エンタメ界期待の新鋭、登場! ――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『午前0時の身代金』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『午前0時の身代金』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、新潮ミステリー大賞を受賞した一冊。
高いハードルを飛び越えてきた作品だ。
京橋史織『午前0時の身代金』(新潮社)は、第八回新潮ミステリー大賞を獲得した著者のデビュー作である。新人賞関連の仕事を私もやっているので、これを手にしたとき下読みの人は興奮しただろうな、と思う。明らかにものが違う感じがするからだ。梗概を読み始めてすぐ、あ、これは最終候補には残るな、と直感したのではないか。
ミステリー新人賞の応募作では、作者が思うほど読者は感心しないよ、というものをよく見かける。これには質的と量的、二つの要因がある。質的というのはつまり、先行作品に同工のものがあり、比べても独創性が感じられないということだ。応募作を書く前に、古今東西の名作はとりあえず読んでおいたほうがいい、と選考委員が口を酸っぱくして言うのはこのためで、どんなアイデアも先に書かれている可能性はあるのだ。とはいえ、全部の名作を読んで書かれているかいないかを確かめていたのでは、作家ではなくて書評家になってしまう。だからお勉強の度合いには限度があっても仕方ないと思う。作家になるためには、別にマニアになる必要はないわけだし。
そこで必要なのが量的な努力だ。どういうことかというと、自分のアイデアには前例があるかもしれないと考えて、それを数で補うというわけである。トリックには前例があっても、その使い方や謎の解き方が独創的だから、という理由で評価されることは大いにありうる。この量的な努力をしていない作品は、話が一本調子になってしまい、前へ前へと進めたがるのは作者だけで、読者は白けてしまうこともある。小説を読むという行為はよほど好きな人以外にとっては大仕事なので、ページをめくらせるためにはアイデアを詰め込む必要が元からあるのだ。
『午前0時の身代金』は、そうした面倒くさがりな読者の気持ちに、憎いほど配慮してくれる作品だ。まず、中心にあるアイデアが独創的でいい。本條菜子という学生が突如失踪し、身代金を求めるメールが届く。受け取るのが誘拐された当人の係累ではない、というのがまずおもしろい。サイバーアンドインフィニティというIT企業のクラウドファンディング事業部がそれを受け取るのだ。犯人は自分たちの要求を《誘拐プロジェクト》と呼ぶ。総額十億円をクラウドファンディングとして一般から募集するのである。自分とはまったく関係ない人間のために金を出すか、という疑問はあるが、SNSで行われる議論などを見ても、人命は何よりも重要である、という正論には大きな力があることがわかる。現実に行われたらどうかはわからないが、もしかしたら、と思わせてくれる設定ではある。
一人あたりが出せる金額の上限が百万円が五十件、五十万円は百件、一万円が一万件で五千円は無制限、一アカウントあたり二件までしか応募できないという縛りがある。最初に大口が埋まっていって、小口の応募者がどれくらい集められるかで成否が決まる展開になるあたりはよく考えられている。百万円と五十万円の応募は全件合計で一億円、そのくらいは誘拐された女性の関係者などが率先して出したということだろう、と作中では推測される。あとの九億円は、文字通り一般市民の判断に委ねられるのだ。
普通の誘拐ミステリーだと警察の捜査状況が主として描かれることになるが、本作では誘拐の後でまず読者が見せられるのは事件を報じるニュース番組であり、このクラウドファンディング実行を求められたサイバーアンドインフィニティが開いた社内会議の模様である。アクセスが集中してシステムダウンが起きたら責任問題になるのではないかという声が上がったり、法務を担当する弁護士がレピュテーションリスク、つまりクラウドファンディングを断った場合に企業が被る評判低下について言及したり、とありそうな感じなのがいい。会社が諸リスクを天秤にかけているところが描かれるわけである。警察が捜査でどう動くか、ということよりもこっちに強い関心を抱く読者もいるだろうから、良い選択であると思う。
こうした具合に、これまでのミステリーではあまり見ることができなかった場面が多数描かれる。これを見たいでしょう、これはどうですか、と作者が読者の心を読んで場面を選択している感じだ。いいセンスだ。誘拐ミステリーの肝は、なんといっても身代金の受け渡しである。どんなに大金を集めさせても、それを受け取れなかったら犯行には何の意味もなくなる。警察側から見れば、受け渡しのときが犯人と接触する唯一の機会だし、もし遠隔操作でそれをやろうとしても跡をたどっていくことは可能である。十億円のクラウドファンディングが事件の第一段階だとすると、第二段階は金の受け渡しだ。これはどうやって書くのだろうと期待しながら読んでいると、予想外の事態が起きる。なるほど、こう来るか、と感心させられる。その次にくるのは、意外なほどに原始的な手段が使われるという展開だ。手が多彩で、それを繰り出してくるタイミングもいい。アイデア量が多いと、物語の起伏も豊かになるのだ。
プロットについては、非の打ちどころはない。もちろん不満がないわけではなく、これはあくまで私の好みだが、主人公に魅力がないことが気になった。新米弁護士で、腹芸を使う上司の考えについていけずに悶々としたり、過去に家族が巻き込まれた出来事のために正義を行うことについて堅い考えを持っていたり、と表情豊かに演技をしてくれはするのだが、型に嵌まった人物像である。怒る表情しか演技パターンを持っていない感じなのだ。これは脇役も同様で、関心を抱ける登場人物がいないのがもったいない。主人公の属する事務所のボスである美里千春などは、もっと奥行き深く描ける気がするのに。真相が明かされたときに、犯人像に今一つ納得できなかったのも人物描写が弱いためだろう。逆に言えば、この点を強化できれば書き手として申し分ないということになる。
盛りだくさんのアイデアを一つの形にまとめあげ、これまでなかった物語として読ませる。この一事だけを見ても、新人のデビュー作としては高水準の出来である。おそらくは量産も可能だろうし、エンターテインメント界期待の新鋭と呼ぶべき作家だ。次から次に書いてもらいたい。読むのが追いつかなくなるくらい。書けば書くほど上手くなるはず、と期待して待つ。