――わたしは死んでいる。すばる文学賞受賞のデビュー作――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『がらんどう』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

大谷朝子『がらんどう』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、背景に広がりを感じるデビュー作。
読んでいるときから、もう一冊、もう一冊この人の小説が読みたいな、と考えていた。
大谷朝子『がらんどう』(集英社)は第四十六回すばる文学賞を受賞した、作者のデビュー作だ。静かな語りで綴られる小説だが、読んでいる者の視線を行間に捉えて動かなくさせるような吸引力がある。それほど長くない作品ということもあり、ああ、終わってしまう、あと少しページをめくったら本を閉じなければならなくなる、と思いながら読んだ。ページターナーという感覚とは少し違う。文章は丁寧に状況や人物の顔などを映し出しているのだけど、その背後に何かがあるという感じがずっと胸から去らないのである。そのために、文章だけではなくて行間が気になってしまう。行間を凝視する小説、とでも言おうか。
主人公は、〈わたし〉こと三十八歳の平井佐和子である。彼女は菅沼という四十二歳の女性と、横浜市鶴見区にあるマンションをルームシェアしている。昨今の住宅事情は厳しく、一人で都内に部屋を借りようと思ったら1LDKでも難しい。だから女二人で住もうということだ。菅沼に誘われて平井は承諾した。彼女にとってそれは、いろいろなことを諦める決断でもあった。
平井は小さな会社の経理部員だ。菅沼は3Dプリンターを使ってフィギュアを作る仕事で生計を立てている。最近作っているのは死んだ犬のフィギュアだ。ペットに死なれた飼い主に需要があるのである。年齢も職業も違う二人には「KI Dash」という交点がある。五十嵐くんとこばっち、二人組のアイドルグループである。平井はそれほどでもないが、菅沼は熱烈なファンでDVDはすべて持っている。
二人の身辺に関することが、なんとなくわかってくる。最初から興味を惹かれたのは平井と菅沼の間の距離だ。恋愛感情では結びついていない。生活上の要請から一緒に住んでいるが、友情と呼べる範囲を超えるほど強固な結びつきではないようだ。同じアイドルを応援する同志、というのも少ししっくりこない。平井と菅沼の間には明らかな温度差があるからだ。先入観でこうだろう、と決めつけられるような関係がやんわりと否定されていく。一緒にいることが苦にならない関係とでも言うべきか。つまりどんなことにも縛られていない。
二人の穏やかな日常が描かれる序盤は、心地よい雰囲気に満ちている。やがてちょっとした事件が起きる。KI Dashのうち、こばっちの方が結婚を発表するのである。グラビアアイドルとの、いわゆる「でき婚」だ。悲嘆にくれる同居人を慰めようと、平井は気分転換の旅行を提案する。行先は熱海だ。実は平井が中学三年生のときに家出してきて保護された土地でもある。その冒険譚を聞かされて菅沼は笑う。「平井が家出したら熱海に探しに来ればいいんだね」と。
ここまでが小説の明るい側だ。つるりとしていて、いい光沢があって、文字を追っていて楽しい。読み心地がいいのでするするとページを繰ってしまうのだが、それだけではないことがわかってくる。明るい面があれば暗い面も当然あるのだ。平井が日々をただ穏やかに暮らしているだけではないということは、序盤で明らかにされる。書いてしまっていいだろう。「これまでの人生で、わたしは男性に一度も恋愛感情を抱いたことがない」と平井は言う。会社でも飲み会にはほとんど参加せず、仕事が終われば菅沼の待つ部屋にまっすぐ戻ってくる。だからといって菅沼の存在によってすべてが救われるというわけでもない。ベッドに横たわり、平井は「時々こうやって死んだふりをする」。
――わたしは死んでいる。だから、この世で起こっているすべてのことから無関係だ。死んだ犬たちのことを考えた。飼い主に溺愛されて、死んだ犬たち。まやかしの身体をフィギュアとして現世に残し、あの世では魂の尻尾を振りながら駆け回る。わたしの魂も、犬たちと一緒になってはしゃぎまわる。
「死んだふり」をしてまで自分が生きていることから目をそらさなければならないのはなぜか。
『がらんどう』という小説を考える上で最も重要なのはその問いだ。先に平井と菅沼を「どんなことにも縛られていない」関係と書いた。まったく束縛がないということは、裏返して言えば堅固な拠り所ではないということでもある。どこにも帰属意識が持てないからこそ漂うようにして生きている。平井のその心理状態が読者の注意を行間に惹きつけるのである。どのような気持ちで生きているのか、知りたい気持ちにさせる。
平井は特別な人間ではなく、むしろ普通すぎるほどに平凡だ。世の中には生き方についての、こうすべきだという価値観が氾濫している。そのどれも受け入れることができない者は、どこにも根を下ろすことなく漂い続けるしかない。平井の姿に自身を重ね合わせたくなる読者は多いはずだ。自分自身の像を切り取られているような気持ちになるからだろう。もっと大谷朝子を読みたい。その中にいる自分に会いたい、と。
気になる作家はたくさんいる。その気になり方もさまざまだ。大谷朝子の場合、背景に広がりを感じ、すべてが書き尽くされたわけではないのではないか、と思わされることが主因ではないかと思う。ずっと読み続けていくと、いつか大谷朝子の核にたどり着けるのだろうか。それを知りたい。次作が出てもきっと読むと思う。