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一話全部公開!②話題作『トリニティ』の窪美澄が描く、切なくもあたたかな5つの物語『いるいないみらい』

話題作『トリニティ』の著者、窪美澄さんの最新刊『いるいないみらい』が、6月28日に発売!
本作は、子どもがいるかいないかをテーマに、未来に向けて“家族のカタチ”を模索する人たちの、痛くて切なくもあたたかな物語です。

その中の一編、「1DKとメロンパン」を公開します!


>>第1回へ


 金曜日の夜から土曜の朝にかけては、何時間でも眠れる。放っておけば夕方までだって眠ってしまうだろう。夫の智宏ともひろだって私が一日寝ていようと文句を言うような人間ではない。けれど、ほんとうにそうしてしまうと夕方に目が覚めたとき、貴重な休日を無駄にしたという罪悪感に囚われる。だから、平日より一時間遅く目覚ましをかけて無理矢理起きるようにしている。ベッドの隣に智宏はいない。洗面所に行くと、すでに洗濯機が回っていた。洗面所の鏡に寝起きの自分の顔がうつっている。顔が腫れて、目やにがついて、頰にはシーツのあとまでついている。ノーメークの寝起きの顔が年々ひどくなるのはしっかり自覚しているが、それにしても、智宏はこんな顔が隣に寝ていて嫌にならないのか。体重も三年前の結婚式のとき、ウエディングドレスを着るために一時的に落としたが、結婚後はたがが外れたように増加し続けた。洗面所に置いてある体重計にはここ一年は乗っていない。真実を突きつけられるのが怖いからだ。
 歯磨きをしていると、玄関のドアが開く音がした。
「ううっ、寒い寒い」と言いながら、智宏が小太りの体を丸め、両手で腕をこすりながら、廊下を歩いてくる。
「おかえりー」と口に歯ブラシを突っ込んだまま、洗面所から顔を出すと、
「ほら、これ!」
 智宏はそう言いながら私の前に腕を伸ばした。腕の先には子羊堂こひつじどうという文字と、横向きの子羊のイラストが印刷された茶色いパンの袋が見える。
「え、え、買えたの! メロンパン?」口の端に歯磨き粉の泡をつけたまま言うと、
「最後の二個だよ! 一時間も並んじゃった」と答える智宏の鼻が赤い。
「まじか。でかした─────」そう言うと、智宏がへへん、という顔で照れ笑いをする。子羊堂は三年ほど前に近所にできたパン屋だが、今まで一度もそのパンを食べたことがなかった。平日、仕事から帰ってくる時間には閉まっているし、土日もパンがなくなると店を閉めてしまう。クリームパンやチョココルネ、なかでもメロンパンが人気らしく、土日は毎週行列ができるほどの人気だ。最近、美容院の人から子羊堂の噂を聞いて、その話をしたのだが、智宏は覚えていてくれたらしい。
「すぐに食べよう。焼きたてだから」
 智宏はキッチンに行き、がちゃがちゃと皿の音を立てている。私は慌ててパジャマの上に毛玉だらけのセーターを着た。南向きのベランダに面した十畳ほどのダイニング兼キッチンにあるダイニングテーブルに座る。ダイニングテーブルと言っても、四人家族が座れるような立派なものではない。ただの円いテーブルだ。そこに折り畳みの椅子が二脚。円いテーブルなのだからどこに座ってもいいのだけれど、この部屋に住み始めたときから、私はベランダが見える側、智宏はキッチンが見える側が、定位置になっていた。
 今年はいつまでも夏のような気候が続いていたけれど、さすがに十二月になると、朝晩の通勤時には寒さが身にしみるようになってきた。この部屋は南向きで掃き出し窓から十分すぎる陽が入るが、足下だけは寒く、テーブルのそばにおいた電気ストーブの電源を入れた。
 コーヒーの入ったマグカップと、メロンパンの載った皿を智宏がテーブルに置く。洗面所のほうから洗濯終了を知らせるブザーが聞こえてきた。考えてみれば今日、私は起きてから家事らしきことをまだ何もしていない。
「あ、洗濯物、私干すからね」
「すぐ干さないと皺になっちゃうからさあ、それより知佳ちかちゃん先に食べてなよ。焼きたてだよ」
 洗面所で洗濯物をカゴに入れながら智宏が言う。
「いやいやそれは悪いし、……ええ、でも、うん」目の前のメロンパンの誘惑に勝てなかった。洗濯物を干すと言った智宏はテーブルの前の椅子に座る。ぱくり、と一口メロンパンを齧った。
「んまああ。おいしー」そう言うと、智宏は納得したようにうんうん、と頷いてから立ち上がり、洗濯カゴを抱えてベランダに出た。室内に寒い空気が入ってこないように掃き出し窓をきっちりと閉めていく。智宏はタオルをぶるんぶるんと何度か振ってから、物干し竿に丁寧に洗濯ばさみで留めている。智宏のこういう几帳面さというのが私にはまったくない。だから智宏に惹かれたとも言える。私の視線に気づいた智宏が手を振る。私もメロンパンを齧ったまま手を振り返した。
 子羊堂のメロンパンは、ほんとうのことを言えば、想像していたほどおいしくはなかった。けれど、私が起きる前に一時間も並んでくれた智宏のために、おいしそうに食べた。それが智宏に対して私がしなくちゃいけない最低限のことだからだ。
