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連載

心に刺さったこの一行 vol.1

宮田愛萌の「心に刺さったこの一行」――『大きな熊が来る前に、おやすみ。』『悪いものが、来ませんように』より

心に刺さったこの一行

忘れられない一行に、出会ったことはありますか?

つらいときにいつも思い出す、あの台詞。
物語の世界へ連れて行ってくれる、あの描写。
思わず自分に重ねてしまった、あの言葉。

このコーナーでは、毎回特別なゲストをお招きして「心に刺さった一行」を教えていただきます。
ゲストの紹介する「一行」はもちろん、ゲスト自身の紡ぐ言葉もまた、あなたの心を貫く「一行」になるかもしれません。

素敵な出会いをお楽しみください。

宮田愛萌の「心に刺さったこの一行」

ゲストのご紹介


photo by Koishi Kenta


宮田愛萌(みやた・まなも)
1998年4月28日生まれ、東京都出身。2023年2月、現存する日本最古の和歌集『万葉集』をモチーフにした小説集『きらきらし』(新潮社)を上梓し小説家デビュー。
2024年4月に『あやふやで、不確かな』(幻冬舎)を刊行。

【最近出会った一行】 島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』(新潮文庫刊)より


 ほの暗く、ところどころに重さのある、若い男女の恋愛を細やかに描いた三篇が収録された『大きな熊が来る前に、おやすみ。』。どの話のタイトルにも生き物の名前が入っていて、印象的だった。「クロコダイルの午睡」は羨んだり妬んだり、複雑な感情を抱きながら相手に関わっていく物語。感情や言葉の暴力性を痛ましいほどに描いている。「猫と君のとなり」は曖昧な関係のなかで少しづつ優しさの輪郭を確認するような物語だと思った。私はこの表題作である「大きな熊が来る前に、おやすみ。」のとある一文が好きで、時々その言葉を取り出して眺めている。
 主人公の珠実と徹平は、交際を始めて半年ほどの関係だ。付き合い始めてすぐに同棲をはじめた二人の生活は、穏やかだがぎこちなさを含んでいる。互いにどうしていいかわからないことに見て見ぬふりをしながら、必死に相手を大切にするやり方を探そうとしていた。そんな生活の中で徹平が珠実に暴力をふるった出来事は、二人の関係に決定的な変化をもたらす。
 私の心に刺さった「だけど先のことは分からなくて、今は言葉で、約束するしかなかった。」という一文は、徹平が珠実に対してもう暴力をふるうようなことはしないと約束したシーンの言葉だ。
 言葉で約束するしかなかった、と言葉にしてしまうと軽く感じるかもしれない。ただ言葉での約束というのは、契約のようにそこに何かを縛る物理的なものはない。これをどこまで重くとらえるかは本人にしかわからないことだと思う。それをわかっていながらも、言葉で約束することしかできないのは、ひどく切なくて、おなじくらい優しいことだと思った。
「あなたのことをいっしょうすきでいるよ」「信じてるよ」
「ぜったいまたあおうね」「約束だよ」
 これらの会話にある言葉の儚さをよく知っている。その場限りの優しい嘘も、刹那の真実も、どれも相手への思いやりで生まれた言葉たちだ。けれどもこれらの言葉たちは、約束にしないでいることを前提としている、と私は思っている。多分叶えられないけれど、もしかしたら叶えられるかもしれないとほんの少しだけ期待して、その期待を表に出すのはなんだか愚かであるように思えてしまう曖昧な言葉たち。私たちは、それを叶えるかどうかの決断を未来の自分に託して逃げてしまっているのではないだろうか。
 しかしこの珠実と徹平の約束は違う。この約束が違えられたら、この二人に未来はないのではないかと思わせる切羽詰まった約束だ。きっと珠実も、ほんとうに徹平がこの約束を守ると少しの疑いもなく信じているわけではないのだと思う。けれど、珠実にとっての相手を大切にするやり方は約束することだった。先のことがわからないから人は約束して信頼を示すのだと、私はこの物語を読んではじめて知った。
 言葉にして書かれることによって、この行動や思いが際立つような気がして、このシーンがとても好きだった。愛情を、愛という言葉を使わずにこんな風に表現するのかと、ドキドキして、いつかこんな風に書けるようになりたいと思ったのだった。

