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試し読み

【映画公開記念!原作小説試し読み】森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』①

小学4年生のぼくが住む郊外の町に突然ペンギンたちが現れた。
この事件の謎を研究することにした僕は――。
映画公開を記念して、本作の試し読みを「カドブン」にて3日連続で実施します!


 episode 1 海辺のカフェ


 ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
 だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。
 ぼくはまだ小学校の四年生だが、もう大人に負けないほどいろいろなことを知っている。毎日きちんとノートを取るし、たくさん本を読むからだ。知りたいことはたくさんある。宇宙のことに興味があるし、生き物や、海や、ロボットにも興味がある。歴史も好きだし、えらい人の伝記とかを読むのも好きだ。ロボットをガレージで作ったことがあるし、「海辺のカフェ」のヤマグチさんに天体望遠鏡をのぞかせてもらったこともある。海はまだ見たことがないけれども、近いうちに探検に行こうと計画をねっている。実物を見るのは大切なことだ。百聞は一見にしかずである。
 他人に負けるのは恥ずかしいことではないが、昨日の自分に負けるのは恥ずかしいことだ。一日一日、ぼくは世界について学んで、昨日の自分よりもえらくなる。たとえばぼくが大人になるまでは、まだ長い時間がかかる。今日計算してみたら、ぼくが二十歳になるまで、三千と八百八十八日かかることがわかった。そうするとぼくは三千と八百八十八日分えらくなるわけだ。その日が来たとき、自分がどれだけえらくなっているか見当もつかない。えらくなりすぎてタイヘンである。みんなびっくりすると思う。結婚してほしいと言ってくる女の人もたくさんいるかもしれない。けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので、結婚してあげるわけにはいかないのである。
 もうしわけないと思うけれども、こればかりはしょうがない。

    ○

 ぼくが住んでいるのは、郊外の街である。丘がなだらかに続いて、小さな家がたくさんある。駅から遠ざかるにつれて街は新しくなり、レゴブロックで作ったようなかわいくて明るい色の家が多くなる。天気の良い日は、街全体がぴかぴかして、甘いお菓子の詰め合わせのようなのだ。
 駅から始まるバス路線は、毛細血管のように街をおおっている。
 ぼくの家のある一角はバス路線の終着駅のそばで、駅から広がってきた新しい街の最前線にあたる。規則正しく区切られた街には、まだ家が建っていない空き地がいくつもある。風が吹き渡ると、正方形の空き地に生えた草がなびいて、ぼくはそれを見るたびになんとなくサバンナみたいだと思う。でもぼくは本物のサバンナを見たことがないので、これはあくまで推測である。ぼくはいつかサバンナも探検に行くだろう。草原をかけまわる本物のシマウマを見たら、どんなものだろう。おそらく目がちらちらすると思う。
 県境の向こうにある街から引っ越してきたのは、ぼくが七歳と九ヶ月の時だ。父と母と妹とぼくの四人でやってきた。その頃は今よりも家が少なかった。喫茶店「海辺のカフェ」もなかったし、ぼくらが週末に出かけるショッピングセンターもなかった。あたりはまるで生命が誕生する前の地球のように、からっぽで淋しい場所だった。
 当時、父は会社から電車で帰ってきて、駅前からバスに乗ってくると、あたりがどんどん暗くなってくるので、たいへん不安に思ったそうだ。バス停に降りた瞬間、ずっと向こうに、ぼくらの家の明かりがまるで荒野の一軒家みたいにぽつんと見える。その小さな明かりに向かってまばらな街灯の下を歩いて、ぼくや妹の笑い声がもれ聞こえてくると、ようやく父は安心した。
 でも今、街はずっと明るくなった。
 空き地はかわいい住宅でうまってゆき、おいしいパンのある喫茶店「海辺のカフェ」ができ、駐車場にたくさんの車がならぶショッピングセンターができ、評判のいい学習塾ができ、コンビニエンスストアができ、きれいなお姉さんたちが働く歯科医院もできた。ぼくはその宇宙ステーションみたいな歯科医院がとくに好きだ。
 ぼくは毎朝その歯科医院の前を通って、小学校まで通う。時間はおよそ二十二分かかる。

