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試し読み

【新刊試し読み 森晶麿『毒よりもなお』③】アガサ・クリスティー賞作家が描く、青春サイコサスペンス!

これは、完全に青春を失った若者の偽書。
でも、あなたの物語かもしれない。

本日3月1日(金)発売の単行本『毒よりもなお』より、冒頭計30ページの試し読みを公開!
《著者からのメッセージ》
「フジファブリックの名曲「若者のすべて」を聴きながら、そんな「すべて」がはじめから失われていた「若者」の物語を、実話に着想を得ながら書きました。せつなさと苦みのある青春サイコサスペンスです」
ぜひ、お楽しみください!
第1回から読む
>>第2回はこちら


 また、長い沈黙が続いていた。
 当たりさわりのない質問には、彼女ははっきりと答えることができるが、それ以外の質問になると、途端に口ごもってしまうのだ。
「学校でいじめがあった?」
 首を横に振る。原因はいじめではないようだ。
「でも嫌なことがあったのね?」
 今度は静かに頷いた。
「その内容は言いたくない?」
 黙る。
 言いたくないわけではないのだ。言いたくなければ、ここへ来るはずがない。何か話したいことがある。そして、それは、学校での嫌な出来事と関係があるはず。
「私も学校ではいっぱい嫌なことがあったわ。親友が私の恋人を奪ったの。私がそのことに気づいたのは、何日も経ってからのことだったわ。恋人から君の親友と付き合っているから別れてくれと言われたときは落ち込んだわね。裏切られたことがショックだったんじゃなくて、そのことに気づかず接していた時間があったことを思うと、誰も信用できないような気分になったのね」
 話した内容は実話だった。高校二年の秋には、そんな出来事があった。今では笑って話せるが、当時はとてもそんな心境ではなかった。そして、唯一の救いだったバンドのヴォーカルは、その一か月後に逝ってしまった。
 彼女が顔を上げて、初めて私の目を見ていた。
 いい傾向だ。心を開くきっかけになったのかも知れない。
「学校って、嫌なことがあるわよね。だって、他人同士が狭い空間にいるんだもの。思いもしないことが起こるに決まっているわ。それなのに、学校の先生は何も気づいていないふりをする。それで、私が学校を休んだら、早く出てきなさいって」
「どうしたんですか、それで」
「行かなかったわ。私の心を苦しめる場所には、どんな理由であっても行きたくなかったし、今でもその判断は正しかったと思ってる」
 奈央の気を引くために切り出した過去の話だが、思いがけずその時の状況がよみがえってくる。
 昼間に起きたとき、窓から差し込む光に舞っていた塵芥じんかいを、妙にくっきりと覚えている。自分の存在の儚さを考えていた証拠だろう。
 そうして、翌夏の出会いが、現在の職業を選択するきっかけとなった。正確にはその前に一冊の本との出会いがあったのだけれど。
「学校に戻りたいと思う?」
「わかりません……」
 さっきまでなら、わからない時には口籠っていた。いい傾向だ。
「学校に行かない今の状態が好き?」
 首を横に振った。
「学校に行かないことへの罪悪感があるのね。でも戻りたいかと言えば、そうでもない。戻っても解決できない問題が待っているのかしら?」
 今度は、浅くだが、頷いたようだった。
「それはあなた一人では解決できない問題なのね?」
 もう少し強く、深く頷く。
「友だちに、裏切られたの?」
「……ある意味では」
 それ以上の詮索は避けるように、口をぎゅっとつぐむ。
「友だちと仲直りできたらいいと思う?」
 彼女は首を傾げた。その時の顔が、いまにも泣き出しそうに見えた。仲直りをしたい気持ちがあっても、どうにもならないような裏切りに遭ったのだろう。
 だが、私の仕事は、その内容を把握することではない。現在の彼女の心を軽くすることだ。多くのカウンセラーは、悩みの原因を過去へと遡及するが、原因が発見できたからと言って解決できるものでもない。
「いまのあなたは充電期間なの。だから、高校に戻らなくちゃ、とかそういうことを考える必要はないのよ。スマホのバッテリー残量がゼロになったらどうする?」
「充電器にさす……」
「でしょ? 百パーセントになってないのに充電器から抜いたりしていたら、電池の消耗が早くなるのよ。だから充電は百パーセントになるまで待ってから抜かなくちゃ」
 奈央は微かに明るい表情になる。
「それに大学や社会に出れば、いまの世界なんてちっぽけで二度と戻る必要のない場所だとわかるわ。私がそうよ。その頃の親友とは、その後一度も顔を合わせていない。彼女がどんなふうに生きているのかも知らないし、たとえ知っても何も感じないと思う」
「彼女が不幸になってたらいいのにって思いませんか?」
「思わないわね。世の中、正義が勝つとか、そういうわかりやすいふうには出来ていないもの。それに、素敵な人が世の中にはたくさんいることも知っている。たまたま出会ってしまった醜い心の人のために何かを考える時間がもったいないじゃない?」
「……でも負けた気がします」
「そうね。気持ちはわかるわ。誰だってそう思うものよ」まずは共感を示す。「蚊に嚙まれたと考えるのよ。蚊が憎らしい。蚊を叩ければいいのに、とも思う。でも蚊を殺しても痒さは消えないし、蚊を叩かなかったからといって、その後の人生であなたが蚊に負けたなんてことにはならないと思わない?」
「頭ではわかるんですけど……なかなかそううまくもいかなくて」
 その後も奈央は長々と会話を続けた。けれど、結局、彼女が学校で何があったのかを明かすことはなかった。わずかに変化が見えたのは、会話を終わらせる間際になってからのことだ。
「あの……私と話して退屈しませんでしたか?」
「どうして? 楽しかったわよ。また喋りたいわ」
「……本当ですか?」
「噓は言わない」
 なぜか、彼女は涙ぐんでいた。
 その段階になって、ようやく私は、原因は学校だけにあるわけではなさそうだというところに考えが至った。
「また、来てもいいですか?」
「もちろん。来週のこの時間も、ここにいるわ。あと、土曜日も隔週で来てるから」
「……来週……来週は来られるかわかりません。その先も」
 いやな予感がした。自分の想定より、彼女が悪い状況にあるという漠然とした感触。まるで、汚染ガスの中に足を踏み入れてしまったような、のっぴきならない感じだ。
 時計を見る。すでに五時十五分。退館時間を過ぎている。
「よかったら、これから一緒にお茶でも飲みに行かない? ここは閉まってしまうけど、私の予定は空いているから」
 奈央はその提案にふたたび口ごもったが、困っているのではなく、喜んでいるふうが見られた。
「お茶、付き合ってくれる?」
 奈央は、静かに頷いた。
 私は書類を整理すると、ちょっと待っててね、と言って立ち上がった。この仕事は不思議だ。ただの与太話をしていたはずが、いつの間にか相手の真後ろに死の淵が迫っているのが見えるときがある。
 赤い陽光が、室内で律儀に同じ姿勢を保っている奈央の背中を照らした。陽光に照らされる身体があるうちに、何とかしなければならない。



