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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.26

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#19

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。



前回までのあらすじ

鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負うこととなる。多くの紀行文を残した二人は、心から鉄道旅を楽しんでいた。女子鉄・酒井順子が百閒と宮脇を比較しながら時代とともに発展する鉄道と鉄道紀行を読み解いてゆく。

 うちひやつけんは、東京駅の名誉駅長を務めたことがある。時は昭和二十七年(一九五二)。新橋~横浜間に日本で初めて鉄道が走ってから八十年がったことを記念する行事の一環として、国鉄から依頼されたのだ。
 名誉駅長を務めたてんまつを描いた随筆「時は變改す」によれば、国鉄職員達が自宅にやってきて依頼を伝えた途端に、百閒はたいしよう。当然のように任務を引き受けることとなる。
 当日は制服制帽を着用してほしいという要望も、即座に快諾。あらゆることに難癖をつけがちな百閒が、
「もともと私は詰め襟は好きである」
 ということで、自分から進んで帽子のサイズと身長を教えるほどだった。
 すなわち百閒は、東京駅の名誉駅長就任という依頼を、おおいに喜んだのだ。名誉駅長の任務の一つとして、当時の花形列車である大阪行きの特急「はと」を発車させることがあったが、もちろんそれも、うれしくてたまらない。ほう列車シリーズの第一回である「特別阿房列車」でも乗った「はと」は、汽車であれば何でも好きな百閒が、中でも最も好む列車だった。その発車を任されるとあっては「むずむずせざるを得ない」のだ。
 話はそこで終わらない。「はと」の「みずみずしい発車」を任されることは嬉しいけれど、大好きな「はと」が発車していくのを、ただ漫然と見送ってしまうことができるものだろうか、と考えた百閒は、
「発車の瞬間に、展望車のデッキに乗り込んで、行ってしまおう、と決心した」
 のだ。
「はと」の最後尾には、一等車の乗客用に展望車が連結されていた。展望車にはデッキがついているのであり、発車の時にすっとホームからデッキに乗ってしまえばいい、と考えたのだ。
 持病持ちであった百閒は、健康上の不安から、かかりつけの医師にはずっとそばにいてもらいたい。国鉄職員のヒマラヤ山系だけには計画を打ち明けて、事前に医師をこっそりと「はと」に乗せておいてもらう細工もほどこした。
 いよいよ当日。駅長の印である二本の金線が輝く制帽と制服を身につけ、百閒は東京駅へと赴く。「はと」の出発に際しては、マスコミやら見物人やらもたくさん集まっている中、首尾よくホームからデッキに乗りうつることができた。
 本物の駅長には、
熱海あたみ駅の施設を視察してまいります」
 と挙手して挨拶。そのまま「はと」と共に去る、というコントのような展開となったのだ。
 百閒、その時六十三歳。当時の平均寿命を既に越えている。しかし汽車が好きでたまらず、そして好きな汽車が目の前にいたら乗らずにはいられないという姿は、百閒の仲の良い友人であったあくたがわりゆうすけ「トロッコ」における、ついトロッコに乗って遠くまで行ってしまった少年のようである。
 一方のみやわきしゆんぞうも昭和六十年(一九八五)、五十八歳の時に、「オール讀物」誌の企画で、じようばん線のとり駅で、駅長体験をしている。百閒の東京駅と比べると、取手駅は地味な印象を受けるが、それは宮脇の希望によるものだった。取手駅を選んだ理由は色々あるのだが、首都圏の国電の終着駅であるところが、最も大きなポイント。
「国電」とは、首都圏で運転された国鉄の近距離電車のこと。国鉄の分割民営化に伴い、国電に代わり「E電」という名称を使用しようとする動きもあったがそちらは普及せず、現在に至る。国電の終点ということで、深夜に酔って乗り過ごしてきた客を揺り起こすことを宮脇は楽しみにしていたようだ。
 駅長体験企画の依頼を受けた時、宮脇もまた喜んで引き受けている。小学生の頃、将来何になりたいかと先生に聞かれた時は、「総理大臣」「陸軍大将」といった答えが目立つ中で「電車の運転士」と答えた宮脇。運転士でなくとも、鉄道関係の何かになりたいという願望はずっと持ち続けていたのであり、
「帽子の金線は二本、白の手袋、カッコいい。『駅長』という名称もいい。社長、組長に匹敵する」
 と、ほくほくしている。
 宮脇も百閒と同様、制服には敏感に反応している。当日も、こんの制服、白手袋、制帽を装着すると、
「制服制帽には魔力があって、これらを着用すると、たちまち気分が出てくる」
 と、構内の巡回に出かけているのだ。
