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試し読み

松岡圭祐新シリーズ「グアムの探偵」より傑作短編1本をまるごと試し読み!#2

こんなに面白い小説を、あなたはまだ知らない。

シチュエーション、キャラクター、謎解き。すべてが画期的な知的エンターテインメント「グアムの探偵」シリーズ。記念すべき第1巻より、「第三話 グアムに蝉はいない」をお届けします。(後編)
>>前編はこちら


 夕方以降、レイはサリーン・マスタングを飛ばし、Kマートやペイレス、7デイとスーパーマーケットをめぐった。マクミラン大尉が希望した銘柄のビールや、レトルト食料品を買い揃える。
 駐車場でクルマを発進させようとしたとき、ふと助手席に目を向けた。大量の買い物袋がシートを埋め尽くす。なにをやっているんだろうと自問したくなる。けさはトラブルの仲裁など探偵の仕事ではないと嘆いた。いまはただの使い走りだ。
 日が暮れてきた。道沿いの移動販売車が目にとまった。コーヒー豆を挽いて売っている。幻の高級コーヒー、ブエナヴェントラ種のモフセン=ムクタフィー、本日数量限定販売。立て看板にはそうあった。近づくといい香りがした。祖父はコーヒー好きだ。結婚記念日のプレゼントは、これがいいだろう。仰天するほどの値段のため、三杯ぶんの粉しか買えなかったが、レイは紙袋を内ポケットにおさめた。夜八時に近づいている。またクルマを走らせ、ハガニアボートベイスンへ向かった。
 けさと同じくパセオ球場のわきに停める。今晩はナイトマーケットの開催もなく、辺り一帯は暗がりに沈んでいた。あの音もやんでいた。
 駆け寄ってくる人影がある。マイスだった。レイがクルマから降り立つと、マイスは笑顔で手を握ってきた。
「兄弟」マイスがいった。「大学生たちの実験が終わった。あのボートも岸に戻ったし、エンジンも回収された」
「そうか」レイは歩きだした。「よかった。いちおう声だけはかけておこう」
 岸のほうへ向かいかけたとき、学生らが機材を抱えて果樹から姿を現した。近くに停めてあるバンに積もうとしている。
 イ・ハジンがレイに笑いかけた。「気をつけてください。暗くてよく見えませんが、まだ配線があちこち地面を這ってます。パネルも置いてあります。踏むと割れてしまいますから」
 レイは立ちどまってきいた。「データはとれた?」
「ええ、充分です。お騒がせしました」
 ふと思いついたことがあった。レイはハジンにたずねた。「音波について研究してるんだろ? 盗聴器発見機にひっかからずに室内の声をきく方法はないかな」
「はて。探偵さんの仕事に必要なんですか?」
「まあそんなところだ」
「そうですね、無線電波を拾われてしまうのなら、レーザー光線を使ってはどうですか。部屋の窓に照射すれば、反射して戻ってきた光線を受光機で読みとり、振動情報から音声を分析できます」
「それなら知ってるが、できればすぐ実行したい。夜明けはまだ遠いだろ。レーザーを窓に当てたら、光に気づかれちまう」
 すると女子学生のチョ・ヒジュンが近づいてきていった。「ハジン君。マップルジャクジョンならどう?」
「ああ」ハジンがうなずいた。「それならできるかも。探偵さん、可視光線を使う以外の方法がありますよ。ただし準備が複雑なので、今夜じゅうに準備するのはとても……」
「かまわない」レイは応じた。「長期戦になるかもしれないんでね。実現できる段階になったら連絡をくれないか。依頼人から報酬がでるから、一部をお礼に払うよ」


 空軍基地へ戻る前に、職場の事務所に立ち寄った。意外にもまだ明かりが点いていた。父デニスがひとり居残っている。
 レイはデスクに近づきながらいった。「なんだよ。残業か?」
「おまえをまってたんだ」デニスがスマホを差しだしてきた。「こいつを見てみろ」
 動画が映しだされている。防犯カメラの録画映像のようだ。表示された日付によれば先月半ば、時刻は午後六時すぎだった。飲食店内のテーブル席を、斜め上方からとらえている。私服姿がふたり顔を突き合わせていた。三十代の白人男性と、肥満しきった黒人が会話中だった。
 黒人のほうは顔馴染みだ。見知らぬ白人がなにやら熱っぽく語り、黒人の腕をつかんだ。だが黒人は嫌気がさしたかのように、その手を振りほどくと席を立った。白人をひとり残し、憤然と歩き去っていく。
 レイはきいた。「誰?」
「デブのほうは情報屋のビリーだ。デデド周辺のきな臭い話に詳しい」
「知ってるよ。ビリーに会いに来た白人が誰なのかって話だ」
 するとデニスが妙な顔になった。「きょう俺も自分なりに調べまわったんだぞ。それがナイジェル・マクミラン大尉じゃないのか」
 思わず絶句した。画面を拡大したうえで丹念に観察する。大尉とは別人だ。たしかに痩せた身体つきや、神経質そうな素振りは共通している。年齢も同じぐらいかもしれない。だが顔は似ても似つかなかった。この男は大尉よりも鷲鼻で、ぎょろりと剥いた目つきがあきらかに異なる。レイはデニスにたずねた。「こいつがマクミラン大尉だと名乗った?」
