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話題作『トリニティ』の著者、窪美澄さんの最新刊『いるいないみらい』が、6月28日に発売!
本作は、子どもがいるかいないかをテーマに、未来に向けて“家族のカタチ”を模索する人たちの、痛くて切なくもあたたかな物語です。
その中の一編、「1DKとメロンパン」を公開します!(第1回から読む)
>>第3回へ
スーパーマーケットのビニール袋を提げて、自宅マンションまでの道を歩く。駅から五分。私の職場にも智宏の仕事場にも近い1DK。昭和四十九年築というレトロなマンションだから家賃は安い。ベランダの前を遮るようなものがないから、たくさん陽も入るし、風も通る。二人で暮らすには少し狭いのかもしれないが、昼間は二人とも仕事でいないのだから、食事と寝ることができる場所だけあればよかった。二人で食事のできるテーブル、二人だけが座れるソファ、二人だけが眠れるベッド。どれも高いものではないけれど、ひとつひとつを智宏と私で選んだ。私と智宏だけが快適に過ごすことのできる部屋。ここにさっきのスーパーで見た聞き分けのない子どもが増えるのかと思うと、かすかにぞっとしている自分に驚いてしまう。子どもが嫌いなわけじゃないのに、今の生活を乱されることが嫌なのだ。
二人分の食料、牛乳や豆腐や納豆や野菜、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れながら思う。智宏は子どものことをどう思っているんだろう。そもそもあの人は子どもが欲しいんだろうか。そんなこと話したこともなかった。振りかえると、カーテンを閉めていない掃き出し窓の外に、夕焼け空が広がっている。照明をつけずに窓に近づく。うーん、と私は思う。会話の糸口をどこに見つけたらいいのか。
シンクに置いたままだったマグカップを洗っていると、トートバッグのなかで携帯が震える音がした。タオルで手を拭き、画面を確認する。土曜日も仕事をしている智宏からのLINEだった。もうすぐ帰るー。明日、何するー。疲れた、とつぶやいている猫のスタンプ。その画面を見ながら、子どもだ。と私は思う。智宏だけじゃない。私も。私たちはまだまだ親になんかなれないよ。今日見た佳奈のはち切れんばかりのおなかを思い出しながら私は思った。
終業間近、パーテーション越し、隣の総務部から、わー、おめでとうー、という声と拍手が聞こえた。パソコンの画面を見つめながらも耳をすますと、どうやら、また誰かが妊娠したらしい。うちの部署にいる女性社員は皆、口を閉ざしていたが、パソコンのEnterキーだろうか、ターンと叩く音がやけに大きく響く。
「またですか。まったく、どうなってるんだ。みんな申し合わせたみたいに」
実際に感想を口にしたのは八田さんだけだったが、そこにいる誰もが多かれ少なかれ同じような気持ちだったろう。まるで風邪がうつるように妊娠がうつっている。年齢的に産み時の女性がそれほどいるってことなのだろう。不妊の人もうちの会社に来れば妊娠するんじゃないか、と埒もないことを思いながら、私はパソコンで作業を続けた。
今日は佳奈が出産をする日だ。さっきの昼休み、携帯を確認したら、もう母と旦那さんと病院に向かったというLINEが来ていた。何事もなければ、今日の夕方までには生まれるらしい。私も智宏と駅で待ち合わせをして病院に行く予定だ。
午後五時になったので、私はすぐさま机の上を片付け、会社を出た。出産を終えたら食べたいと言っていた佳奈のために駅ビルでプリンを買う。帰宅ラッシュで満員の電車のなかで人に揉まれながら駅についた。改札口を出たところに智宏が立っている。私が手を振ると、その倍くらい振り返して笑った。私が手にしていたプリンの箱を智宏はすぐに持ってくれて、二人、手をつないで歩きだす。照れたりはしない。二人で歩くときはいつもそうだ。駅前の商店街を歩いているときに、母からメールが来た。