 そもそも、友人の結婚式の二次会で、なんておいしそうにたくさん食べる人なんだろう、と思ったのが、智宏が私という人間に興味を持ってくれたきっかけだったらしい。私はそのことで自分という人間の長所が「ごはんをおいしそうに食べる」ということだと気づいてしまった。もちろん、私は食べることが大好きだし、そこに噓はない。けれど、そこが自分の長所だと気づく前と後では、やっぱり少し意味が違ってくる。
 大学のときも就職してからも、私という人間に興味を持ってくれる男の人は少なかった。というより皆無だった。大学は私立の共学に進んだが、女子校時代に羽を伸ばしすぎたせいか、まったくと言っていいほど、男の人にはもてなかった。私の容姿はまあ、十人の女の人がいれば、九番目か十番目だ。かなり太ってもいる。それは自覚している。二十代も終わる頃になって、おせっかいな友人の紹介で、二人の男の人とつきあったこともあったが、どちらも長くは続かなかった。最終的にはどちらからもふられた。三十歳になる前に同級生たちがばたばたと結婚したが、その波にはもちろん乗れなかった。
 二人の男の人とつきあっただけで、えらそうだと思うけれど、男の人って、みんなほめられたいんだな、と知った。もっと俗な言葉で言えば、男の人をたてる、みたいなことだ。すごい仕事頑張ってるねー、とか、その腕時計すごい高そー、スーツすごいかっこいいねー、とか、そういう歯の浮くような言葉を男の人って本当に待ってるんだ、と気づいて心底驚いてしまった。私の容姿がもう少し人並みだったら、そんなことを言う必要はなかったのかもしれないが、容姿がマイナス査定な分、俺をほめとけよ、と言われているような強迫観念にかられてしまった。
 男の人のそういう欲望に気づいてからというもの、私はほめて、ほめて、ほめまくってみた。ほめ言葉を浴びると、男の人はおなかを見せて床に転がる子犬みたいになる。その姿を見て正直なところ、引いたのは事実だ。引いただけでなく、疲れてしまった。だって、それじゃまるで小さな子どもとお母さんみたいじゃないか。私は女子校時代の仲良しの友人同士のような関係を男性にも求めていたのだ。自分のことも相手のことも、過度に卑下したり無理に持ち上げたりしなくてもいい関係。
「ほめときゃいいんだよ。もてるなんてちょー簡単」と、大学時代にもてまくっていた同級生が言い切ったことがあったが、あれは真理だった。交際しているときも結婚してからも、私はそういう噓をつきたくなかった。ほんとうにそう思ったときに、そう言える相手とつきあいたかったし、結婚したかった。
 だから、智宏の「ほんとうにごはんおいしそうに食べるねえ」という言葉は私にとって意外な変化球でもあったのだ。おっ、と思った。男の人にありがちな(私のサンプル数は少なすぎるが)ほめられたい、という願望も、智宏にはあまりないみたいだった。そもそも、ホームセンターの園芸コーナーで働いている智宏は高いスーツも腕時計も持っていないし、顔だって正直なところ私くらいのレベルだ。同じくらいに太ってもいる。結婚後、私が髪を短く切ったので、後ろ姿を見るとまるで双子みたいだ。年収は私のほうが多い。だけど、三十二歳で出会って三カ月で結婚したいと言われ、これを逃したらあとがない、と思った。死ぬまで一人で生きていけるほど私は強くないし、口うるさい母のいる実家からも飛び出したかった。
 智宏は私に多くを求めないし、太っていることにも何も言わない。プロポーズの言葉は「知佳ちゃんのおいしそうに食べる顔をいつまでも見ていたい」だった。だから、その言葉にだけは応えようと心に決めた。智宏と何かを食べるときは、食レポをするタレントのような大げさな口調と態度になった。実際のところ、食欲がないこともあったし、今日の子羊堂のメロンパンのように、それほどでもないかなと思うこともあったが、おいしそうに食べることが私という人間と結婚してくれた智宏への礼儀だ。
 それほどでもないかな、と思ったにもかかわらず、私は智宏が買ってきてくれたメロンパンをぺろりと食べてしまった。智宏が洗濯物をすべて干し終えて、部屋の中に入ってきた。
「ほんとうに知佳ちゃんは食いしん坊だなあ。そんなに食べたいなら僕の分あげるよ」
 え、と思ったが、私はへへっ、と笑いながら目の前の智宏の皿のメロンパンを手にした。十代の頃はいくらだって食べられたものだが、三十五にもなるとメロンパン二個はなかなかきついものだ、と思いながらも、私はわしわしとメロンパンを口にしたのだった。そんな私を智宏がにこにこしながら見ている。三十五歳、アラフォーとくくられても結婚しているだけで十分幸せじゃないか。そう思いながら、口のなかでぱさぱさするメロンパンの欠片をコーヒーで飲みくだす。メロンパン以外のものも飲み込んでしまったような気になりながら。


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ご購入はこちら▷窪 美澄『いるいないみらい』
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