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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.69

本当の名前、本当の自分を取り戻すために――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『楊花の歌』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

青波杏『楊花の歌』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
最終回は、小説すばる新人賞受賞作。

 人にはそれぞれの哀しみがあるということを思い知らされた一冊だった。
楊花ヤンファの歌』(集英社)は、第三十五回小説すばる新人賞に輝いた青波杏のデビュー作だ。物語は四部構成になっており、第一部は一九四一年十月二十一日の中国は福建省廈門アモイで始まる。語り手の〈あたし〉はその地にある〈朝日倶楽部〉というカフェーで、リリーを名乗って働いている女性だ。ご存じのとおり当時のカフェーは、若い女性による接客が行われる場所だった。元は東京・上野の生まれだが、大阪の松島遊廓でスミカの名を使って働いていたということがすぐに明かされる。十八歳までは女学校に通って室生犀星や萩原朔太郎の詩を読んで暮らしていたのに、生家が没落してしまったのだ。「廓に入ってたった一ヶ月でそれまでの人生を心の奥深くに閉じ込めた」とリリーは語る。そこから自分が何者なのかを語ることはせず、すべてを偽って生きている。朝日倶楽部では、内地ではタイピストだったということで通している。娼家上がりの女をさげすむ同僚がいるが、何も口にすることはできず胸が痛む。
 リリーが廈門で唯一心を開く相手はヤンファ(楊花)だ。泉州の出身で、内地では神戸元町で肉饅頭を売っていた、と語る彼女の過去をもちろんリリーは信じていない。そして自分が娼婦の出身であることもヤンファには話していない。

――廓にいたころ、あたしは体を見たことがなかった。きっと傷だらけで醜いのだろうと、思い続けた。でも、ヤンファの指先にほんとうに愛を感じたとき、あたしは傷や歪みさえも、あたしの体なんだとはじめて思えた。

『楊花の歌』は男の暴力によって身体を奪われてきた女たちが、同性と心を通わすことによって本当の自分を取り戻していく物語である。リリーとヤンファの他にも同じような、しかし他人に語ることのできない過去を抱えた女たちが登場する。哀しみは自分の心の中にあり、外に出して見せることができないのだ。だからリリーとヤンファも、一つに溶け合うほどに体を重ねてきた間柄なのに、互いに真実を打ち明けることはできない。その心の距離が何よりも哀しい。

 ヤンファが口ずさむ歌は〈あたし〉に涙を流させる。
――夜遅くに目を覚ますと、ヤンファがベッドの縁に腰かけて、歌を口ずさんでいた。北京語でも閩南びんたん語でもない、知らない言葉。それなのになぜだか気づいたら涙が頬を伝っていて、あたしはあわてて枕に顔を押しつけた。生まれるずっとまえから知っているような、しずかな森の奥に流れる清流のような、そんな澄み切った歌声だった。南の窓から差し込むうすぼんやりした街の灯りが裸のヤンファの背中を照らしている。傷一つない引き締まった浅黒い肌だ。

 リリーが娼婦であったことを明かせないように、ヤンファもまた日本人の恋人には容易に語ることができない過去を持っている。日本の戦争史に詳しい読者なら気づくと思うが、本作はいくつかの実際に起きた事件を背景として描かれている。第三部では視点人物が代わり、台湾先住民族の少女になる。日本人からは〈バンジン〉などと蔑称で呼ばれる存在である。山岳地帯で暮らしていた少女ははじめ、ジプン(日本)の言葉を理解できない。後に庇護者になってくれる女性と出会ったとき彼女は、かつてジプンの大人からかけられた知っている限りの言葉を使って話しかける。それが「ドロボー、イヌコロ、おまえ、いくらだ、ビジン、サケ」といった子供の口から出るにはあまりにも卑しい語彙であるというのが痛ましい。日本によって始められた戦争は、その大義名分とは別に、心の荒んだ人々を作り出した。ヤンファの哀しみはそうした荒廃によって引き起こされたものである。
 リリーとヤンファが行動を共にしているのは、ある目的のためだ。ヤンファは普段屋台の物売りに身をやつしている。彼女の身辺に異変が生じたら、それとなく知らせることもリリーの役目である。二人の上には抗日運動を行っている共産主義者の組織がある。ヤンファはその工作員、リリーはバックアップなのである。二人が担う使命が何であるかということがやがて明かされる。長く緊張を強いられる日々が終り、瓦解の瞬間が訪れる。それは吉と出るか、凶と出るか。
 ジャンルとしてはエスピオナージュ、いわゆるスパイ小説に分類される作品だ。エスピオナージュは組織内の、または個人間の不信を描く物語である。人が人を利用し、裏切る。そのさまが心に投げかける影こそが小説の主題だ。『楊花の歌』が優れているのは、そうした相互不信の当事者を、過去を語れない女性にした点であろう。リリーやヤンファ、そして同じ境遇にいる無数の女たちは、自分だけの哀しみを抱えて生きている。そうした人々を主役として描いたからこそ、諜報闘争の中で駒として使われる個人の存在の哀しみを浮き上がらせることができたのだ。エスピオナージュ史における画期的な作品である。
 何度も書くように本作はリリーとヤンファが奪われた自分を取り戻す物語でもある。作者ははじめ彼女たちの現在を示し、そこから少しずつ扉を開けてそれぞれの過去を明かしていく。謎めいたヤンファの素顔が明かされたときには熱いものが胸に込み上げてくるのを感じた。人命が軽んじられた戦争の時代の物語である。弊履の如く人々は使い捨てられ、命を落としていく。だからこそリリーとヤンファには生き抜いてもらいたいと強く願った。二人に命を、どうか。
 巻末プロフィールによれば作者は、近代の遊郭の女性たちによる労働問題を専門とする女性史研究者であるという。そうした素地が小説にも活かされている。戦争という状況を描くと同時に、弱い立場を強いられた女性たちの姿を書き留めることも本作の執筆目的であっただろう。その狙いは十分に成功している。実は、リリーとヤンファに加え、もう一人の主人公というべき女性がいる。誰か、ということは明かさないでおこう。歴史の中で名前を呼ばれることもなく、その他大勢の一人として終わった女性たちを代表するのが彼女なのだ。本当の名前、本当の自分を取り戻すために生きた人の物語である。
 長く続いた連載も今回が最後となる。これまでのご愛顧に感謝します。また、どこかでお会いしましょう。


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