「あ、生まれたみたい。女の子だって」私が言うと、
「ああああ……」と智宏が言葉にならない声をあげて足を止めた。
「どうしたの?」
「なんか緊張してきちゃった。赤ちゃんに会うの。生まれたての赤ちゃんなんか見たことないし」
「ははは。あっという間におじさんとおばさんになっちゃったね」
「おじさん……」
「いやなの?」
「ううん、そうじゃなくて。そっか、血はつながってないけど身内なんだよね」
智宏の声が商店街を流れるクリスマスソングに重なる。智宏とは血はつながっていないが、私とは血がつながっている。姪か、と思うと、その存在が自分の考えていた以上にずしんと胸にきた。なんとなく緊張している智宏と、なんとなく気が重くなってきた私は、手をつなぎながらもふらふらと病院に向かった。
佳奈の赤ん坊は新生児室みたいなところにいるのかと思ったが、母子同室の病院なので、生まれたてでも母親と同じ病室で過ごすらしい。佳奈のいる病室を受付で確認し、エレベーターで向かった。私が病室の引き戸を開けようとすると、智宏が私の腕を引っ張る。指さした先に、消毒スプレーがある。
「はいはい」と返事をして智宏がやっているように、私もスプレーを吹きかけた手のひらをこすり合わせた。そっと病室に入ると、佳奈はベッドで眠っていた。その側、透明なプラスチックでできた小さな箱に、足音を立てないように近づいた。そのなかに小さなお地蔵さんみたいな赤ん坊がいた。頭にガーゼでできた小さな帽子のようなものをかぶり、目をつぶっている。その瞼にはしっかりと長い睫毛が生えていて、精巧な人形みたいだな、と思った。智宏も赤ん坊を凝視している。可愛くて見ている、というより、私たちはまるで観察しているみたいだった。
「お姉ちゃん……」背後で小さな声がした。
「遅くなってごめんね。おめでとう。赤ちゃん元気そうだね」と言いながら、プリンの箱を掲げて見せると、佳奈はお産の疲れなのか、げっそりした顔をしながらも、うれしそうに笑い返した。
「お母さんたちは外で夕食食べてまた来るって」よかったね、ちょうどいなくて、という顔で佳奈が言う。
私はベッドのそばの椅子に座った。佳奈が寝たまま、赤ん坊のほうを指さす。智宏が私たちの会話すら耳に入らないような真剣な表情で赤ん坊を見つめている。そんなに好きか。好きだったか赤ん坊が。紙の箱からプリンを出し、ベッドにゆっくり起き上がった佳奈にプラスチックのスプーンとともに手渡しながら、私の心はなんともいえず複雑だった。
予想どおり、智宏は帰りの電車の中でも心ここにあらずだった。
「可愛かったねえ」
隣に座る智宏に話しかけてもただ頷くだけだ。マンションに向かう道の途中でも言葉はない。何かをじっと考えているようだが、「何を考えているの?」と聞くのは怖かった。二人とも夕飯はまだ食べていなかったが、赤ん坊を見た興奮のせいなのか、私はあまりおなかがすいていない。
「おうどんでも作ろうか?」と聞くと、こくり、と智宏は頷く。帰宅して一人用の土鍋に薄味のだし汁を作り、冷凍うどんと斜め切りにしたねぎ、お揚げを入れ、うどんがほどよくほぐれ、火が通ったら卵を割って落とした。余熱で半熟卵になるように、土鍋に蓋をしてガスの火を消す。そういえば、受験のときに母がよくこんなうどんを作ってくれたな、と思いながら、テーブルの前に座る智宏に出した。れんげと箸はすでに智宏が自分で自分の前に用意していた。
「おいしい?」静かにうどんをすする智宏に聞くと、
「うん、おいしい」とつぶやくように言う。
誰かに、あなたにとってしあわせとは何かと聞かれれば、自分がおいしいものを食べること以上に、智宏に何か作って食べさせるとき、そして、おいしいと言われたときと答えるだろう。聞いたこともないけれど、智宏だってきっとそうだろう。私がおいしい、と言いながら何かを食べるとき、智宏はほんとうにうれしそうな顔をするもの。二人のしあわせはそれで丸く結ばれて、それ以上のものが入ってくる余地はない。それで十分じゃないか。
