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連載

万葉集に、親しもう。

新元号「令和」決定記念試し読み!⑤ 万葉の人びとにとっての宴と歌とは?

万葉集に、親しもう。

 新元号の出典として話題の『万葉集』。「令和」がとられたのは大宰府で催された「梅花の宴」の歌の序文からでした。
 当時の人々にとって、「宴席」とはどのようなものだったのでしょうか。

 歌人・佐佐木幸綱先生の『万葉集の〈われ〉』(角川選書)より、宴と歌について記した部分を限定試し読み!

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 槻の木の下の宴席


 次に私的な宴席の歌を見よう。前に見た安宿王の歌の二カ月ほど後、山吹が咲く春の終わりに、大伴家の庄(私有の田地)にあった大伴家持の別邸の槻の木の下で私的な宴会が行われた(残念ながらこの庄がどこなのかは不明)。季節によっては、野外に宴席をもうけることもあったのである。
 槻の木(「槻」は欅の古名)は、「斎槻」「斎ひ槻」などとも呼ばれ神聖な樹木とされていたから、その下で宴会が開かれることがよくあった。槻は巨木に成長する。「槻」は「憑き」に通じ、神が寄り憑くとされ、槻の巨木には神が降臨するという信仰ないしは感覚があって、槻を聖樹と考えたのである。縁起のいい木のイメージだ。
 大化改新にかかわるエピソードが思い出される。大化改新の主役・中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が出会ったのは、法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で打毬をしているときであった。クーデター成功後、中大兄皇子はその大槻の下に群臣を集合させて、新政権への忠誠を誓約させている。
 飛鳥寺のその槻の木の下で、後年、宴会も開かれている。大化改新から三〇年近く経って、天智天皇の弟・天武天皇が開いた宴席である。天武二年(六七三)二月、「多禰嶋人らに飛鳥寺の西の槻の下に饗たまふ」と『日本書紀』は伝えている。「多禰嶋」は種子島である。この槻の下で、はるばる種子島からやってきた人々にご馳走がふるまわれたという。「饗たまふ」は宴会を開いてもてなした、の意味である。
 さて、家持別邸の宴会は、種子島の人たちの宴会から七、八〇年後のことになる。

①山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつかざしたりけり
巻二十・四三〇二 置始長谷  
(この山吹は今後も大切にそだてましょう。これからもこのように、君が来られて髪に挿してくださるのですから)
②我が背子がやどの山吹咲きてあらばやまず通はむいや年のはに
同・四三〇三 大伴家持  
(あなたのお庭の山吹がこんなにきれいに咲いているならば、今後もたえずやってきましょう。毎年毎年、花の季節には)

 一首目の作者・長谷(庄の番人か)が、山吹の枝と壺酒を持って家持の別邸にやってきた。宴会をはじめるにあたって、その山吹の枝を家持が髪に挿した。この宴席での歌は、そのことを題材にしてうたわれている。
 花を挿頭にするのは、宴席のパフォーマンスでもあったが、もともとは植物の生命力を身に吸収するためだった。花は植物の生命力のエッセンスだからである。古代信仰に端を発したこの行いは広く流行したようで、宴席では男女ともにさまざまの季節の花々を髪に挿した。梅の花や桜の花を挿頭にした歌がたくさんある。
 持参の山吹の花を家持が挿頭にしたのを話題に、「今後もよろしく」と挨拶したのが①、それに対する返しの挨拶が②である。長谷は家持の庄にやとわれていた者らしいから、身分的には家持が主人に当たるわけだが、ここでは地元の庄の住人・長谷が主人で、家持が客人という立場でうたっている。社会的現実の関係ではなく、宴席空間における関係で立場が決められている点に注目しておきたい。後世の茶の湯を思い出す。茶の湯では、にじり口を通って茶室に入ると、社会的・日常的な地位や人間関係は一切白紙となり、「客」と「主人」の関係となる。
 挨拶の歌は、基本的にこうしたかたちで宴席空間の関係における立場上の〈われ〉がうたわれるのであった。
 記録されて万葉集に収録された歌は、レベル以上の歌と判定された歌だったろうが、それでも歌に上手下手はある。①について、土屋文明『万葉集私注』は一首中に「つつ」が三回も出てくるのは「稚い技のためであらう」と書いている。『万葉集私注』は歌の出来をけなすことが多い本だが、ここは当たっている。家持としては、歌の巧拙ではなく、宴席の主としての立場をわきまえた歌という基準で記録したものと思われる。
 公的な宴席、私的な宴席にかぎらず、宴席ではまず、このように「挨拶の歌」がかわされた。歌で挨拶をする。あるいは挨拶を短歌形式で行ったわけだ。
 余談だが、私の祖父・佐佐木信綱の幼少時の「挨拶歌」が『加越日記』という本に残っている。明治十三年(一八八〇)、九歳の信綱が、父・弘綱に伴われて加賀・越中を旅したときの記録である。少年・信綱は、旅の先々で地元の歌人たちの歌会に参加し、席上で「挨拶の歌」をかわした。十歳に満たぬ少年ながら、客〈われ〉の立場に立つ「挨拶歌」を作っている。宴席における「挨拶歌」は、明治期までじっさいに行われていたのであった。