「ああ。ビリーが裏稼業に精通してるときいて、接触してきたらしい。機密情報を手土産に亡命したいから、密航手段がわかるなら力を貸してくれと」
「亡命だって? どこへ?」
「北朝鮮だ」
「なんだよそれ。グアムにミサイル攻撃を加えると脅してくる国に、偽の空軍大尉が亡命したがってるって?」
 グアムは合衆国のアジア戦略における拠点だ。よって北朝鮮がミサイルの標的にしたがっている。事実、CIAが衛星写真で確認した北朝鮮の大陸間弾道ミサイルは、グアムを射程距離におさめうると報じられている。
 デニスが顔をしかめた。「ひところはミサイル騒動のせいで、グアムを訪れる観光客も激減したな。米朝首脳会談の実現で危機は去ったかと思えば、北朝鮮は核開発をやめてないって噂もある」
「偽のマクミラン大尉は、どんな情報を持ってるって?」
「ビリーも胡散臭い話だと思って、詳しくはきかなかったようだ。B1爆撃機による防空戦略のかなめになるオンラインネットワークがあって、そこにハッキングする方法らしい。空軍基地がどんな防護策をとろうとも、確実に侵入できるとか」
「ってことはIDとパスワードを知ってるとか、そんなレベルの情報じゃないわけだ」レイは苦笑した。「でまかせならなんとでもいえるな」
「偽のマクミラン大尉によれば、西側から亡命した軍人が、平壌ピョンヤンで手厚い待遇を受けてるから、自分もと思ったそうだ」
「アメリカを捨てて北朝鮮で暮らしたいって?」
「ああ。欺瞞ぎまんだらけで、いじめが横行しまくる軍隊に、ほとほと嫌気がさしたそうだ。貴重な情報を北朝鮮に売り渡すことで、かえって太平洋の平和が保たれるとも主張したらしくてな」
 レイは呆れざるをえなかった。「父さんはふだん、探偵の秘訣は情報を疑ってかかることだといってなかった? ろくに検証しないのに、こいつをマクミラン大尉と決めつけるなんて」
 デニスが苦い顔になった。「ビリーのもとだけじゃなく、あちこち手あたりしだいに亡命の相談を持ちかけてる。アプラ港に停泊中の貨物船まで訪ねてるんだ。どこでもマクミラン大尉の名をかたってるから、てっきりそうだと思った」
 父らしくもない。レイは鼻で笑った。だがこの偽大尉は何者だろう。どういうつもりで大尉をおとしめようとしているのか。
 直後、ひとつの考えが急速に浮上してきた。衝撃が脳髄を揺さぶった。じっとしてはいられない気分だった。レイは身を翻した。「基地へ行く」
「どうした? 急に」
「なにが起きてるのかわかってきた」
「まて」デニスの勘はさすがに鋭かった。すでに状況を理解しつつあるらしい、真顔で告げてきた。「俺も行く」
「助手席、ビールと食い物でいっぱいなんだけど」
「もう打ち上げの準備か? ふたりがかりで下ろせば、さっさと片付けられる」デニスが率先して駆けだした。「行くぞ。おまえの推測どおりなら、事態は一刻を争う」

 夜十時をまわっている。インターホンの呼びかけに、リモート操作の解錠が応えた。レイはドアを開け、ひとりマクミラン大尉の部屋に踏みこんだ。明かりは消えたままだが、昼間ここに来たときに間取りは覚えた。リビングへまっすぐに進んでいく。
 マクミランはやはりソファにいた。パジャマにガウン姿でシーツにくるまっている。暗がりのなかでも、口もとを歪めたのが見てとれた。マクミランがいった。「遅かったな。ビールはどうした」
 レイは答えなかった。歩も緩めず、むしろ足ばやに距離を詰めていった。羽織ったシャツの下、ホルスターに手を伸ばし、グロック42のグリップをつかんだ。
 闇に目が慣れているという点では、猫を自称したマクミランのほうに分があるようだった。レイが拳銃を引き抜くのを素早く見てとったらしい、マクミランは身体を起こし、P320をすくいあげた。
 しかし銃口が狙い済ますのは、レイのほうが先だった。間に合わないと判断したのだろう、マクミランは一瞬のためらいもなくテーブルを踏み越え、レイに飛びかかってきた。
 衝突時、頭骨に鈍い音が響き、次いでしびれるような激痛が襲った。押し倒された瞬間、背中に硬い物がぶつかり、ガラスの割れるけたたましい音を耳にする。サイドテーブルがフレームごと変形し潰れたのを、全身の触覚に感じとった。まずいことに拳銃がレイの手を離れていた。マクミランが気づいたらしい、伸びあがってP320を構え直そうとする。レイはガラスの破片を拾い、ナイフがわりにマクミランの向こうずねを斬りつけた。悲鳴をあげ、マクミランが身をかがめる。すかさずレイはその顎を蹴りあげた。マクミランが仰向けに転倒した。なにかが床に跳ねる音が響く。拳銃にちがいない。マクミランもP320を手放した。
 レイが起きあがって反撃に転じようとしたとき、マクミランは床を転がりキッチンへ躍りこんだ。肉切り包丁をつかみ向き直る。猛然と襲いかかってくるや、刃が音を立てて空を切った。レイは身を退きながら、テレビのリモコンをつかんだ。でたらめな判断ではない、その種のリモコンは背面が湾曲していて握りやすく、しかも適度な長さを有する。落下しても壊れないよう、あるていどの強度を備える。護身術の武器として最適だと教わった。