「子ども、欲しいな。僕」
ああ。そう言うんじゃないかと思っていた。今日生まれたての赤ん坊を見て、子どもが欲しいなんて言うなんて、それじゃおもちゃを欲しがる子どもといっしょだ。
「え───……」と言いながら私はふたつの湯飲みにお茶を注いだ。
「知佳ちゃんの子ども欲しい」
智宏は箸を置いてまっすぐな目で言う。産むのはこっちなんですけど。
「僕、赤ちゃん生まれたら、どんなことでもやるし、できると思うし」
そうだろうな、と思う。おむつ替えだろうとなんだろうと、智宏ならどんなことだって私より器用にこなすだろう。だけど、いちばん重要なのは、唇の内側にとどめているのは、私がいちばん触れたくないことだ。二人が触れなかったことだ。それを私は智宏にぶつけたくない。
「赤ちゃん、欲しくない?」
「……欲しくない」
私の言葉を聞いてひどく落胆した智宏を見ていると、自分がとんでもなく残酷な人間のような気がしてくる。
「今、欲しくないだけ? これからもずっと欲しくない?」
「……考えられないな」
「考えようよ」
「考えたくないな」
「考えて、ほしいんだけど……」しつこく食い下がる智宏につい言葉が出た。
「うちの経済状態じゃ無理じゃないかな」
今度、言葉を飲み込んだのは智宏のほうだった。
「子ども増えたらこの1DKじゃ無理でしょ。そもそもこのマンション子どもだめだし。保育園だってこのあたりは待機児童が多いってニュースにもなったじゃない。そのあとずーっとお金がかかる。大学に行きたいって子どもが言っているのに、うちは無理だよ、なんて答えるの私いやだな。あ、奨学金で行けばいいなんていうの私は反対。大学のとき奨学金で通っている友達いたけど社会人になってから返済で大変な思いしてたからね」
つるつると自分の口から飛び出す言葉のすべてが智宏に刺さっているのがわかる。つまりは私が言っていることはこうだ。智宏の稼ぎが少ない。
「知佳ちゃんの心配はお金のことだよね」
智宏が口にしたお金、という言葉にぐっと詰まる。この人にこんなことを言わせたくなかった。智宏の経済状態のことなど理解して結婚したのだから。
「でも、それだけじゃないの。私、今でも二人で十分楽しいし」
「僕と知佳ちゃんの子どもが増えたらもっと楽しいよ」
「そんなすぐ……そんなすぐに、考えられないよ……」
「ゆっくり考えようよ二人でこれから」
そう言いながら、智宏は箸を持ち、土鍋の中に残っていた卵を箸で割る。とろりとした黄身がだし汁に混じっていくのを見ながら、ゆっくり考えている時間は私にはあんまりないんだけどな、と私は心のなかでつぶやく。早く早く、という母の言葉がふいに耳をよぎったような気がした。
佳奈は一カ月ほど実家で過ごす予定のようだった。出産をしてから二週間後、智宏が仕事の土曜日、私は一人で実家に妹と姪の様子を見に行った。姪は里梨花という今どきの子どもらしい名前がつけられていた。
里梨花は二階の妹の部屋にあるベビーベッドに寝かされていた。二週間前に見たときはしわしわだった肌は瑞々しく張りがあり、体も驚くほど大きくなっている。ふえふえ、と言葉にならない声を発していたが、それが少しずつ不満を訴える声のようになり、次第にはっきりとした泣き声に変わる。
「あーまた、ミルクか。さっき飲んだばっかりなのに」
佳奈はそう言いながら泣いている里梨花をそのままにミルクの用意をしに一階に下りていった。里梨花は歯のない口を開け、顔を真っ赤にして泣いている。顔の左右で小さな拳をぎゅっと握っていて、こんなに小さい人間なのに怒りをあらわにしているようでおかしくなった。佳奈はなかなか上がってこない。泣かせたままでいいのか、と思うけれど、まだ首もぐらぐらしている赤ん坊なんて抱いたこともなければ触れたこともない。うーん、どうしたらいいんだろう、と思いながら手を出せずにいた。佳奈が階段を上がってくる音がして心からほっとした。ほ乳瓶を手に部屋に入ってくる。
