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話題作『トリニティ』の著者、窪美澄さんの最新刊『いるいないみらい』が、6月28日に発売!
本作は、子どもがいるかいないかをテーマに、未来に向けて“家族のカタチ”を模索する人たちの、痛くて切なくもあたたかな物語です。
その中の一編、「1DKとメロンパン」を公開します!(第1回から読む)
>>第2回へ
坂の上にある実家に来るのは、半年ぶりのことだった。父親の三回忌以来の実家だ。最寄り駅から山側にある家までは、長い長い階段が続く。実家にいた頃は毎日上り下りしていたのに、久しぶりだと息が切れた。母は今、実家でひとり暮らしだが、あの年齢でこの坂を上り下りしているのなら元気なはずだ、と思った。
妹の佳奈が里帰り出産をしに帰ってきたのだから会いに来なさい、と母から命令口調で言われた。「時間があれば会いに来たら?」というマイルドな誘い方をすれば私が絶対に実家に足を向けないということを母もわかっているのだろう。鉄製の階段の手すりに手をやりながら、片手にはフルーツゼリーの入った箱がある。なんだって崩れやすいゼリーなんて買ってしまったのだろうと思うが、駅前ビルのケーキ屋のガラスケースを見ていたら、どうしても食べたくてたまらなくなった。父がよくおみやげに買ってきてくれた店のものだ。
はー、はー、と息を吐きながら、階段の途中で後ろを振りかえった。太ももの裏あたりにじんわりとした疲れを感じる。はるか遠くにほんの少しだけ海が見える。天気がいい日は沖にある小島が見えるのだが、今日は太陽が厚い雲に隠れているせいか、目を細めてみても見えない。冬なのに、太っているせいで、すぐに汗をかく。私はバッグに入れてきたハンカチで額の汗をふいた。階段脇の家を見る。私が子どもの頃はこのあたりは山を切り崩してできた新興住宅地で、どの家もぴかぴかの新築だった。なのに、私と同じように年をとり、どの家もがたがきている。もう少し階段を上がったところにある私の家だって同じようなものだった。ここから見てもずいぶん古びた家に見える。外壁の色は褪せ、ベランダのあちこちには赤錆が浮き出している。
きい、という音を立てながら門扉を開いた。私が来る時間がわかっているからか、玄関ドアの鍵は閉められていない。「ただいまあ」と声をかけながら、ほんの少し黴臭い玄関で靴を脱いだ。母のつっかけに並んで、佳奈が履いてきたらしいスニーカーが玄関のすみに置かれている。
「うわ、お姉ちゃんすっごい汗」
居間から顔を出した佳奈のおなかを見て驚いた。すっごいのは佳奈のおなかのほうだ。今にも破裂しそうな大きさだ。この前見た田辺さんのおなかの大きさなんて、まだまだなんだと改めて思った。
「はいこれ」とゼリーの箱を差し出すと、佳奈の顔がぱっと輝いた。
「あーこれなつかしいねえ」
私にはかなわないが、佳奈だって食べることが大好きなのだ。けれど、佳奈は私と同じ量を食べてもまったく太らない。今だって、大きなおなかをのぞけば、腕も脚も私よりずっと細い。「ちょっと佳奈早く扇いでよ」台所から母の声がする。おなかの下を両手で支えながら、佳奈がのっし、のっし、とお相撲さんのように歩いていく。洗面所で手を洗い、うがいをして、私も台所に顔を出した。つん、と酢飯の香りが鼻をつく。寿司桶いっぱいの酢飯を母がしゃもじで切るように混ぜ、佳奈がそばでぱたぱたと扇いでいる。ぐうううとおなかが鳴った。
「今日は一人?」私の顔を見て母が言う。母は何を話しても詰問口調になる。子どもの頃からもう慣れっこになっているはずなのに、久しぶりに会うと、その口調の圧の強さに改めてぎょっとしてしまう。
「うん」