 宮脇駅長は、内田駅長のように珍騒動は起こさない。二人ともターミナル駅の駅長を務めたわけだが、百閒が楽しみにしていたのは「はと」の発車であるのに対して、宮脇が楽しみにしていたのは夜、帰宅の途についた客の到着だった。酔いつぶれた客を揺り起こしたい、という願望を持っていたのは、長年会社勤めをしてきたからという理由もあったのか。
 しかし夜になって取手駅に到着する電車を待ち構えていても、その日は酔客が少なく、せいぜい網棚の新聞を回収することしかできない。次第にイライラしてきた宮脇だったが、二十三時を過ぎてようやく一人、眠りこけている乗客を発見した。
 ゆうやくその肩に手をかけ、
「取手ですよ。終点です」
 と、乗客を起こす宮脇。降りていく客を眺めつつ達成感を覚えた宮脇は、「胸を張って駅長室へ引揚げた」のだ。
 日々、もんしつつ頭の中で文章を練り続ける宮脇にとって、網棚の新聞を片付けたり酔客を起こしたりするだけでも、身体を動かして仕事をする楽しさを覚えたのではないか。金筋二本の駅長帽をかぶった宮脇は、真剣に〝駅長ごっこ〟に取り組んだことだろう。それは、道を一筋はずれたならあり得たかもしれない「もう一つの人生」をのぞき見る体験。制服を着た宮脇の瞳には、やはり少年の時のような光が宿っていたのだと思う。
 子供の頃から、鉄道が好き。その精神が大人になってもずっと変わらないところは、二人のみならず多くの鉄道ファン達に共通していよう。しかし宮脇の時代までは、子供の頃の趣味をそのまま維持している大人はまだ、がんしゆうを覚えざるを得なかったようだ。大人の世界と子供の世界には厳然とした区別があり、年をとれば人は、特に男は、ちゃんとした大人になるべきだった。寿命が延びた現在のように、好きなことに没頭していられる時間は、長くなかったのだ。
 宮脇は著書の中で、鉄道趣味を「」と表現している。いい年をして「汽車ポッポ」に夢中であるのは子供のようだという事実に自分は無自覚ではない、と示しているのだ。
 たとえば宮脇は先頭車両の運転席の後ろに立って前方の景色を眺めるのが好きである。小学校の時に将来の希望として「電車の運転士」を挙げたのも、汽車だとかまが邪魔をして思うように前の景色を見ることができないからだった。
 運転士にはならなかった宮脇は、乗客として列車で運転士の後ろに立つことに、いつもしゆんじゆんしている。子供がそこに立つのであれば微笑ほほえましいが、大人の自分が同じことをするのは如何いかがなものか、と思っているのだ。
 だからこそ前方が眺めたい時は、列車がガラガラでない方が好ましかった。
「適度に混んでいれば、たまたま先頭部に乗り合わせたような顔で前方を眺めることができる」(『車窓はテレビより面白い』)
 のだから。
 百閒の場合もまた、自分の鉄道愛が子供の頃から変わっていないことを自覚している。
「子供の頃から汽車が好きで好きで、それから長じて、次に年を取ったが、汽車を崇拝する気持ちは子供の頃から少しも変わらない」(『立腹帖』)
 と、気持ち良いほどに断言しているのであり、そこに含羞のようなものは見えない。
 が、百閒はいわば「天然」の人である。「天然」などという言葉で表現すると途端に陳腐に聞こえるが、お金が入れば遣ってしまっていつも借金取りに追われ、好物は一年でも二年でも毎日食べ続け、飼い猫がいなくなれば涙を流し続けるというその姿は、岡山の造り酒屋の坊ちゃんのまま。汽車が好きで好きで、駅長なのに「はと」に飛び乗って職場から出奔するのは、そんな百閒だからできたことだろう。
 対して宮脇は、「天然」ではない。だからこそ、子供の時のまま変わらない鉄道愛を恥じているという自己認識を示すのだ。
 もちろん本当に恥じていたかどうかは、わからない。鉄道の世界は深く、地理や歴史、政治とも密接につながっている。宮脇にとっては一生をかけるにふさわしい趣味であったろうが、宮脇はあえて「汽車ポッポ」と表現して、都会の坊ちゃんらしいテレを示すのだった。
 しかし最近は、宮脇のように恥じらいを表明しつつ鉄道に夢中になる、という姿を示す人が減っている気がしてならない。かつて宮脇が遠慮がちに立っていた運転席の後ろに、子供を押しのけてかじりつくように立っている大人の姿を見ることがある。また写真や映像を撮ることが好きな撮り鉄達は、少しでも良い画角のため、必死に場所とりをする姿を隠そうとはしない。
 大人が堂々と鉄道愛を露呈させるようになったのは、「おたく」という言葉が人口にかいしやしてからのことではないかと私は思う。当初「おたく」という言葉には、偏執的に何かにのめり込む人という、あまり肯定的ではないイメージがあったが、次第に「一つの道をとことん極める人」的なイメージも付加されるようになっていった。鉄道おたくの存在も広く認識され、時にはその尋常ならざる鉄道知識が賞賛されるようにもなって、「鉄ちゃん」や「鉄オタ」と呼ばれる人達は、自身の愛を自由に顕示するようになったのではないか。
 宮脇がいた時代は、まだ「おたく」という言葉は、広まっていない。宮脇も「鉄道マニア」などと表現することが多いのだが、ではマニア達に対して共感を抱いていたのかというと、そうでもなさそうなのだった。