 リモコンを長く持ち、リーチの伸びを生かして踏みこむ。先端でマクミランの目もとを鋭く突いた。打撃の手ごたえを感じると同時に、マクミランの叫びもきいたものの、深追いせずただちに後方へ飛びのく。肉切り包丁のスイングをかわしてから、また踏みこんで一気に距離を詰め殴打した。マクミランが大きく体勢を崩した。レイはすかさず合気道の入り身でマクミランの背後にまわりこんだ。マクミランの重心を背後にずらし、後方へと投げ倒す。床に叩きつけると、マクミランが苦痛のうめき声を発した。落下した包丁を蹴って遠ざける。代わりにグロック42を拾いあげ、安全装置をかけホルスターに戻した。レイはマクミランの襟首をつかみ、力ずくで引きずっていった。暴力を罪に問われることがあれば、正当防衛を主張するだけだ。
 廊下を抜けると、半開きのドアを蹴り開けた。視界が白く染まる。無数のSUV車によるヘッドライトの照射を浴び、目もくらむばかりだった。レイはマクミランを外階段に突き落とした。
 転げ落ちたマクミランが砂埃すなぼこりのなかでもがく。空軍警察の制服が群がり、マクミラン大尉の身柄確保にかかる。いや正確には、マクミラン大尉を名乗っていた男だ。
 バルフォア少佐が駆け寄ってきて男を見下ろす。制帽のつばを上げながら、愕然がくぜんとした面持ちでつぶやいた。「なんと。イートン・カスケン中尉か」
 カスケンと呼ばれた男の顔が、強烈な光に青白く照らしだされる。目もとと顎に、早くも内出血のあざがひろがっていた。だがカスケンは拘束されながらも、臆したようすは微塵もしめさず、不敵にバルフォアを睨みかえしている。
 レイは頬を拭った手に、ぬるっとした触感をおぼえた。指先を眺めると、赤いものがべっとりとついている。顔が血まみれだと自覚した。鼻血らしい。とはいえ動揺はなかった。P320や肉切り包丁と渡り合ったわりには善戦したほうだ。
 父デニスは空軍警察とともに立っていた。バルフォアにたずねる。「誰ですか、こいつ」
「マクミランの直属の部下だ」バルフォアはなおも信じられないというように、ひたすら目をみはっていた。「きょうも勤務していたはずだが」
 笑えない話だとレイは思った。どうりで正午近くと夜九時半すぎのみ面会に応じたわけだ。それ以外は勤務時間だった。すなわちこの部屋は数日間にわたり、ほとんど無人にすぎなかった。マクミランは不在だ。ときおりカスケンが忍びこんで身代わりを務め、マクミランが引き籠もっているフリをしてきた。
 レイは外階段を下りていった。デニスがだいじょうぶかと目でたずねてくる。レイも無言のうちに応じた。鼻血など負傷の数に入らない。
 レンドル警部の眉間に皺が寄った。「なんてことだ。マクミランは籠城していなかったのか」
 デニスがうなずいた。「でしょうね。職務を放棄して引き籠もったのは本人だったと思いますが、この男と入れ替わったんです。ここは居住区だし、包囲されてもいないから、逆側の窓から出入りもできます」
 バルフォアが腑に落ちない顔でいった。「私自身がインターホンで会話したぞ。そこでレイ・ヒガシヤマの名を告げられた」
 レイはつぶやいた。「このカスケンによる声色か、もしくはマクミランの録音でしょう。一方的に短く伝達するだけならそれで充分です。情報関係の特殊な部署に属する以上、顔写真入りの履歴書は部外者にしめされず、ネットの検索でもでてこない。ある特定の部外者に対し、前もってマクミランと名乗っておけば、顔を合わせても本人だと思いこむ。少佐や警部を含め、ほかの誰とも接触を断っているので、事実は発覚しません」
 レンドルがレイを見つめてきた。「なぜきみが利用されたんだ?」
「探偵だからです。ホテルで浮気調査のため張りこんでいる俺を見て、カスケンが気づいたのかもしれません」
 民間調査官たる探偵なら、籠城中のマクミランが対話の相手に指名しても、少佐らは適任だと認める。一方で警察官なら空軍警察からじかに情報を受けとれるが、探偵にはそこまでの権限がない。結果カスケンをマクミランと信じさせるには、探偵が最も適していることになる。
 バルフォアが語気を強めた。「そうまでしてマクミランが部屋にいると思わせたかったのか。理由はなんだ?」
 デニスがバルフォアに目を向けた。「少佐。本物のマクミラン大尉は先月から、裏社会の連中を訪ねてまわっていました。亡命したがっていたようです。防衛戦略に関するネットワークへの侵入方法が、北朝鮮に受けいれてもらうための手土産だとか」
 するとバルフォアが焦燥のいろをあらわにした。レンドルと顔を見合わせる。狼狽したようすから事態の重要度がうかがえる、レイにはそんな気がした。
 レイはバルフォアにきいた。「マクミラン大尉は要注意人物だったんですね?」
「ああ」バルフォアはため息をついた。「このところ情緒不安定になり、職場の規律を乱す傾向があることは把握していた。家族もいないし、亡命を画策しているとの噂もあった。彼は重要な機密を知る役職だったし、放置はできなかった。ところが取り調べを開始する前に、拳銃を持ったまま引き籠もってしまった」
