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話題作『トリニティ』の著者、窪美澄さんの最新刊『いるいないみらい』が、6月28日に発売!
本作は、子どもがいるかいないかをテーマに、未来に向けて“家族のカタチ”を模索する人たちの、痛くて切なくもあたたかな物語です。

その中の一編、「1DKとメロンパン」を公開します!


 高校は行きたかった都立を落ちて女子校に通った。その学校は付属中学からそのまま上がってくる生徒がほとんどで、私のように高校から入学する生徒はごく少数だった。中学から入学すれば、素行が悪かったり、極端に成績が悪かったりしなければ、そのまま高校に上がることができる。高校受験という大きなストレスを経験していないせいなのか、内部から上がってきた生徒たちは、私がそれまで出会った女の子たちの誰よりも、よくも悪くものびのびしていた。
 夏の授業では、男性教諭が教壇に立っていても、太ももまでスカートをまくりあげて脚の間を下敷きで扇ぐ。入学当時はそれくらいのことで、どぎまぎしていた。同級生たちは自分たちの体のことについてもあけすけに語った。ブラジャーのサイズを靴のサイズと同じレベルで話題にする。「生理」という言葉だってまったく恥じらいを含まずに口にした。高校に入った頃にはもちろん私も初潮を迎えていたけれど、親や友人に向かって「生理」という言葉を口にしたことはなかった。口にしようとしても、うっ、と唇の手前で音が止まるから、あれ、とか、それ、とか言って誤魔化していたような気がする。思春期の自分の体に起こりはじめている性的な変化というのが、生々しかったし、恥ずかしかった。
 それなのに高校では生理用品の貸し借りは当たり前で、トイレに行くときにもポーチなどに入れたりせず、堂々と裸のままで持ち歩いていた。それを廊下で投げつけあってふざけたりする子もいた。最初は驚くだけだった彼女たちの言動に私はすぐに染まった。異性の目がない女だけの毎日はとってもらくちんだったからだ。
 その頃は「生理をうつして」なんていうこともよく言った。不思議なことだが、学校で誰か一人が生理になると、そのまわりにいる生徒たちも途端に生理が始まることがよくあった。プールの授業に出たくないときには、「生理をうつして」と、生理中の生徒の腰に抱きつく。修学旅行で同じ部屋で寝起きしていた全員が生理になってしまったこともあった。あれはどういう理屈でそうなるのだろう。生理中の人間が発するにおいなのか、ホルモンのせいなのか、体の難しいことはわからないけれど、まったく不思議だ。女の人の体ってそもそも──。
「ほら、ほりさんもグラス持って」右隣に座っていた同僚に促され、
「あ、ああっ、ごめんなさい」私は慌てて目の前のグラスを手にした。
 かんぱーい、という上司の合図で皆がグラスを合わせる。掘りごたつ式のテーブルの上座にはもうすぐ産休に入る田辺たなべさんがウーロン茶のグラスを手ににっこりと笑っている。田辺さんのおなかはずいぶんと大きく、ワンピースの下はバスケットボールが入っているかのように丸く膨らんでいた。今日まで毎日会社で顔を合わせていたはずなのに、今まで、おなかの膨らみが目立たないような服装を選んで会社に来ていたのだろうか。そのおなかを見て私はまたぼんやりと考え始めてしまう。
 生理と同じように妊娠もうつるんじゃないか、って。今年に入って産休に入るのは田辺さんで三人目だ。同期が一人、先輩が一人、そして三人目が四年後輩の田辺さん。高校のときの生理のように、まるで妊娠がうつっているみたいだ。世の中では少子化少子化と言うけれど、うちの会社では出産ラッシュが起きている。
 主に防虫剤、脱臭剤、殺虫剤を製造販売している中堅の総合日用品メーカーで、最近は赤ちゃん用の入浴剤や虫よけスプレーなどの衛生用品にも業務を拡大している。そんな会社が子育てをしようとする社員に優しくない、というイメージを作りたくないのだろう。女性社員から不満が出ないように、会社は長期の産休、育休、復帰後の時短勤務のために制度を整えた。上司も社長も、女性に優しい会社のイメージを保つことに躍起になっている。その十分すぎるほどの制度のせいで、実際にしわ寄せが来ているのは同じ職場の社員だが、もちろんお祝いのこんな会でそんな不満をぶちまける人はいない。
 目の前にあるあまり新鮮そうではないカルパッチョを箸でつまみ口に入れながら、つい田辺さんのおなかに目がいく。あのなかに人が一人いるんだよね。そう思うと、生理、という言葉をストレートに口にできなかった中学生の頃の自分に戻ってしまう。原因があって(つまりセックスして)結果があって(つまり妊娠して)、その現実をさらしながら人前に出てくることが恥ずかしくはないのだろうか。私の頭のなかではいろんな思いがくるくると浮かんでは消えるけれど、会社の人に向かってそれを言葉にしたことはない。そんなことはまるで考えたこともない、という大人のふりで、口角を上げ、田辺さんが無事に産休まで仕事を続けたことを祝っている。