「お姉ちゃん、あげてみる?」
「ひ───」という私の叫びを無視して、佳奈は素早く里梨花をベッドから抱き上げ、私の腕のなかに渡そうとする。
「ひじのところで、首をしっかりおさえて。まだぐらぐらしているから」佳奈の言葉が怖い。首を支えなければと思うと、左肩が緊張して上がってしまう。里梨花はもう顔の半分が口のようだ。佳奈からほ乳瓶を受け取り、里梨花の口に差し入れた。驚くほどの強さで里梨花はほ乳瓶に吸いつく。その振動が指に伝わり、里梨花の勢いが余計に怖い。それでもなんとか時間をかけて、ほ乳瓶の半分ほど飲み終わる頃には、瞼が次第に閉じてくるのがわかる。
「おなかがいっぱいになるとすぐに眠くなっちゃうんだよね」
私の腕のなかの里梨花を見ながら佳奈が言う。さっきベビーベッドで見たときはずいぶんと大きくなったように見えたのに、こうして抱いてみるとやっぱり小さい。生後一カ月にも満たない赤ん坊はこんなに小さいのか。誰かがつきっきりで面倒を見ていないと、こんなに小さい生き物はすぐに弱ってしまうだろう。ほ乳瓶をゆっくり口から離すと、唇をむにゃむにゃと動かしていたが、ほどなくして眠ってしまった。
「すぐベッドに寝かせると泣いちゃうから。お姉ちゃん、私、ちょっと下でごはん食べてきていいかな? 昼ごはんまだなんだ。お母さん、今日病院でいないし」いいかな? と聞くわりには、私の返事も聞かずに佳奈は部屋を出ていった。よっぽどおなかが空いていたのだろう。
一人で面倒を見ていたらごはんを食べる暇もないのか、と思うと、やっぱり私には子どもなんて無理だと思ってしまう。妊娠して出産するまではなんとかできるかもしれないが、その後が無理だ。どんなに智宏がやってくれても、途中で飽きてしまうに違いない。そのことが怖い。飽きてしまうなんて、子育てにおいて絶対に許されないことだし、許されないということがそもそも怖い。やっぱり私には無理かもなあ、と思いながら里梨花の寝顔を眺める。ふいに里梨花の眉間に皺が寄り、穏やかだった寝顔が泣き顔に変わりそうになる。佳奈はまだ食事中だろう。昼ごはんくらいゆっくり食べさせてあげたかった。
私は立ち上がり、窓の側に近づく。おくるみでくるまれた里梨花の体をゆっくりと揺らす。まだ花は咲いていないが、庭には亡くなった父が大事にしていた梅の木がある。一人死んで、一人増えたのか。梅を見ながら、私は里梨花の体をゆっくり揺らす。とんとん、と右手でそっと里梨花の背中を叩いてリズムをとりながら。誰に習ったわけでもないのに、そういう動作が自分のなかから自然に出てくることが私には不思議でならなかった。
実家からの帰り、子羊堂の前を通りかかると、ガラスケースのなかにいくつかパンがあるのが見えた。メロンパンをふたつ買った。明日の朝食にしようと思った。その紙袋を提げて智宏の働いているホームセンターに寄ってみた。あと少しで智宏の仕事が終わる。園芸コーナーを遠くからのぞいてみた。もう閉店の午後八時に近かったからお客さんの姿はほとんどなく、屋外に出してあったプラスチックケースに入った花の苗を智宏が店の中に運んでいるところだった。それを何度も繰り返している。園芸コーナーのチーフらしき人に呼ばれ、隅のほうで何か言われている。その人と智宏の表情を見る限り、ほめられている感じではない。智宏は何度も頭を下げている。私が結婚した人はかっこわるいなあと思いながら、くすっと笑ってしまう。
実家に帰って、里梨花に会って、私もなんだか疲れてしまった。今日はファミレスで夕食を済ませてしまおう。そんなことを考えながら、従業員出口の前で智宏を待った。智宏は私を見るとほっとしたように笑い、すぐに手をつないできた。一緒に働いている人も近くにいるだろうに、どうしてこういうことを恥ずかしく思わないのだろうと思う。駅前のファミレスに入り、二人して小さなグラスビールとおろしハンバーグセットを頼んだ。私があまりに勢いよくハンバーグを食べるので、