 鉄道旅行している時、宮脇はあちこちでマニアに遭遇するが、そこで「おっ、ここにも同好の士が」と温かな気持ちになっているわけではない。ローカル線は地元の人のものだと思っていた宮脇であるから、マニアばかりが乗っているという状態は、望ましいものではなかった。しかし自分もまた同類であることを考えると、ガマの油的な感覚を抱いていたのではないか。
『片道最長切符の旅』では、ほう本線に乗っている時、スイッチバックがあるたて駅において、
「一号車普通車、二号車グリーン車、三号車……」
 と、窓から首を出して自分が乗っている列車の編成を確認している老人を宮脇は目撃している。
「鉄道マニアがとしをとるとこうなるのだろうか」
 と思う宮脇はこの時まだ五十一歳だが、マニアっぷりを自己規制せずに噴出させている他者の姿に対して、同類であるからこそ戸惑う気持ちを持ったのだろう。
『時刻表2万キロ』では、九州で自分が乗っていた車両の運用についてとある予想を立て、それが見事に的中するということがあった。
「この喜びはわかる人にしかわからない」
 と、心の中できんじやくやくする宮脇。予想が的中したことを誰かに話したくてたまらなくなるが、その妙味を理解してくれる相手は、その時はもちろん、東京に戻ってもいないのだった。「鉄道友の会」の人なら話し相手になってくれるかもしれないと考えつつも、「もっとも、半狂乱の人が多いらしい」ので、わかりきったことを、と相手にされないかもしれないと思っている。
「鉄道友の会」とは、昭和二十八年(一九五三)に発足した、老舗しにせかつ名門の、鉄道愛好者の団体である。そのようなマジな団体について「半狂乱の人が多いらしい」などと書けば、今なら炎上必至であろう。それはいいとして、宮脇はマニア達が集まる団体に参加する気持ちは無かったし、「好き」という気分があまりに高じると常軌を逸する傾向があることも、知っていた。
 だからこそ宮脇は、一人で旅をした。童子の魂を持つ百閒は、ヒマラヤ山系という秘書のような保護者のような相手と一緒でなければ旅ができなかったが、宮脇は子供の時と同じように鉄道が好きという気持ちを一人、てのひらの上で転がしながら旅をしたのだ。
 著書の中で宮脇はしばしば、列車や路線、時には駅を擬人化して見ている。まいばら駅なら「大きな仕事をしてきた老大家」。イベント列車として走る蒸気機関車は、「晴れがましく照れている」かのような「老兵」。
 列車等を擬人化して見る時の宮脇の視線には、しばしば哀しみが混じっている。子供の頃は、常にけいの念を持って見上げていた鉄道であったのに。宮脇が紀行作家として活動していた時期は、モータリゼーションの波に追われ、ローカル線が次々と廃線になるなど、鉄道は斜陽の乗り物となりつつあった。
 また新幹線やトンネル、橋などの開通によって、日の目を見なくなる路線や駅もあった。米原駅は「老大家」だったが、宮脇がそれを感じるのは、新幹線の「ひかり」で米原を通過する時(当時、まだ「のぞみ」は登場していない)。「大きな仕事をしてきた老大家に挨拶もせずに素通りしてしまうような」気持ちを覚えていたのだ。
 その視線は、既に子供のものではない。鉄道が弱さを見せるようになって、宮脇は大人の視線を持たざるを得なくなっていた。大人として、いたわるかのように老大家や老兵を見ていたのだ。
 はたまた、東北本線とりくとう線が交わる交通の要衝だった駅が、東北新幹線の開通時には見放されてしまうと、
「小牛田の心中を察すると同情を禁じ得ない」(『終着駅へ行ってきます』)
 と、心を寄せる。当時「日本一の豪華列車」であった寝台特急「出雲1号」が東京駅で発車を待っているのを見れば、
「あすの未明には、あの旧態このうえないあまる鉄橋を渡るのかと思うと、『山陰本線に入ったら道が悪いから気をつけなさいよ』とでてやりたくなる」(『鉄道旅行のたのしみ』)
 と、心配するのであり、それはほとんど親のような視線である。
 宮脇が、変わりゆく鉄道をいたわり、するかのような視線を持つようになったのに対して、百閒が世を去ったのは、昭和四十六年(一九七一)。新幹線は登場していたが百閒は乗っておらず、まだローカル線が大量に廃線となることもなく、百閒の嫌いな電車がほとんどになりつつも、まだぎりぎり各地で蒸気機関車が走っていた。百閒は鉄道をいたわったり庇護したりする視線を持たなくてもよい最後の時に、他界したのである。
 子供の心のままでった百閒と、子供の心を大切にしながらも、大人の視線を身につけていった宮脇。子供の心は列車に乗る楽しさを後世に伝え、そして大人の視線は、鉄道もまた変化を続けざるを得ないものであることを、私達に教えてくれているのだろう。



「カドブンノベル」2020年11月号より


「カドブンノベル」2020年11月号

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