「それならそうと早く伝えてくれないと。智宏さんの分も作っちゃったわよ」そう言いながら、母は酢飯の上に手早く錦糸卵を散らす。
「ほら、知佳はぼうっとしてないで。お皿出して」
はいはい、と返事をすると、「はいは一回!」と母が叫ぶ。私は食器棚からお皿を出し、居間の座卓の上に運んだ。
ちらし寿司を盛り、ゼリーを載せた皿を仏壇に上げ、母は勢いよく鈴を鳴らす。
「ごはん食べるから線香はあとでいいね。ほらあんたたちも早く食べなさい」
早く早く、ぼうっとしないで。まだ家に来て三十分も経っていないのに、母は何度も同じことを口にする。実家にいるとき、もっと子どもの頃は、母に急かされることが嫌で嫌でたまらなかった。今は短時間だけ、と割り切っているからなんとか耐えられる。私も佳奈も母に急かされ、怒られていた。早く起きろ、早く食べろ、早く靴を履け、早く風呂に入れ、宿題は終わったのか、明日の用意はできたのか。軍隊か、と思うような怒声が飛ぶことがあった。私は佳奈より動作ものんびりで、体も太って大きかったから、母には余計にのろく見えたんだろう。母の怒声はもっぱら私に向けられた。
大学受験、就活と、母の早く早くというかけ声は変わらなかった。就活そのもののストレスより、就職先が決まらなければずっと母から叱られ続ける。その恐怖のほうが強かった。無事に就職できたと思ったら次は結婚だ。佳奈の結婚が私より先に決まったとき、母の早く早くは、最高潮に大きな声で叫ばれた。智宏と結婚したいという気持ちももちろん強かったが、何より私は母の「早く早く」から逃げたかった。智宏は母のように、早く早くとは言わない。それが決め手でもあった。母は智宏の外見や収入などに大いに不満があったようだが、とにもかくにも娘を早く嫁がせる、というミッションを遂行できてほっとしているのだと思っていた。なのに。
「昔タレントが叩かれたじゃない。羊水が腐るとかなんとか。あれだってあながち噓じゃないわよ。出産なんて若ければ若いほどいいんだから」
母の言葉をネットに載せれば確実に炎上するようなことを言う。頼むからこんなことを外で誰かに言わないでほしいと心から思う。母の言葉は、私が普段あえて視界に入れないようにしている「世間」という実体のないものの声のように聞こえる。私は聞いているふりをして、うんうん、と母の言葉に頷き、ちらし寿司を食べ、お吸い物を口にする。
「もう、人の話をちゃんと聞きなさい」
生返事をしていることはすぐに母にばれる。早く食べるのと、人の話をちゃんと聞くのは同時にはできない。それでも、母が作ったちらし寿司はおいしい。お吸い物もおいしい。母の作るものは大抵おいしい。今日この家に来たのも母の料理を食べたかったからだ。出産前の佳奈に会いたい気持ちももちろんあったけれど、出産経験のない私が出産直前の佳奈に会ってもアドバイスできることも手伝えることもない。
母がこんなことを言う予感はあったのだ。臨月の佳奈に会わせて、おまえはどうなんだ、と責められるのではないかと。母の次の目標は私の妊娠。佳奈が産むんだからいいじゃん、と私は思うが、そういうものでもないらしい。お吸い物の椀を持った佳奈がテーブルの向こうから私に目配せする。子どもの頃からこうだった。母のくどすぎる説教が続くと、佳奈はいつもこんなふうに笑いかけてきた。母がお茶の準備をしに台所に立った。ふー、と佳奈と同時にため息をついて、また目を合わせて笑ってしまう。
「ええっと予定日はいつだっけ?」
「一週間後」
「えっ、でもおなか痛くなってから、ここからタクシー呼んで病院行くの大変じゃない?」
「うん、だけど、計画出産なんだよ。産む日はあらかじめ決まってるの。一週間後に病院に行って、陣痛を起こす薬を使うんだ。おなかが痛くなる前に病院に行くから何も問題ないよ」
「へええ、そういう産み方もあるんだ。すごいねえええ」