 籠城といっても基地内だ、逃亡の恐れはないと踏んだのだろう。部屋のインターネットと電話回線を断ち、外部と通じ合うのを不可能にした。マクミランが指名した探偵のレイを呼び、対話係とする。少佐らの判断は至極真っ当といえた。
 レンドル警部がカスケンに詰め寄った。「本物のマクミラン大尉はどこにいる」
 身柄を拘束された状態のカスケンは、及び腰になるどころか、レンドルに食ってかかった。「いまさら動いても無駄だ。俺は時間稼ぎにすぎない。大尉が抱いてた疑問と同じことを、俺も考えてた。理不尽な命令に暴力沙汰、弱者への責任転嫁。グアムでも沖縄でも住民の土地を奪い、自治権を踏みにじる。アメリカ軍は恥を知るべきだ」
 バルフォアは憤りのいろを浮かべ、カスケンに怒鳴った。「貴様こそ恥を知れ。国家に忠誠を誓いながら、謀反におよぶとはなにごとだ」
 デニスがバルフォアを手で制し、カスケンに向き直っていった。「きみやマクミラン大尉は軍の内情に詳しい。どんな不満を抱いたか、一市民の俺にはわからん。許しがたい理由があったのかもしれん。しかしいまはその是非を吟味するときではない。大尉の命にかかわる状況だ。答えろ。大尉はどこだ」
 カスケンがいいかえした。「大尉はもう軍人でもなければ、アメリカ人ですらない。所在を明かす義理もない」
「なんらかの方法で亡命済みってわけか。だがいくら軍に詳しかろうと、きみらはグアムの庶民を知らん。とりわけ犯罪で飯を食ってる鼻つまみ者の暮らしぶりはな」
 不穏な空気を察したらしい。カスケンが表情を険しくした。「なんのことだ」
「共産圏への密航すら請け負うと豪語するワルは、たしかにグアムのあちこちにいる。だが奴らはLAのマフィアとはちがう。実際にはそんな力はない。受注するフリをして、金だけむしり取るのが目的だ。依頼人にやましいところがあれば、それをネタにして逆に強請ゆすってくる。それが現実だよ。ネットの裏サイトの情報を鵜呑みにしちまうあたり、若くして尉官になる坊ちゃんどもは、世間知らずとしかいえん」
「馬鹿いうな」カスケンが怒声を響かせた。「大尉は利口な人だ。慎重に慎重を重ねて検討し、段取りを実行に移した」
 レイは耳を疑った。「実行に移した? グアムで裏社会の手を借りて、ひそかに出国し、もう亡命してるってのか。探偵をやってる身からいわせてもらえば、まるでありえない話だよ。空き巣や詐欺で食いつなぐチンピラどもに、そんな大それた計画が立てられるはずがない」
 カスケンの自信に満ちた顔が曇りがちになった。ようやく根拠の弱さに気づきだしたらしい。
 だが疑問もある。マクミランやカスケンがそこまで信頼を寄せるとは、どこの誰によるどんな詐欺だろう。グアムに暗躍するあらゆるやくざ者の顔が、レイの脳裏をよぎった。どいつもこいつも、さほど知恵の働く詐欺師ではない。空軍大尉をだますとなると大仕事だ。カモになりうるとわかっていても、みな尻込みして手をださないだろう。
 ふと頭にひらめくものがあった。ひょっとして主犯は、従来の詐欺師以外か。ありうる。だとしたら狭い島で見聞きした情報のうち、当てはまる可能性はそれしかない。レイはいった。「いますぐ向かうべきだ。大尉の身が危険に晒されてる」
「なに?」バルフォアが目を剥いた。「見当がついたのか」
 レイはうなずいてみせた。「こっちじゃなくフィリピン海側ですが、急げば間に合います。なにせちっぽけな島なので」


 空軍基地だけにヘリの離陸も可能なはずだったが、どうやらレイの主張が正しいと見なされたらしい。州道1号線を車両で飛ばしたほうが早く着く、そう判断が下ったようだ。夜も更けてきた。クルマの通行もまばらなうえ、車道は常に片側二車線から三車線もある。空軍警察のSUV車がサイレンを鳴らし、数台連なって走行すれば、行く手を遮るものはなにもない。
 三列シート七人乗りの車内で、レイはデニスと並び、最後列におさまっていた。きょうのあらましを簡潔に伝える。
 前のシートのレンドル警部が振りかえり、驚きのいろとともにきいた。「大学生の犯行だってのか」
「そうです」レイはサイレンに掻き消されまいと大声で応じた。「マクミラン大尉が密航手段を求め、あちこちあたるうち、学生たちの耳に入ったんでしょう」
 同じく前の列に座るバルフォア少佐が、しかめっ面で振り向いた。「まるっきりナンセンスな憶測だ。大尉が学生にだまされると、本気で思ってるのか。あらゆる知識に長けている大尉を、いったいどう丸めこんだというんだ」
「そこは事実をたしかめてみないことにはわかりません。空軍大尉の信頼を得るだけのなんらかの秘策が、学生たちにあったのかも」
 デニスがいった。「レイ。俺が情報屋のビリーにきいた話じゃ、大尉が約束した謝礼はたいした金額じゃなかったらしい。むしろ亡命により太平洋に平和が訪れるから、その意義を理解してほしいとか、情にうったえるばかりだったらしくてな。学生らがそれに同調したってのか?」
「いや」レイは首を横に振った。「学生たちは純粋に金目当てだったんだよ。重要な軍事機密を入手すれば、高く売れるじゃないか。オンラインネットワークへの侵入方法なら、他国のバイヤーとの取引もメールで済ませられる。金を振りこませ、商材は添付ファイルで送れるんだから」