   3


「あの、お水だけで、ほんとに」
 図書館脇にある喫茶店〈ビブリ〉で、私がメニューを見せると、今道奈央は頑なに首を横に振った。たぶんお金がないのだろう。
「お店に入ったら、一人一品は頼むものよ。心配しないで。ここは私の奢りだから」
「……いいんですか」
「もちろん。お茶に誘ったのは私だもの」
「じゃあ……ココア」
 私は頷いてからマスターを呼び、ココアと珈琲を頼んだ。
 店内にはビル・エバンス・トリオの名盤がかかっている。彼らの演奏を聴くと、ベースのスコット・ラファロがなぜ交通事故なんかで死ななくてはならなかったのかを考えずにはいられない。唐突な死に見舞われたミュージシャンは私に語りかける。深淵に耳を傾けろ。この音楽に対して君がそうするように。それは、志村の声が私に語りかけるものでもある。
「何があったかはもう聞こうとは思わないわ。ただ、教えてほしいの。あなたは、死のうとしてる。違う?」
「……はい。死のうと思っています」
 思いがけないほどあっさりと彼女は認めた。むしろ、それを指摘されたことを喜んでいるようですらあった。
「やめる気はないのね?」
「……はい」
「でも、今日私に相談に来た。誰かに止めてほしかったんじゃない?」
 彼女ははっきりと首を横に振った。これまでの彼女の反応のなかで、もっともはっきりとした意志を感じた瞬間だった。


>>第4回へつづく
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書誌情報はこちら>>森 晶麿『毒よりもなお』


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