だった。
晃は、どうして自分のような不細工で無能な男が、空知に気に入ってもらえたのか、まったくわからなかった。クラスの悪童連中からは、「八目」という名字と、ひょろひょろ背だけは伸びたが、痩せていて猫背気味であることから、「ウナギ」という渾名が付けられていた。
だが、空知だけは、「ヤツメっていい名前じゃん。カッコいいよ」と言って、クラス中が「ウナギ」と馬鹿にする中でただ一人、「ヤツメ」と呼んでくれた。美しい姉妹に挟まれて育った、超の付くほどのイケメンが、どうして自分を特別扱いしてくれたのか、その秘密はとうとうわからず仕舞いだ。
晃は、自分に何も取り柄がないことに、強いコンプレックスを抱いて生きてきた。どこにでもいそうな平凡な顔に眼鏡使用。運動神経は鈍く、勉強もあまり得意ではない。子供の頃、少し吃音気味だったせいで、今でも最初の一語を発する時は緊張する悪い癖がある。そのためか、人と会っている時は、常に汗を掻いて、掌が濡れているような男だった。
空知は、そんな自分には勿体ない友達だし、絶対に釣り合わないのはわかっている。だから、晃はこう考えるようになった。
もしかすると自分は、空知のネガティブな夢に出てくる小人物で、八目晃という人間は、現実には存在しないのではないかと。現実では、野々宮空知として生きていて、空知の暗い夢の中でだけ、八目晃として生きているのだ。
それ故に、晃は常に空知の言動を気にして、空知のすべてをまるごと受け止め、神のように崇めて生きていこうとしたのだった。
しかし、空知は、高校を卒業した後、意外な道を選んだ。美大に入って、絵画の勉強を始めたのだ。それまで、絵の方に進みたいという抱負など、一度も聞いたことがなかったし、四六時中、一緒にいたはずなのに、絵を描いている姿も見たことがなかった。
晃はたいそう驚いたというよりも、まったく知らされていなかったという意味で、大きなショックを受けた。何せ、空知は自分で、自分は空知の夢の中で生きているだけなのだから、空知のすべてを知悉していなければならないのだ。
「全然知らなかったよ」
晃が拗ねて少し文句を言うと、空知はあっけらかんと答えた。
「ごめん。受験失敗したらカッコ悪いからさ。ヤツメにも言えなかったんだよ」
このつづきは「小説 野性時代」2018年3月号でお楽しみいただけます。
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