「おい、それは変だ。大尉は学生たちに、亡命への協力を求めただけだろう。軍事機密を明かすのは、北朝鮮に渡ってからのはずだ。向こうの政府に受けいれてもらうための手土産だぞ」
「だから渡航したと思わせようとしたんだって。けさハガニアボートベイスンで学生らが実験してた。ボートに小型船舶用のエンジンを載せ、昼夜問わず延々と四日間も稼働させた。燃料は絶えず注ぎ足したんだろう。土台は上げ底にして、シートが盛り上がった状態だったから、あのなかにマクミラン大尉が横たわってたと考えられる」
 レンドルがレイを見つめてきた。「海上を移動したように信じさせたのか」
「ええ」レイは応じた。「大尉は目隠しをさせられた状態で、棺桶のような箱に入れられ、ハガニアボートベイスンに運ばれた。そこでボートの船底に閉じこめられたんです。たぶん学生らとの接触時から、目隠しを強要されたと思います。首謀者と協力者の素性を伏せるためといわれれば、従わざるをえません。グアム大学の学生とは知らなかった可能性が大です。むろんボートのサイズもわからないままです」
「しかし」レンドルが身を乗りだした。「ボートを何日も航行させるわけにはいかんだろう」
「だから推力とは無関係なエンジンを載せ、音だけをきかせたんです。じかに真上に据えたのも、現地の環境音を大尉の耳に届かせまいとしたからです」
「そんなにうるさければ、かえって周囲の目を引くはずだが」
「ボートが係留されていたのは、岸から六十フィートも離れた入り江のなかです。陸に届く音は五十デシベル以下で、公園の管理事務所から許可も下りていました。近所で働くチャモロ人が、警察やほかの探偵事務所に相談したものの、相手にされずうちにまわってきた。いま思えば幸運でした」
「三日や四日じゃ北朝鮮に着けん。大尉も疑問に思うんじゃないか」
「太陽の光を遮断されたうえ、エンジン音が響くほかは、かすかな波の音をきくだけです。ボートは揺らぎつづけるし、航行してるという実感はあったでしょう。何度か眠りにおちるうち、時間の経過は不明瞭になります。退屈ですし、日数を長く感じるはずです。時計やスマホは、金属探知機にひっかかるとかいって取りあげたでしょうし」
「何日もボートに横たわっているあいだ、大尉は飲まず食わずだったのか」
「いえ。水や非常食は積んであったと思います。でも箱は密閉され、外は見られない状態だったにちがいありません。トイレは行けないから、宇宙飛行士と同じくおむつでしょうね。承諾したうえで密航に臨んだのだと思います」
「なるほど。小型貨物船の積み荷に潜むと説明されれば、箱のなかでも納得するしかないな」
「ええ。実際には髭の伸びぐあいで日数がわかるはずですが……」
 デニスが声高にいった。「髭のことなんか気にならんはずだ。それどころじゃないからな。北朝鮮に到着したといわれ、箱が開いたとたん髭を剃られれば、伸びぐあいなど自覚もしようがない」
 バルフォアが怪訝そうな顔になった。「ずっとハガニアボートベイスンにいたんだろ? どうやって到着を演出する?」
 レイはいった。「あの岸辺には戦跡のトーチカがあります。石造りで、窓は海に向いた銃眼のみ、内部も牢獄のように狭い小部屋です。夜八時にはエンジン音がやんでいたので、マクミラン大尉は箱ごとトーチカのなかに運ばれたと思います。そこで箱からだされ、朝鮮人民軍による取り調べを受ける」
「朝鮮人民軍による取り調べだと?」
「学生たちはみな韓国人です。彼らがこの計画を実行可能と考えたのも、そのせいです」
「まて。大尉が事前に目隠しをさせられていたのなら、たしかに学生たちの顔を拝むのは初めてだろう。英語でなく韓国語に切り替えられれば、初対面の北朝鮮人とは信じるかもしれん。しかし軍人かどうかは一目瞭然じゃないか」
「そうでもありません。昼間、学生たちはみな地味な服装だったのに、からのスーツカバーがいくつもありました。朝鮮人民軍に見えるコスプレ用制服が、トーチカに搬入済みだったんです」
 デニスが神妙な目を向けてきた。「おまえは夜八時すぎにも、ようすを見に行ったんだろ? 異変に気づかなかったのか」
 レイの胸中に苦い思いがひろがった。「音がやんでたのを確認しただけだ。岸辺までは行かなかった」
 あのときイ・ハジンが注意を呼びかけた。暗い地面に配線が這っている、パネルも横たわっていると。トーチカに近づかせないための巧みな理由付けだった。おかげで深く踏みこむのを躊躇してしまった。マイスもボートが岸に戻ったといっていたが、遠目に確認したにすぎないのだろう。レイと同様、岸辺には寄りつけなかったにちがいない。
 レンドルが唸った。「朝鮮人民軍による取り調べで、情報と引き替えに平壌での生活を保証するといわれたら、告白しかねないな。何日間もボートで揺られていた疲れもある」
 バルフォアは納得しかねるといいたげに腕組みをした。「裏切り者を擁護したくはないが、彼も士官になる訓練を受けてきた。韓国人学生の扮装ふんそうごときを鵜呑みにするとは、やはり考えられん」