    ○

 ここまではためし書きである。
 ぼくは毎日ノートをたくさん書く。みんながびっくりするほど書く。おそらく日本で一番ノートを書く小学四年生である。あるいは世界で一番かもしれないのだ。先日、図書館でミナカタ・クマグスというえらい人の伝記を読んでいたら、その人もたくさんのノートを書いたそうだ。だから、ひょっとするとミナカタ・クマグスにはかなわないかもしれない。でも、ミナカタ・クマグスみたいな小学生はあまりいないだろう。
 ぼくはこの習慣のおかげでずんずんえらくなって頭角を現してきた。
 父はそのことを知っている。なぜならば、ノートの書き方を教えてくれたのは父だからである。この文章を書いている赤くて硬い表紙のついた方眼ノートは、父に買ってもらった。父はぼくが書きこみでノートをいっぱいにするとほめてくれる。チョコレートをくれることさえある。
 ところで、こういう日記みたいな文章は今まであまり書いたことがなかった。
 なぜ急に書こうと思い立ったかというと、昨日、父と喫茶店で話をしていて、ぼくが人生におけるたいへん重要な局面にあると気づいたからだ。
「毎日の発見を記録しておくこと」と父は言った。
 だから、ぼくは記録する。

    ○

 ぼくが初めてペンギンを目撃したのは五月のことだった。
 ノートには「午前六時半起床。ぼくと妹が起きてくるのを見てから父は出勤。快晴。湿度は六十%。やわらかい風」というメモがある。
 妹を連れて家を出たのは七時三十五分である。七時四十分、住宅地の中央にある公園の前に近所の子どもたちが集まって、方眼ノートのように区切られた住宅地を抜けていく。あちこちで雨戸を開ける音がする。犬の吠える声がする。道路わきにある自動販売機が、朝の光にきらきらする。風が電線をゆらして、ぼくらの太ももをスウスウさせる。
 ぼくはこの季節がたいへん好きである。頭脳がメイセキになるからだ。
 登校している間も、妹はずっとにぎやかである。なんにでも平気で口を出すのだ。
 おしゃべりは妹にまかせて、ぼくはノートを読みながら歩く。
 ぼくらはカモノハシ公園に向かうバス通りを歩く。そして歯科医院のある角で南に曲がり、そこからはケヤキ並木に沿って歩いていく。歯科医院と道路をはさんだ向かいには、「海辺のカフェ」がある。「海辺のカフェ」は朝早くから開いているので、窓辺の席でコーヒーを飲みながら、ぼくらを眺めている人もある。できたてのフランスパンのあたたかさと、いい匂いをぼくは想像する。
 朝が早いから、歯科医院はまだ開いていなかった。ぼくはその日の夕方に予約を入れたことを思い出して、ノートを確認した。ぼくは自分で予約するのだ。歯科医院にはぼくが親しくお付き合いしているお姉さんがいるのだが、彼女はまだ給水塔のそばにある白いマンションでぐうぐうねむっているだろう。お姉さんはねむるのが好きだ。
 ぼくはお姉さんに話すべきことのリストを見直して、いくつか書きたした。ぼくは歩きながらノートを読むばかりか、字を書くことさえできる。
 そのとき、先頭を歩く六年生が「あれ」と声をあげ、班のみんなが立ち止まった。ぼくはノートに夢中になっていたので、うっかり妹のクツのかかとを踏んづけた。ふだんならぶうぶう怒る妹が、その日は何も言わなかった。
 歯科医院を過ぎた左手には、車道に面して空き地が広がっている。電信柱に囲まれて、コンクリートに小さく区切られた草原が、ずっと続いているのだ。大勢の子どもたちが一列になって、しんと息をのんで立っていた。みんな空き地の向こうを見つめていた。妹が「お兄ちゃん」と言った。彼女は両手をお腹の前で握りしめて、ただでさえ大きな目を転げ落ちそうなほど見開いていた。
 風が吹き渡ると、朝露にぬれた草がきらきら光った。キウキウキシキシと学校の床を鳴らすような音が聞こえてきた。広々とした空き地のまんなかにペンギンがたくさんいて、よちよちと歩きまわっている。
 なぜぼくらの街に、ペンギンがいるのか分からない。

>>第2回へ
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8月17日(金)全国ロードショー
>>映画「ペンギン・ハイウェイ」公式サイト
◎一冊一冊、未来に進め。
>>カドフェス2018 特設サイト

※『夜は短し歩けよ乙女』、『四畳半神話体系』も対象!


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