 十八番の歌


 宴席での歌のありようは一様ではなく、さまざまなバリエーションがあったようだが、基本パターンはほぼ決まっていて、次の如くだったと想像される。
 ①主人の挨拶歌(ここで宴の主題が提示される)。
 ②主賓の返礼歌。
 ③参加者の歌(主人を讃える歌、座を盛り上げる歌、流行歌・古歌の披露など)。
 ④納め歌(辞去を促す歌、引き留める歌など)。
 ピークは③である。③で多様なパフォーマンスがなされるわけだ。酒が出る。酒がまわりはじめる。③になって、宴がたけなわをむかえる。
 ③のころになると、十八番の持ち歌やその場にふさわしい古歌が誦詠されたりした。即興歌の得意な者がいると、題が出され、即興歌をリクエストされることもあった。現代の宴席でカラオケをうたうようなものだ。
 巻十六は、宴席で披露された十八番の歌を五首まとめて収録している。難解で意味が分かりにくい歌もあるが、引用しておこう。

①家にある櫃に鏁さし蔵めてし恋の奴がつかみかかりて
巻十六・三八一六 穂積親王  
(家にある櫃に鍵をかけてしっかりと閉じこめておいたはずの恋の奴が、つかみかかってきやがって)
②かるうすは田廬の本に我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ
同・三八一七 河村王  
(唐臼は田の中の番小屋の傍に立っている。わが背子はにっこり笑って立っておられるよ)
③朝霞鹿火屋が下の鳴きかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
同・三八一八 同  
(鹿追い小屋の下で鳴く蛙の鳴き声のように、泣いていますと言う子がほしい)
④夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ
同・三八一九 小鯛王  
(夕立の雨が降ると春日野の尾花の先にやどる白露が思われる)
⑤夕づく日さすや川辺に作る屋の形をよろしみうべ寄そりけり
同・三八二〇 同  
(夕日がさすと、川のほとりのこの家の形がいいので、なるほど引き寄せられてしまうことだ)

 引用しないが、これらの歌にはそれぞれに左注が付されている。①②③には「誦み」、④⑤には「吟詠す」とある。また②③には「琴を弾きて」、④⑤には「琴を取れば」とある。どういうふうに発声したのか、その点は後に考えることにするが、伴奏つき、アカペラ両方があって、うたう場合、ラップのように発声した場合などもあっただろうと想像している。
 みな男女のことをうたっているらしい。①~③は恋の気分をうたった歌だろう(②は難解。農にたずさわる女性が男をうたった歌、女性の立場ののろけ歌と解しておきたい)。④⑤は、表面は白露や家をうたっているが、宴席では粋な歌だったはずである。⑤の「形をよろしみうべ寄そりけり」の部分は、そこだけ独立させれば「美人なのでみんなが参ってしまう」の意味になる。第三句までは序詞のように機能したのではなかろうか。④も結句の「思ほゆ」がキーワードになって、尾花のようなあの子の涙が思い浮かべられ、宴席の男女には粋な歌として了解されたはずである。
 これら五首とも、一応、その場で発声した人物を作者として作者名が入っている。が、宴席でうたったその人自身が作った歌ではなく、出来合いの歌だったのだろう。①の穂積親王は他にも作品があるが、河村王、小鯛王は他に歌がない。少なくとも②③④⑤は、当時の「はやり歌」だったと推定するのが穏当かと思われる。
 たとえば②。②は「我が背子は」とあるから女性の立場の歌である。だから作中の〈われ〉は、これを誦んだ河村王その人を指すわけではない。カラオケで男性が女性歌手の歌をうたうようなもので、〈コスプレ的われ〉とでもいうことになるだろうか。
 宴席で、はやり歌とか古歌を誦む場合は、当然、自分とは別次元の〈われ〉が主人公となっている歌を誦むことになる。パフォーマンスを楽しむ〈われ〉。ときには、そのミスマッチが楽しまれたのだろう。

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 宴の席を歌を詠み、それがコミュニケーションツールとして今以上に機能していた時代。万葉びとの様子が伝わってきます。

 『万葉集』についてもっと知りたいと思ったら、ぜひ『万葉集の〈われ〉』を読んでみてください。


書誌情報はこちら≫『万葉集の〈われ〉』


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