「しかし」レンドルが不安げな顔をバルフォアに向けた。「もしすっかり信じきって、軍事機密を明かしてしまったら、大尉はどうなりますか」
「軍法会議ものだ」
「いや、そういう意味ではなくて……」
 レイは思いのままを口にした。「イ・ハジンたちは、グアム大学に音波実験を正式に要請し、許可を得ています。すなわち一連のできごとを完全にカモフラージュするつもりだったんです。今後も問題を発覚させず、学生生活をつづける気満々でしょう。軍事機密を喋らせたのちも、大尉が生き延びることは、彼らにとって都合が悪いはずです」
 車内に重苦しい空気が充満しだした。誰もが無言のまま視線を交錯させる。
 デニスが深刻な面持ちでつぶやいた。「少佐のご期待どおり、マクミラン大尉が学生たちの嘘を見抜くか、軍事機密について固く口を閉ざすのを祈るしかありません」
 バルフォアが制帽を脱いだ。両手で頭を抱え項垂うなだれる。「前代未聞だ。情報が売り渡されてしまったらどうなる。ネットワークへの侵入方法は、容易に回避できるものじゃないんだ。遮断すればシステム自体が機能を失う、それぐらい高度なレベルのアクセス手段だぞ。グアムの防空体制は壊滅状態になる」
 レイは黙っていた。大学生らは殺人にまで手を染めうるだろうか。ないとはいいきれない。空軍大尉を罠にめ、亡命を果たしたと錯覚させたうえで、軍事機密をききだす。充分すぎるほどの重犯罪だ。その先を躊躇すると、どうしていえるだろうか。
 しかし机上の空論に留まらず、ここまで大胆な犯行に踏みきるとは、どんな背景があったのか。マクミラン大尉に密航が可能と信じさせた時点で、よほど口が達者だったことになる。あのおとなしそうな大学生らが、どうやって空軍大尉を欺きえたのか。そこがやはり最大の疑問だった。
 レンドルが前方に向き直った。「サイレンを消せ。接近を気づかれるな」
 すでにクルマはパセオ公園の西側に乗りいれていた。速度を落とし、球場の脇道を徐行する。全車両が縦列に並んで停まった。ドアが開け放たれ、空軍警察の制服が続々と降り立つ。レイもデニスとともに車外にでた。
 生暖かい風がいつもどおり吹きつける。波の音もかすかにきこえてくる。変化ひとつ感じないハガニアの夜だった。だがそれは見せかけにすぎない。けさここを訪ねたときにも、穏やかならぬ事態が進行中だとは想像もつかなかった。
 周りの制服はみな拳銃を抜き、両手でかまえて前進していく。デニスもホルスターからスプリングフィールドアーモリーのXD‐Sを抜いた。レイのグロック42と同様、六発しか装填そうてんできない小ぶりのオートマチックだが、探偵に所持と携帯が許可される拳銃には制限がある。ふだんの仕事ならそれで充分だが、いまは状況がちがった。デニスは気にしていないようだが、レイは制服たちのずんぐりとしたベレッタを、すなおに羨ましいと感じた。
 制服の群れが果樹のなかを突っ切り、入り江の岸辺へ向かう。懐中電灯は灯していない。彼らには暗視ゴーグルがある。
 馴染みの庭だ、明かりはなくとも、おおまかな位置関係はわかる。レイも拳銃の安全装置を外し、後につづいた。通路の柵を手で探りあてる。小径こみちに沿って進めば岸まで行き着く。
 やがて闇のなかにかすかな光の明滅を目にした。波立つ海面の反射だとわかった。凝視せずとも、陸にあがったボートが見てとれる。横転ぎみに傾いていて、なかにはなにもなかった。ビニールの覆いが地面におちている。大尉は箱ごと運びだされたのだろう。
 前方で制服がいっせいに散り、姿勢を低くして潜んだ。レイもそれに倣った。行く手には石造りの建物が、おぼろに白く浮かびあがっている。ごく小規模な城塞じょうさいという趣きに満ちていた。制服が包囲にかかる。出入り口はひとつ、錆びついた鉄製の扉だった。半開きになっているのを過去に何度も目にしたが、いまは固く閉ざされているようだ。
 妙なことに、鈍い音が反響してきこえてくる。機械的な規則性はなく、断続的で強弱があった。耳を澄ますうち、くぐもった声に気づかされた。サルリョジュセヨ、複数の発声がそう呼びかけている。韓国語で助けを求めていた。英語で喋るのを忘れるほど切迫した状況らしい。聞き覚えのある声も交ざっている。イ・ハジンにちがいなかった。ほかの声も総じて若い。レイは起きあがって駆けだした。
 デニスが小声で呼びとめた。「おい、レイ。まて」
 足をとめる気はなかった。レイはトーチカに接近すると、出入り口の前に立った。内側から扉を叩く音が響いてくる。かんぬきが挿さっていた。横滑りに開けにかかる。錆びのせいか、あるいは歪んでいるからか、ほとんどびくともしない。
 空軍警察の制服らが状況を察したらしい。数人が駆け寄ってきた。手を貸す、そう身振りでしめしてくる。取りだされた工具は、極めて大きいサイズのウォーターポンププライヤーだった。先端で閂をしっかりとはさみこんだうえ、全員で柄をつかみ、ゆっくり横にずらしていく。閂はきしみながら動きだした。