「驚いてるだけじゃだめ」背中からぴしり、とした母の声がした。
「産むつもりがあるなら、一刻も早くなんとかしなさい。時間がないんだから。知佳には。佳奈だって遅いくらいなんだから」母が急須の中に茶葉を乱暴に入れながら言う。
「お母さんは何歳で産んだんだっけ?」文鳥のように首を傾げて佳奈が聞く。
「二十四!」
「はっや」思わず私が言うと、
「早くない!」と一蹴された。二十四なんて、大学を出てまだ二年目だ。妊娠なんてしている場合じゃない。母は短大を出ているから、三年仕事をして、父と見合いで結婚を決めて、妊娠、出産、それも二回も。しかもそれから仕事をしないでずっと専業主婦だ。それを考えたら、料理くらいうまくもなるよ、と心の中で文句を言った。
昼ごはんを食べたあと、佳奈と二人で二階に上がった。この家は一階に居間と応接間と母の寝ている和室と台所、洗面所、風呂、トイレ、二階には、私と佳奈が使っていた部屋がある。今は佳奈がいるからいいようなものの、父が亡くなってから普段は母が一人で暮らしている。寂しいだろう、と思うけれど、あの母が寂しそうにしている、という姿をどうしても想像できないし、わざと考えないようにしていた。私の部屋は物置のようになっているから、佳奈の部屋で二人、私が買ってきたゼリーを食べた。ベランダには見たこともないような小さなハンガーにこれまた見たことのないような小さな肌着やベビーウエアが干されていた。
「水通しって言って、一度、着る前に水洗いしておくんだって」
「なんか、赤ちゃんの脱け殻がいっぱい干してあるみたいだね」
と私が言うと、佳奈はふふっと手の甲を口に当てて笑った。笑うと目がなくなってしまうことも子どもの頃のままで、その佳奈がもうすぐ子どもを産む、っていうことに今ひとつ現実感がない。ゼリーは子どもの頃食べたときと同じ大きさで私が大人になった分、小さく感じる。子どもの頃は食べられるのならいくつでも食べたいと思っていたけれど、今はやっぱり一個で十分だな、と思った。
「あのさあ、おなか触ってみてもいい?」
「うん、もちろんいいよ」
どうぞ、という感じで佳奈が私に向き合い、おなかをぐいっと突き出す。このなかに人間がいる。そう思うだけで、なんだかおなかに向かって拝みたくなる気持ちになるのはなんなのだろう。思わず唾を飲み込む。この前の田辺さんの送別会を思い出した。会の終わり、許可もなく、田辺さんのおなかを触った上司はやっぱないよなあ、と思った。
手のひらでそっと触れた。もっとふわふわしているのかと思ったら、意外におなかの表面はかたい。
「元気がいいときはすっごく動くんだけど、今は寝てるみたいだねえ。お姉ちゃんさあ」
「ん?」
「私、お母さんにはこの前初めて言ったんだけど、実はなかなかできなくてさ、不妊治療大変だったんだよ。それで、お母さんさっきお姉ちゃんにあんなに」
「あー」なるほど、と私は思った。
「姉妹でそういうところ似ちゃうこともあるかもしれないじゃん。私だって、治療してるとき、あと一歳若かったら、あと一歳若かったら、って、先生に何度も言われて」
佳奈がカップの底のゼリーをスプーンで集めながら言う。
「あ、だけど、お姉ちゃんとこにはお姉ちゃんとこの事情があるだろうし。だけど、子ども産むならさあ、早くしたほうがいいよ。お姉ちゃん、もうそんなに」
「ばばぁだもんね」
「そういう意味じゃなくて。年齢が上に行くほど母親も生まれてくる赤ん坊もいろんなリスクが上がるんだよ。そんなこと誰も教えてくれないじゃん。私も治療始めてから知ったことも多くてさ」
「うん……」
教えてくれてありがとう、と言うべきなのか。私は迷った。自分の子どもなんて、正直考えたことはないのだ。
