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小野花梨の「心に刺さったこの一行」――『蟻の棲み家』『きのうの影踏み』より
心に刺さったこの一行
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忘れられない一行に、出会ったことはありますか?
つらいときにいつも思い出す、あの台詞。
物語の世界へ連れて行ってくれる、あの描写。
思わず自分に重ねてしまった、あの言葉。
このコーナーでは、毎回特別なゲストをお招きして「心に刺さった一行」を教えていただきます。
ゲストの紹介する「一行」はもちろん、ゲスト自身の紡ぐ言葉もまた、あなたの心を貫く「一行」になるかもしれません。
素敵な出会いをお楽しみください。
小野花梨の「心に刺さったこの一行」
ゲストのご紹介
小野花梨(おの・かりん)
1998年7月6日生まれ、東京都出身。2021年公開の「プリテンダーズ」で長編映画初主演。近作にドラマ「カムカムエヴリバディ」「罠の戦争」、映画では主演した「ほどけそうな、息」や「Gメン」「Ribbon」など。2022年公開の映画「ハケンアニメ!」で第46回日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞。ドラマ「初恋、ざらり」では軽度知的障害と自閉症を持つ主人公を演じた。
【最近出会った一行】 望月諒子『蟻の棲み家』(新潮文庫刊)より
子供を愛せない親、愛されない子供、愛されながらも非行に走る子供、愛しながらもどうすることも出来ずいっそのこと自分の手で絞め殺したいという親。
そんな人間たちが起こした事件の謎を解きながら、親子とは何なのか、尊くない命など本当にないのか――そんなことを考えてしまう社会派ミステリー。
まず、プロローグの数ページでどうしようもない母親に半ば育児放棄された聞き分けのいい
まるで大人よりも大人のように自分を殺し妹を守りながら生きる末男に、どうしようもなく引き付けられた。
この末男が物語を大きく引っ張っていくのだが、末男をもっと知りたいという思いだけでページを捲る手が止まらなかった。
家庭環境が悪く、幼いころから万引きや窃盗を繰り返し何度も警察のお世話になっているのにもかかわらず、幼き末男をよく知る大人たちは揃いも揃って末男を庇うのである。
その理由をある男性はこう表現した。
「ぼくはね、吉沢末男は、人の懐 に飛び込む力を持っているんだと思う。それは、人を信じる力とも言い換えてもいい。それが転じて、人を信じさせる力にもなる。」
私はこの一文を読めただけでこの小説に出会えて良かったと思った。
この仕事をしていると、他者を信じることの難しさと自分を信じてもらうことの難しさを逃げ出したいほど痛感する。
笑顔の裏を読み、言葉の端々に滲み出るその人の本音に敏感になりすぎてしまう。
生きれば生きるほど、信じる力より、疑う力が育っているように思う。
もっと信じさせてよ。もっと信じてよ。そう思えば思うほど空回り、孤独が加速する。
人に信じてもらいたければまずは自分が信じること。
そんな簡単なことを忘れてしまっていた。
末男は劣悪な環境の中でも、生きるために必要なことを本能的に心得ていた。
そういう生きるセンスは家庭環境に関係ないのではないかという希望を感じて嬉しくなった。
また別の人は、
「聡明さは、条件を与えられなくても、中から芽吹くものだろうと、そう思ってお話ししました。能力は、眠っていることを嫌うんじゃないでしょうか。」
と表現した。
これもまた、個人がもつ能力に環境は関係ないのではないかという希望の一文だと思う。
しかしこの小説は、生まれた環境が悪くても本人の能力次第で現実はどうにでもなるよね!という話では一切ない。
どうにもならない。あがいてもあがいても、現実は変わらない。
貧困、犯罪、売春、虐待の無限ループ。
誰がどんなに手を差しのべても、結局は何も救えないのではないだろうか。
小説を読んでいるのに現実を突きつけられている気がした。
必死に生きれば生きるほど、現実という悪魔は輪郭を太くしながら追ってきて、逃げられたと思った矢先に今度は前から現れる。
それでも、どこかで見守っていてくれる何かがいて、自分もいつか誰かの何かになれるんじゃないかと思いながら生きている。
こんな風に思う私はきっと、この小説に出てくる誰よりも恵まれてしまっているのだろう。
そんな自分に、誰かを救うことなど出来るのだろうか。
【忘れられない一行】 辻村深月『きのうの影踏み』(角川文庫刊)より
大好きな辻村深月さんのホラー短編小説集。
この小説は4ページほどで完結する話もあるような超超短編小説集で、凄まじいスピードでぞわっとさせる世界を駆け巡ることになります。