 やがて扉が弾けるように開いた。とたんにまばゆいばかりの光が視野にひろがった。キャンプ用のLED式ランタンが天井から吊ってある。室内にある唯一の照明らしい。空軍警察が踏みこんでいくと、なかにいた数人は怯えきったようすで、いっせいに両手をあげた。
 塁壁に四方を囲まれた、独房さながらの手狭な空間だった。情けなく降参の素振りをしめす大学生たちは、あきれるほど本格的な装いに身を包んでいる。イ・ハジンら四人の男たちはみな、カーキいろの軍服を着ていた。制帽に赤い襟章と腕章、革製のサムブラウンベルト。ひとりだけいる女も同じ軍服姿だが、スラックスでなくタイトスカートだった。いずれもニュースで目にした北朝鮮軍のパレードを思い起こさせる。質のいい仕立てで、生地も安っぽくなく、コスプレ衣装とは信じがたい出来栄えだった。
 もっともそれは軍服にかぎってのことだ。態度はまるで兵士にふさわしくない。みなすっかり青ざめ、震えながらすくみあがっている。空軍警察が外に並ぶよう学生らをうながした。若者たちは狼狽をしめしながら、両手をあげたまま指示に従った。
 レンドル警部がバルフォア少佐とともに駆けてきた。トーチカの内部を一瞥してから、レンドルは学生らに向き直った。「マクミラン大尉はどこだ?」
「あのう」イ・ハジンがうわずった声で応じた。「すみません。どうか撃たないでください。僕らはグアム大学の学生です」
 バルフォアが詰め寄った。「そんなことはわかっとる。大尉から機密情報をききだしたのか」
「いえ、あの」
「なんだ。はっきり答えろ」
 別の学生が声を震わせながらいった。「きいてません」
「本当か」バルフォアが睨みつけた。
「ええ。初めのうちはマクミラン大尉も会話に応じていたんですが、徐々に怪しまれてしまいまして。ここは三十八度線に近いイムジン川沿いだと伝えたんですが、大尉が質問してきたんです。草木のざわめきがきこえるのに、どうして蝉の声がないのかと」
 デニスがため息をついた。「さすが大尉だ、機転がきくな。グアムには蝉がいない」
 孤島までたどりつけないとか、暑さのせいで卵がかえらないまま死んでしまうとか、さまざまな説がある。グアムで蝉の声がきこえないのはたしかだ。だが北朝鮮はそうではあるまい。
 イ・ハジンがうなずいた。「僕らはあわててしまい、夜は蝉が鳴かないといったんですが、よく考えてみたらソウルでは日没後も鳴いてたかも」
 レイはあきれるしかなかった。「蝉はカメムシの子孫にあたるから、もともと夜行性だ」
「そうなんですか」ハジンがおろおろと見つめてきた。
「タイの蝉は夜も鳴くよ。日本や韓国でも、熱帯夜の気温が上昇したせいでそうなった」
「ですよね。北朝鮮は涼しいのでと弁解したんですが……」
「これだけ暑けりゃ説得力がない」
「勉強不足でした」ハジンが途方に暮れた顔になった。「みな言葉に詰まってしまい、それっきり会話は途絶えました。もうなにをいおうとも、大尉は沈黙したままで」
 バルフォアがほっとしたようにつぶやいた。「やはり士官になるべく鍛えられただけのことはある。安易に状況を信じたり、心を許したりはせん」
 だがレンドルは逆に表情を険しくし、ハジンに詰問した。「まさか大尉が口を割らないと知って、用なしと判断したんじゃないだろうな」
「とんでもない!」ハジンは首を激しく横に振った。「ただチョ・ヒジュンが大尉を連れだし、僕らをここに閉じこめて……」
「なんだと? ヒジュンってのは誰だ」
 レイははっとした。女子学生はふたりいたはずだ。いまはひとりしかいない。チョ・ヒジュンという三つ編みの女は姿を消している。
 デニスが眉をひそめハジンを見つめた。「女ひとりに、きみら全員が置き去りにされたってのか」
「ええ。彼女が銃を突きつけてきたので……」
「銃?」バルフォアが声を張りあげた。「いい加減、軍隊ごっこの戯言はよせ」
「本当なんです! この衣装も彼女が調達してくれて、ずいぶん用意周到だと思ったら……」
 背後に風を切る音をきいた。野球で打ちあがったボールをキャッチするべく、まちかまえているときに耳にする、そんな音だと感じた。レイは振りかえった。小さな物体が放物線を描いて飛んでくる。
 テロ対策が重視されるアメリカの警察学校では、あらゆる物騒な武器について教育を受け、身を守るすべの特訓を受ける。いまも物体が空中にあるうちに、瞬時に形状を見てとった。レイはとっさに叫んだ。「手榴弾しゅりゅうだん。散れ!」
 空軍警察の反応は素早かった。警部や少佐を保護し、たちまち散開する。デニスが学生らに飛びつき、トーチカのなかに転がりこむのを見た。四人の男子学生はトーチカ内に退避したが、女子学生がひとり茫然と立ち尽くしている。レイは駆けだすと、女子学生を抱きかかえ、わずかな窪地くぼちに伏せた。悲鳴をあげる女子学生に覆いかぶさりながら、レイは両手で自分の耳をふさいだ。
 ふいに目もくらむ閃光が走り、視界が真っ赤に染まった。地響きとともに火球が膨れあがると、巨大な火柱となって噴火のごとく垂直に立ち昇る。地響きが縦揺れに襲い、肌を焼くような熱風が押し寄せてきた。夜空に舞いあがった火の粉が、砂や土にまみれながら頭上に降り注ぐ。
