主人公は、ロボット掃除機!? 『地べたを旅立つ』杉江松恋の新鋭作家ハンティング
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、斬新な主人公設定でありながら、ロード・ノヴェルの王道を行く一冊。
これはまた、なんと正しい冒険小説であることか。
今回取り上げる、そえだ信『地べたを旅立つ』(早川書房)は、第10回アガサ・クリスティー賞の大賞受賞作である。英国ミステリーの女王として知られる作家の名を冠したこの賞は、過去には歴史ミステリーやSF設定の作品なども栄冠に輝いている。振れ幅の広い新人賞なのである。だが、その中でも本書はいちばんの異色作ということになるのではないだろうか。副題に「掃除機探偵の推理と冒険」とあるとおり、主人公は掃除機なのだから。
え、掃除機。そう、掃除機。
正確に言えば、「スマートスピーカー機能付きロボット掃除機」になぜか憑依してしまった男の語りで進んでいく小説である。男の名は鈴木勢太、北海道札幌方面西方警察署刑事課に奉職する、三十三歳の警察官だ。プロローグにあたる部分で事故の場面が描かれ、意識を取り戻してみれば自分が掃除機になっていることに気づき、という展開でお話は始まる。「ある朝、落ちつかない夢から醒めたとき、鈴木勢太は一台の小さな機械に変わってしまっている自分に気がついた」とカフカ『変身』のパロディで第一章が始まっているあたり、なかなか遊び心がある。
「なぜそうなったのか」については追求されない。そういうことになってしまったのである。仕方ない。勝手に動き回ってごみを集め、自分で充電もするというあの掃除機になってしまったのだ。普通であれば死ぬほど悩むところだろうが、勢太にはそんなことをしている余裕がない。意識を取り戻したのは札幌市内のとあるビルの一室で、そこから三十キロメートルほど離れた小樽市まで急行しなければならない事態が出来していることに気づくからである。三十キロメートルといっても今の勢太にとっては途方もない距離だ。なにしろ掃除機の進行速度は遅い。仕様書によれば秒速五百ミリメートル、これを時速に直すと一・八キロメートルということになる。充電が切れる前に辿り着けるのか。いや、段差だってあるだろうに、そもそも建物から出ること自体が可能なのか。
この状況設定がおもしろく、まず引き込まれる。さすがに単なる掃除機では無理なので、インターネットに接続してブラウザ検索やメールの発着信が可能であったり、マジックハンドを使って物を摑むことができたり、といった謎の高機能が搭載された機種ということになっている。最初にどの程度のことができるかが読者に示され、その範囲内で主人公が奮闘するわけである。拡張機能があっても無論難易度は高い。
乱暴な言い方をすると斎藤惇夫<ガンバの冒険>シリーズ+『ゴースト/ニューヨークの幻』である。前者は言わずと知れた児童文学の傑作で、島を占拠したイタチと闘うためにガンバたち町のネズミたちが旅をする物語だ。「ちっぽけで、無力な者がはるばる旅をする」という状況設定が好きな方は本書にはまるのではないかと思う。マージェリー・シャープの〈ミス・ビアンカ〉シリーズとか、セルマ・ラーゲルレーヴ『ニルスのふしぎな旅』だとか。主人公は無力であればあるほど盛り上がるのだが、本書の場合は充電が切れると動けなくなってしまうばかりか、憑依している勢太の意識自体もどうなってしまうかわからないという恐怖がスリルを高めている。
『ゴースト/ニューヨークの幻』についても改めて説明するまでもないと思うが、あの映画で興味の中心となったのは、幽霊になった主人公がどうやって恋人を敵から守るか、という点だった。幽霊だから現実界で起きていることに干渉できないという設定なのである。本書の場合は、掃除機なので人間に自分の意志を伝えることができない、という点が勢太の泣きどころとなる。メールの送受信などごく限られた手段はあるものの、それとて急場には役に立たない機能である。まして目の前にある掃除機が意志を持って動いている、なんてことをまともに取り合ってくれる人はいないわけである。
細かくは書かないが、作者はエピソードを数珠つなぎにすることで、問題を解決している。全体を貫く課題は札幌から小樽まで移動しなければならないというある目的で、場面ごとに謎解きや、打開しなければならない局面が置かれているのだ。たとえば主人公が意識を取り戻した部屋では、隣室に男の他殺体が転がっていることがわかる。状況からするとそれは密室殺人なのである。どうやって密室を構成したか、という謎を解くための手がかり呈示と部屋脱出のための試行錯誤とが組み合わされているのが巧い。
個々の場面で活躍させつつ主人公を移動させ、最終的な課題が達成できるかどうかという興味で読者を惹きつけていく。ロード・ノヴェルの基本形であるが、それを作者は危なげなくこなしている。掃除機になってしまった主人公という状況設定こそ特殊だが、プロットは正統的な冒険小説のそれなのである。個々の謎解きは小粒ではあるが、そこはたいした問題ではない。困難な旅を遂行できるか、刻限までに到着可能か、という興味で読ませる小説だからだ。手に汗を握る。生まれて初めて私は掃除機に感情移入した。それがすべてだろう。
文章は平易であり、達者だと感じた。設定は流行の異世界転生小説を思わせる。もしかするとネット小説などで実績を積んだ作者なのかもしれない。たぶん、いろいろ書ける。素材とプロットの組み合わせ方に融通無碍なものを感じる作者だ。次はいったい何をしてくるのだろう、と期待して待ちたいと思う。また無機物か。有機物か。なんなら豆腐に転生してしまった主人公とかどうか。小説になるかどうかはわからないけど。