魂を奪われるような読書体験をした――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『感応グラン=ギニョル』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、小説としてのデザインが見事な一冊。
『感応グラン=ギニョル』書評
小説のデザインそのものに魅惑されたと言うべきか。
予備知識まったくなしで手に取った、空木春宵『感応グラン=ギニョル』(東京創元社)で魂を奪われるような読書体験をした。これは絶対に薦めなければならない一冊である。新人が上梓する初の単行本であり、ぜひ周知されてもらいたい。ジャンルとしてはSFに分類されるであろう短篇集で、残念ながらこちらは門外漢である。どういう形で自分の受けた感銘を言葉にしたらいいか、と考えて冒頭の表現に行き着いた。
デザイン。細部の意匠はもちろん、建物を出て遠目に眺めたときに、なるほど全体はこういう思想の下に設計されていたのか、と腑に落ちる構造が見事である。
理に適っていて、かつ理に落ちすぎていない。これは空木の密度高い文章の為せる業でもあるのだが、主題を前面に出さず、読者に発見させるように各篇の構成が考えられているのが功を奏しているのだろうと思う。また、そのために各部の意匠が考えられているとも言える。読者の意識を集中させ、それを手がかりとして小説の階段を一歩一歩上がっていくために置かれるのがモチーフである。それが有効に機能している。置いただけ、存在感を示しただけ、ではなくて確実に読者がすがるような形、場所に配置されている。そこにそれがあれば誰もが手にするだろう、という人間の心理を知り尽くした的確さだ。小説のユニヴァーサル・デザイン、という言葉は今私が考えた造語である。
五篇が収録されており、最後の一作のみが書き下ろしである。表題作になっている巻頭の「感応グラン=ギニョル」は『ミステリーズ!』九十六号に発表された。
グラン=ギニョルとは、十九世紀末から二十世紀半ば頃までパリに実在した劇場の名である。残酷趣味を売り物としたが、劣情を煽るばかりではなく、それによって人間や社会の酷薄さを浮き彫りにするという芸術的効果を上げることにも成功した。後続作家に与えた影響も大きい。そのグラン=ギニョル芝居が昭和初期に繁栄した日本最大の興行街・浅草六区に存在した、という設定の物語である。そこではグラン=ギニョル劇場に倣って凄惨な芝居が夜毎に上演されていた。本家の座付作家でもあったアンドレ・ド・ロルドにかけあって暖簾分けを許してもらった、という怪しい主張を座長がしているあたりが虚実の皮膜をあやふやにしていて楽しい。
この浅草版グラン=ギニョル劇場には本家にはない大きな特徴があった。出演者を少女に統一したこと、しかも身体に欠損のある者のみに限定したことである。出演者の身体性に観客の意識を惹きつけることで何を座長が狙ったのかは明らかにされないが、何かの偏向があるのであろうとは読者にも察せられる。そこに、
無花果の参入によってグラン=ギニョル劇場に起きたある変化、そしてそこから引き起こされる大きな事件が描かれていくというのがあらすじである。最後に人智を超えた現象、演劇用語で〈機械仕掛けの神〉とも言うべきものが出来して断ち切られるように物語の幕は下ろされる。この構造もモチーフに用いたグラン=ギニョル趣味と符合している。各篇に共通した特徴で、この符合がデザインの優秀さを読者に毎回意識させることになるはずだ。ここまでが小説の外形について私が書ける精一杯の情報である。
以下は若干私の解釈が入っていることに留意されたい。勘のいい方はすでに察知しておられると思うが、浅草六区のグラン=ギニョル劇場には性的搾取の気配が感じられる。出演者の幼く、しかも欠損によって強調された身体に芝居が支えられているというためで、巷で淫らな噂が囁かれているということも初めのほうで言及されている。それは根拠のない風聞に過ぎず、少女たちは座長の安全な庇護下にいるのである。
だが、搾取はもっと深いところで行われる。観客が「可哀想に」「自分はああじゃなくて良かった」という視線を向けることで芝居は成り立っている。「他者の不幸と自身の優越とを求めてやまぬ」観客の欲望こそが、芝居に対する需要の正体なのだ。
他者の身体に欲望の視線を向けることは残酷な暴力行為である。悪意が介在するか否かは無関係で、身体への欲望がそのまま簒奪につながることもある。そうしたことを確認する瞬間が、収録作の各話には共通して訪れる。主題の一つだと言えるだろう。一つ、という言い方をするのは、読み方を狭く限定するような作品集ではないためである。「感応グラン=ギニョル」でも、劇場が搾取の上に成り立っている、という物語世界の性質を見せたのち、作者はその話題をいったん離れるようにして座員たちの日常を描き始める。前述したように、無花果が加入したことによってある変化が生じたのだ。この変化は、座員たちに自分たちの身体性を改めて意識させることになる。注目される身体という枠組みを見せておいて、身体への注目という行為を描くわけだ。うまい転換である。
自分の身体は自分のものであり、何者にも侵されるいわれはない。それが本書の柱となるもうひとつの声だ。物語が進むうちにこの声がどこかから響いてくるように各話は設計されている。帯に記されている「この痛みも、呪いも、わたしだけのもの。」という言葉は表題作ではなく「
設定の奇異さで引きつけて物語を成り立たせている論理をまず読者に浸透させ、その上で登場人物たちの必死な生き方を見せつけて、彼らの声が耳に届くようにする。そうした形で『感応グラン=ギニョル』は書かれている。ここに紹介したのは複数存在するであろう道筋の一つにすぎない。たとえば、各篇からは先行作品への敬意表明が感じられる。ロルドのグラン=ギニョル芝居は対象の一つだが、巻末の「Rampo Sicks」の題名が示すように江戸川乱歩もまた尊崇の念を捧げられた作家である。勘違いでなければ「感応グラン=ギニョル」は津原泰水「五色の舟」を意識した作品だろう。「五色の舟」は優れた戦争小説であったが、同じような技巧を用いたことで本作は3.11の震災文学としても成立しているのである。
空木春宵のデビューは意外に古く、二〇一一年に「繭の見る夢」で第二回創元SF短編賞の佳作を授与されている。短編賞そのものを獲得したのは、あの酉島伝法「皆勤の徒」である。そこから十年近くかかったが、ついに初の著作刊行が実現した。満を持しての一冊だ。凄まじいほどの知性を制御する達意の文章にも言及したいところだが、いい加減に長くなってしまった。ここまでにしておくので、各位は急いで本を買いに走るか、電子書店に注文を出すかのいずれかを選択してもらいたい。とにかく一刻も早く本を手にするべきだ。