「年齢が上に行けば行くほど不妊治療のお金もかかるんだよ。お姉ちゃんとこ、だって、智宏さんさあ……」
智宏の年収が私よりも低い、というのは、母にも佳奈にも言ってはいるが、実際のところ、具体的な数字を話したことはない。正直に言ったら母は腰を抜かすだろう。智宏の年収は私の半分ほどなのだ。
「うん、でも、赤ちゃんとか、まだ、ぜんぜん考えてなくてさあ」とはいえ、赤ん坊ができるような行為をしていないわけじゃない。ほかのカップルと比べたわけじゃないが、少なくともセックスレスのカップルではないと思う。でも、自分が妊娠することに今一歩踏み込めないのだ。
「お姉ちゃん、でもすぐに四十だよ。あと五年しかないんだよ。私だって三十一で不妊治療始めて、子どもできたの二年後だよ」
「うーん……」
「智宏さんは欲しがってるかもしれないじゃん」
今日の佳奈はがんがん来るなあ、と思いながら話を聞いていた。なんだか母がもう一人出現したみたいだ。その変化に驚いてもいた。子どもを持つと、多少なりとも女の人はこんな感じになってしまうんだろうか。母は下で何をしているのか、いつもは私と佳奈の話に強引に割り込んでくるのに、今日は二階にも上がってこない。もしかしてこの話を佳奈にさせるために私を呼んだのだろうか。
この電車は海まで続いているから、土曜日のこんな時間には都心に帰る家族連れをよく目にする。私の目の前には、赤ん坊を前に抱っこした若い母親と、二歳くらいの男の子を膝に乗せた父親が並んで座っていた。父親はどことなく智宏に似ている。その家族連れを見ながら、母や佳奈に言われたことを考えていた。
母や佳奈は当然、私が子どもを持つだろうという前提で話をしているけれど、子どもを持たない人生だって私は選ぶことができるのだ。どちらかと言うと、今はそっちの気持ちのほうが強かった。確固たる信念みたいなものがあって、子どもはいらない、と思っているわけでもない。そもそも、会社で妊娠、出産した人たちを見ると、大変そうで自分にはとてもできない、という感想しか持てない。いろいろ面倒くさそう。いろいろ手間がかかりそう。わけのわからない赤ん坊のときなら、まだ可愛い可愛いですむかもしれないが、産んでしまったら最後、当たり前のことだが、成長して大きくなっていくのだ。保育園に入れないとか、公園デビューとか、ママ友づきあいの煩わしさ、とか、そういうことにばっかり耳年増になってもいる。
ふいに、三十五という自分の年齢が、ひどくぐらぐらした足場に立っているもののような気がしてくる。ぴんと張ったロープの上。その上でバランスをとっているみたいに。右に転べば、子どもを持つ人生。左に転べば子どものいない人生。今ならどっちにも転べるけれど、女性が子どもを持つ人生を選ぶにははっきりと期限がある。
電車を降りて、駅前のスーパーに寄った。
お菓子売り場の前でさっき電車のなかにいたくらいの男の子がひどいかんしゃくを起こしている。そばにいるお母さんも最初は猫なで声で応えていたが、男の子はきかない。何か買ってほしいものがあるらしいのだが、お母さんは買いたくないらしい。お母さんは一生懸命男の子をなだめている。男の子は頰を膨らませ、泣きながら何かを言っているが、なんて言っているかもわからない。その顔はぜんぜん可愛いなんて思えない。それでもお母さんは説得を続ける。ああ、えらいな。私なら、この段階で手が出ているかもしれない。
「もう知らない」とお母さんが言うと、男の子は床に大の字になって大声で泣き始めた。まわりのお客さんがちらちらと男の子に目をやっているが、その視線は、私同様、あたたかいものじゃない。それを見て無理、とやっぱり思う。子ども、無理。私には。
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