【忘れられない一行】 芦沢央『悪いものが、来ませんように』(角川文庫刊)より


 昔は互いにすべてわかりあっていると思っていたのに、気がつけばわかりあえないことが出てきた、という存在に覚えがないだろうか。成長していくにつれ、生きていく環境が変わっていけばよくあることだと思う。
 この本、『悪いものが、来ませんように』の主人公である紗英と奈津子は互いを支えとする関係であった。紗英は不妊や夫の浮気で悩みながらも助産院で働いていて、奈津子は働いたことがなく社会に上手く馴染めないことを気にしながらも、子どもを産んだ。お互いのことをいちばんわかってくれる存在だと思いながら、紗英は心の中でこっそり、奈津子は働いたことがないから仕事がどんなものかなんてわからない、と思っている。反対に奈津子は、社会とのつながりと呼べるものはカルチャースクールと変わらないような内容のボランティア活動だけであり、子どもを産んで育てることこそが女の幸せと信じていた。
 各々の思いを抱えつつ、それでも彼女たちは互いがいちばん大切だと思っていたが、紗英の夫が他殺死体として発見される事件が起こったことにより関係が変わっていく。
 私がこの本の中でいちばん心に刺さった一行は、「言われた瞬間の、内臓に直接水をかけられたような感覚までがよみがえり、奈津子は見えない力に引っ張られるように顔を持ち上げてしまう。」だ。第二章で、奈津子が紗英に言われた言葉を思い出すシーンの言葉だが、このひやりとした感覚は身に覚えがあった。
 親しくて、なんでもわかりあえていると思った人から不意に自分の信じていた正しさとは違うことを言われた時の、しかもそれが気にしていたことだった時の、あの冷たい感覚は、きっといちばん恐怖に近いのではないかと思っている。悪意なんてない、ただの言葉だからこそ、影響を受けてしまうのだと思う。奈津子にとって、紗英が子どもを作らないと言うのは、まるで自分の人生を否定されたかのような気持ちだったのではないだろうか。外で仕事をしたこともなく、子どものいない夫婦生活をしたこともない奈津子は、仕事や夫婦の時間を大切にしたいから子どもはまだいい、と言う紗英に対してどんな気持ちになれば良かったのだろう。しかし、きっと紗英も同じ気持ちなのだ。子どもが欲しいのに授からない気持ちは奈津子にはわからない。奈津子に悪気があった訳ではないから、ひどいと責めることも出来ずに、ただ身体の中をひやりとさせながら苦笑するしかない。
 タイトルである「悪いものが、来ませんように」という言葉は祈りだ。相手を心から大切に思ってでてくる切実な祈り。この「悪いもの」は何をさすのだろう。
 この物語に出てくる登場人物たちに、悪意はない。みな、自分は正しいと思って生きている。良かれと思って相手を気遣い、支え合っている。それでも、受け取る人はそこに自分で勝手に悪意を見出し、気がついたら関係性がこじれているのだ。読者である私たちはそれをただじっと見ているしかない。どうか登場人物たちが救われますようにと祈りながら。そこが切なく、どこか共感を抱かせるのだろうと思った。

書籍情報


『大きな熊が来る前に、おやすみ。』(新潮文庫刊)
著者:島本理生
発売日:2010年03月01日

きっかけは本当につまらないことだった。穏やかな暮らしを揺さぶった、彼の突然の暴力。それでも私は――。互いが抱える暗闇に惹かれあい、かすかな希望を求める二人を描く表題作。自分とは正反対の彼への憧れと、衝動的な憎しみを切り取る「クロコダイルの午睡」。戸惑いつつ始まった瑞々しい恋の物語、「猫と君のとなり」。恋愛によって知る孤独や不安、残酷さを繊細に掬い取る全三篇。
(あらすじ:新潮社オフィシャルHPより引用)



『悪いものが、来ませんように』(角川文庫刊)
著者:芦沢 央
発売日:2016年08月25日

緊迫感あふれる二人の関係から目を逸らせない。――作家 小野不由美
助産院の事務に勤めながら、紗英は自身の不妊と夫の浮気に悩んでいた。誰にも相談できない彼女の唯一の心の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も母や夫と理解し合えず、社会にもなじめず紗英を心の支えにしていた。二人の強い異常なまでの密着が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺体で見つかったのだ。これをきっかけに二人の関係は大きく変わっていく! 一気読みが止まらない、そして驚愕のラスト! 「絶対もう一度読み返したくなる!」「震えるような読後感!」と絶賛された傑作心理サスペンス!(解説:藤田香織)

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/321603000024/
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