この短さが生む、置いてけぼりにされるような孤独感は、何かに驚かされるような決定的な恐怖ではなく、街灯の少ない夜道を一人で歩いている時の、世界でたった一人そこに取り残されてしまったような寂しさを孕む恐怖に似ています。
あの時、何かにジッと見られているような気持ちになりますよね。その何かを私は見つけたことはないけれど、絶対に何かが私を見ている。
今はぎりぎりこっちの世界にいることが出来ているけど、一歩間違えたらあっちの世界に行ってしまう気がする。
そんな、すぐ隣に迫っている何かを想像せざるを得なくなる小説です。
「変わって? と頭に思い浮かべた次の瞬間に、ぞっとした。違う。気づく。変わって、じゃない。かわって、は、代わって、だ。」
これは13あるエピソードの一つ、『だまだまマーク』の中の一文です。
幼稚園に通う息子が「だまだまマーク」という謎の言葉を言うようになり、母親がその理由に気づく場面。
実は私、この小説を学生時代に読んだことがあったのですが、この「だまだまマーク」という文字を見るまではそのことをすっかり忘れて読み進めていました。
「だまだまマーク」という言葉の真相を母親と共に知る瞬間に、何年経っても、何回読んでも鳥肌の海に突き落とされるということがわかりました。だまだまマーク。一生忘れない。
この小説、フィクションとノンフィクションの狭間をいったりきたりする感覚が癖になるのですが、私にもあれはなんだったのだろうという経験があります。
小学校低学年の時、弟と夜道を歩いていると、大きい満月が空に2つ並んでいました。
しばらく2人で眺めていると右側の満月がふわふわと揺れながら点滅し、パッと消えたのです。
どれだけ目を凝らしても、満月が2つあった気配なんてなくて、もう何時間もそこには1つの満月しかなかったという当たり前を押し付けられているような静寂がありました。
慌てて家に帰り父親に「UFOを見た!」と言うと、「変な子だと思われるから、その話は誰にもしてはいけないよ」と言われました。
15年ほど経った今でもたまに弟とこの話をして、お互いの記憶に相違がないことを確認しますが、もしかしたら見間違いだったかもしれない、とも思います。
不思議なことってきっと沢山あって、それに出会うか否か、気づくか否かには大きな隔たりはないのかもしれません。
我々はいつだって、『きのうの影踏み』の主人公になる可能性を秘めている。
そう思いながら生きると、夜道が今まで以上に怖く感じます。
そして、忠告を完全に無視し、意気揚々と発信してしまってごめんなさい、父。
書籍情報
『蟻の棲み家』(新潮文庫刊)
著者:望月諒子
発売日:2021年11月01日
貧困の連鎖と崩壊した家族から抜け出すために……大どんでん返しの傑作ミステリー開幕。
東京都中野区で、若い女性の遺体が相次いで発見された。二人とも射殺だった。フリーの事件記者の木部美智子は、かねてから追っていた企業恐喝事件と、この連続殺人事件の間に意外なつながりがあることに気がつく。やがて、第三の殺人を予告する脅迫状が届き、事件は大きく動き出す……。貧困の連鎖と崩壊した家族、目をそむけたくなる社会の暗部を、周到な仕掛けでえぐり出す傑作ノワール。
(あらすじ:新潮社オフィシャルHPより引用)
『きのうの影踏み』(角川文庫刊)
著者:辻村深月
発売日:2018年08月24日
作品の幅を広げ進化し続ける作家。大切な人との絆を感じる傑作短篇
あるホラー作家のもとに送られてきた手紙には、存在しない架空の歌手とラジオ番組のことが延々と綴られていたという。編集者たちの集まりによると、チェーンメールのように、何人かの作家にも届いているという。かくいう私にもその手紙は届いていた。その手紙のことを調べるうちに、文面の後ろのほう、文字が乱れて読み取れなくなっていた部分が、徐々に鮮明になってきている……。ある日、友人作家が手紙のことで相談があると言ってきた。なんと、その手紙、サイン会で手渡しされたという。誰がその人物だったかはわからない。けれど、確実に近づいてきているーー。(「手紙の主」)。その交差点はよく交通事故が起こる。かつてそこで亡くなった娘の霊が、巻き添えにしていると、事故死した娘の母親は言っているという。その娘が好きだったという「M」の字の入ったカップがいつもお供えされていた。ある雨の日、そのおばさんがふらふらと横断歩道にさしかかり……。死が母娘を分かつとも、つながろうとする見えない深い縁を繊細な筆致で描く「七つのカップ」。闇の世界の扉を一度開けてしまったらもう、戻れない。辻村深月が描く、あなたの隣にもそっとそこにある、後戻りできない恐くて、優しい世界。
【解説:朝霧カフカ】
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