「早く家に帰りたそうな顔しているね堀さん」
 左隣に座っている同じ業務部の先輩、八田はったさんが私の顔を見てにやにやしている。
「いや、そんなことないですよ」
「こんな会わざわざやんなくてもいいのになあ、何度も何度も同じこと、ね」
 あんたも同じ気持ちでしょ、という顔でいじわるそうに笑う。私はこの人が苦手だ。笑い返したら同意したことになってしまうと思って、私は奥歯に力をこめ、無表情を貫いた。入社して今の部署に配属されてから、私は会社では自分の感情をなるべく出さずに生きてきた。業務部とはいわば、会社内での部署間の橋渡し役だ。開発や製造、営業といった花形部署を支える裏方的な存在。と言うと聞こえはいいが、販売動向を製造部に伝えては嫌みを言われ、営業部や製造部が仕事をしやすいように計数管理を行えば何様だと怒られもする。いわば、各部署のサンドバッグと言っていいだろう。この部署に長年いると、皆、顔から表情が消えていく。八田さんだって、私が何を言っても言い返したりしない人間だと思って、本音を漏らし、自分のガス抜きをしているだけなのだ。
 そんなことを考えているうちに会は早くもお開きになった。
「妊婦をあまり遅くまで連れ回したらいけないからさ」
 上司が赤い顔でそう言い、「な」と言いながら、手のひらで田辺さんのおなかに触れたので、思わずまわりの女性社員の口が「あ」の形になった。今のは確実にハラスメントだよな、と思いつつも、即座にそういう判断をしてしまう自分が息苦しい。思っているのに言っちゃいけないことが、会社に長くいればいるほど多くなってきて、そういう鬱屈があるレベルに達すると、私は爆発したくなる。そうは言っても、ひとりカラオケにでも行って小一時間大声を出せばある程度は晴れてしまう。けれど、そういう薄い鬱憤だから余計にたちが悪い。いつまで経っても溶けずに道の端でただ汚れていく東京の雪みたいなものが自分のなかにも残っているみたいで。
 店の外に出ると、妊婦の田辺さんは皆に深く頭を下げた。
「ご迷惑かけてほんとうにすみません」そう言って田辺さんは上司が呼んだタクシーに乗り込む。車が走り出したあともいつまでも後ろを振りかえり、手を振っている。タクシーの中で田辺さんの顔から笑みが消えて、ため息をつきながら真顔になる瞬間のことを考えると、ほんの少しだけ田辺さんに同情したくなる。
 上司を含む男性メンバーはどこかの居酒屋で飲み直すらしい。キャバ~という単語も聞こえてきたような気もするが聞かなかったことにする。
「私たちもどこかで軽く飲みます?」私が聞くと、
「いやいや結婚してる人を週末に遅くまで連れ回しても悪いからさあ」と先輩が高そうなハイヒールの踵を気にしながら言う。あ、いきなり線を引かれた。女の人のこういうところも女子校で経験していてよかったとつくづく思う。今風の言葉で言えば、マウンティング。女はいつでもどこでもマウンティングせずにはいられない生き物だということも私は女子校で学んだ。自分の容姿があの子より可愛いとか、偏差値はあの子より低いとか。自分が持っているもの、いないもの。異性の目がない分、自分がどの程度のところにいるか、ということを同性の間で査定しあう。その視線はもしかしたら共学の学校より厳しかったのかもしれない。
 今夜の女性メンバーは、私と田辺さん以外は皆、未婚者だ。妊婦の田辺さん対、それ以外のメンバーという図式で構成されていた業務部だが、田辺さんがいなくなったら、その矛先をこっちに向けるというわけか。あーあー聞こえなーいと言いながらその場で耳を塞ぎたくなる。来週からは、今日までの田辺さんと同じように自分が仲間外れにされるのだろうか。まったく女ってさ、と思いながら、私はとにかく早く家に帰りたかった。
「あ、じゃあ、私、地下鉄こっちなんで。お先でーす」
 いじわるされたなんてまったく感じていません、という顔をして、私はくるりと皆に背を向け、地下鉄の入り口に向かって歩きだした。今日の業務はとにかく終わった。スイッチオフだ、明日もあさっても会社のことなんて一秒も考えない。運良く座れた地下鉄のなかで私は右手で左手の薬指に触れる。安物のプラチナが車内の照明を受けて鈍く光っている。あー私、ほんとうに結婚できてよかったな、と心のなかで思う。今頃、皆は、私と田辺さんをネタにして悪口で盛り上がっているのだろうと思う。だけど、いいのだ。皆が言うように、私は一人じゃない。既婚者なのだから。

>>第2回

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書籍

『いるいないみらい』

窪 美澄

定価 1512円(本体1400円+税)

発売日:2019年06月28日

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