 レイは自分の下にいる女子学生の無事を確認した。視線をあげると、辺りには濃霧のごとく煙が立ちこめていた。両耳をしっかりふさいだおかげで、鼓膜に影響はない。周りの音がはっきりときこえる。だが空軍警察の一部は、その対応を怠ったようだ。ふらふらとさまよう人影がある。爆発直後、耳が遠くなった場合に特有の振る舞いだった。
 とはいえ爆風の直撃を受けた者はいないらしい。誰もが起きあがっている。辺りを眺め渡したが、重傷者は見当たらなかった。
 デニスの泥だらけの顔が覗きこんだ。くぐもった声が問いかける。「レイ。無事か」
「平気だ」聴覚は正常と思ったが、多少は鈍化しているらしい。自分の声も籠もってきこえた。
 手榴弾が飛んできたほうへ目を凝らす。不自然な動作がそこにあった。ふたりが揉みあっているように見える。体形から察するに男女のようだ。女のほうが優勢で、男を引き立たせ、連行を試みている。入り江の水辺近くにいるとわかった。
 逃亡する気だ。大尉の口を割るのに失敗し、人質として拉致するつもりだろう。真相を知る者をまとめて葬ろうとしたのは、空軍警察側の対処を遅らせようとしたからだ。チョ・ヒジュンは島からの脱出を画策している。迎えの敵艦か潜水艦が洋上にいるのかもしれないが、周辺は浅瀬で近づけない。沖まで小型艇で向かう段取りか。
 レイは起きあがり全力で駆けだした。拳銃を両手で握り、目の高さに保持しながら、行く手にまっすぐ銃口を向けた。肘は伸ばしきらずわずかに曲げ、片時も銃を下げぬよう心がける。
 どうりで空軍大尉ともあろう者が、大学生の口車に乗ったわけだ。本物の北朝鮮工作員による知恵が背景にあった。チョ・ヒジュンは学生のなかにまぎれ、周りを扇動し、一連の犯行を牽引した。具体的な説明で大尉を納得させたにちがいない。
 そういえば彼女はイ・ハジンにいった。マップルジャクジョンならどう。
 韓国製盗聴器の商品名あたりかと思ったが、ちがっていたようだ。あれはハジンへの暗号だった。マップルジャクジョンとは北朝鮮の軍事用語で、対抗作戦を意味する。偽のマクミラン大尉のアリバイ工作に利用した探偵が、音波実験の偽装現場にも現れたと知り、緊急対応を示唆したのだろう。
 ふたつの人影が眼前に迫った。チョ・ヒジュンはカーキいろの軍服姿だった。人質はアメリカ空軍の制服だ。防犯カメラ映像で見た顔とわかる。情報屋ビリーに接触していた男、本物のマクミラン大尉だった。ヒジュンはマクミランに拳銃を突きつけ、海辺へ向かわせようとしている。海面に推進エンジン付きのインフレータブルボートが浮かんでいた。乗れと脅しているようだ。
 レイは怒鳴った。「よせ。とまれ!」
 発砲はできなかった。マクミランが近すぎる。ヒジュンがびくっと反応し、銃口をレイに向けてきた。レイはとっさに突っ伏したが、銃撃を逃れられるかどうかは微妙だった。
 だが次の瞬間、マクミランが動いた。自分の身から銃口が逸れたのを勝機と感じたらしい、ヒジュンの腕に飛びついた。ヒジュンはすぐさま体勢を立て直し、マクミランの後頭部を銃床でしたたかに打った。
 レイは猛然と突進し、銃を持ったヒジュンの手首をつかんだ。外側からヒジュンの腕をくぐり、逆方向にねじりつつ折りたたむ。ふいに肘が曲がれば指先に力は入らず、銃の引き金も引けない。肩関節までを固め、ヒジュンの腕を背に運び、斜め後方へと倒しにかかった。ヒジュンは激痛に耐えかねたらしく悲鳴をあげ、空中で半回転すると、つんのめるように地面に這った。
 空軍警察が駆けつけてきて包囲した。無数の銃口がヒジュンを慎重に狙い済ます。ヒジュンは仰向けになったものの、観念したように拳銃を手放した。
 近くでマクミラン大尉が上半身を起こしていた。息を弾ませている。げっそりと痩せこけ、疲弊しきったようすだった。興奮状態が徐々に鎮まり、魂の抜けたような目つきになる。これまでを振りかえれば当然の反応だろう。
 小走りに駆けてきたのはバルフォアとレンドルだった。バルフォアはマクミランに目をとめたとたん色めき立ち、近くにいたデニスに握手を求めた。「さすがだ! あなたの探偵事務所の洞察力はたいしたものだ。おかげでグアムが核攻撃から救われたといっても過言ではない」
 事務所のボスをデニスと見なしたうえでの賞賛だろう。デニスとレイが親子と気づいていないのかもしれない。
 だがデニスは真の貢献者が誰かを理解しているようだった。バルフォアにはなんの返事もなく、レイを見下ろし穏やかにいった。「親父が知ったら卒倒するな。いや大喜びか。孫が大仕事を終えた。成長の証だ」
 レイはふと胸もとに手をやった。袋がやぶれ、粉はほとんど残っていなかった。失意とともにレイはつぶやいた。「仕事は果たせても、もうひとつのプレゼントが台なしだよ。じっちゃんにうまいコーヒーをすすってほしかったのに」
「いや。プレゼントなら、おまえはちゃんと贈ってる」デニスがレイの手をしっかりと握った。「親父が今後もグアムでコーヒーを飲めるのは、おまえのおかげさ」


>>松岡圭祐『グアムの探偵』
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