「なんだか今日の知佳ちゃんの食欲すごいね」と智宏が驚いたような声をあげた。土曜日のファミレスには家族連れも多い。どこかで赤ん坊の泣く声も聞こえる。智宏がその声のほうに顔を向けるが、赤ん坊の姿はここからは見えない。
里梨花が生まれたあの日以来、私たちは子どもの話をしていなかった。注意深く避けていた。
「子ども」と二人同時に言ってしまって、二人で顔を見合わせて笑った。
「どうぞお先に」私が智宏に手を差し出す。
「いや、知佳ちゃんからどうぞ」
「うん、じゃあ」私はウエイトレスのお姉さんが持ってきたコーヒーに砂糖もミルクも入れず一口飲んだ。
「子どものことはやっぱりよくわからない。今は欲しくないけどいつか欲しくなるのかもしれない。でも、もしかしたらほんとうは、ほんとうには、欲しくないのかもしれないとも思う。だけど、そんなふうに思ってしまう自分もいやで、でも智宏がほんとうに子どもが欲しいと思うのなら、私じゃない相手と結婚したほうがよかったんじゃないのかな、なんて」
「ばか」そう言った智宏の声は大きく、隣の席の人が会話を止めて、私たちのほうを見たほどだった。
「ばかって何よ」
「知佳ちゃんのばか」
「だからばかって言わないでよ」
「僕は知佳ちゃんとの子どもが欲しいって思ったんだよ。だけど、知佳ちゃんがいらないって言うなら仕方がないことだよ。子どもがいなくても僕は知佳ちゃんとずっと暮らしていきたいと思ってるんだから」
智宏はかっこわるい人だが揺るがないところは揺るがない。そうだった。こういうところが好きでこの人と結婚したんだった。だけど、どうだろう、といじわるな気持ちで私は考えてしまう。私と智宏は子どもがいない人生をこれから先、一度も後悔しないと言えるだろうか。智宏は私と結婚したことを後悔しないだろうか。
それでも、と私は思う。万一、私たちのところに子どもがやって来たら、もう腹を据えようか。来なかったらそのときはそのときで。積極的な治療なんかはしたくない。自然に任せる、というのは、怠惰な逃げなのかもしれない。けれど、それは、怠惰な私たちにいちばん合っている方法だとも思えた。
「知佳ちゃんといっしょにいたいからいっしょにいる」
智宏は追加で頼んだパフェを柄の長いスプーンで突っつきながら言う。当然だと思っていることを、私たちは時々口にして確認し合わないとどこかで迷ってしまう。あーん、と智宏が声をあげる。生クリームが私の口のなかに入ってきた。
マンションに向かって二人、手をつないで歩いた。メロンパンのような満月が空の高いところに光っている。私たちの住むマンションは遠くから見てもぼろい。今度、大きな地震が来たらほんとうにまずいかもしれない。表面に錆の浮き出たドアを開けると、1DKの私たちの繭のような部屋が続く。カーテンを閉めずに出て来たせいで、満月の光が私たちの部屋を照らしていた。照明もつけないまま、掃き出し窓に向かって置かれた二人がけの小さなソファに智宏と二人並んで座った。
「あ、子羊堂のメロンパン買えたんだ」私が言うと、
「やったあ。明日の朝が楽しみ」と子どもの声で智宏が答える。
明日が来ることが楽しみだと、二人でそう思えるのなら、もうそれで今は十分なんじゃないかなと、満月の光を見ながら私は思う。そのとき里梨花を抱いたときのミルクくさい香りが鼻をかすめたような気もしたが、もしかしたらそれは子羊堂のメロンパンの香りなのかもしれなかった。
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◎レビュー▶子どもを持たない人生を選ぶとき 『いるいないみらい』(評:瀧井朝世)