【第2回】連載小説『ダークジョブ』新堂冬樹――若宮★闇バイト初日 2025年夏
【連載小説】新堂冬樹『ダークジョブ』

新堂冬樹さんによる小説『ダークジョブ』の連載がスタート!
1985年――東京・歌舞伎町で闇金融の世界に飛び込んだ片桐は、激しい「切り取り」に辟易しながらも、いつしかその世界に魅入られていく……。
闇金、特殊詐欺、そして闇バイトへと繋がる裏社会を、鬼才が徹底的に描く!
【第2回】新堂冬樹『ダークジョブ』
若宮★闇バイト初日 2025年夏
「警察の者です。通り魔殺人犯がここら一帯の農村に逃げ込んだとの通報が入りました。安全のため、少しお話を伺わせていただきたいのですが……警察の者です。通り魔殺人犯がここら一帯の農村に逃げ込んだとの通報が入りました。安全のため、少しお話を伺わせていただきたいのですが……」
移動の車内で、若宮は小声でセリフを繰り返した。
新宿を出発してまもなく一時間が経つが、もう五十回は繰り返していた。
田畑に囲まれた田舎道を走っていた軽自動車がスピードを落とした。
後部座席に座った若宮の鼓動は、車に乗ってからずっとアップテンポのリズムを刻んでいた。
薄く開けた窓から聞こえる虫の音が、若宮の罪悪感と不安に拍車をかけた。
「武器は?」
運転席に座っている中井が、助手席の岩田に訊ねた。
実行役の若宮と岩田は、通販で購入したコスプレ用の警察官の制服を着ていた。
本物の警察官が見たら偽物とわかるだろうが、田舎の住民……しかも老人には見分けがつかないはずだ。
黒の目出し帽は、ターゲットがドアを開けた瞬間に被るように指示されていた。
「これっす」
岩田がレンチと金槌を宙に掲げた。
中井は二十五歳で岩田は若宮と同じ二十三歳だ。
三人とも、出発地点の新宿で三時間前に会ったのが初めてだ。
「ナイフとかないんだ」
「そんなのあったら、刺しちゃうっすよ」
「たしかに。でも、抵抗されたら?」
「コングさんに、殴っていいって言われてるっすから」
二人の会話に、若宮は暗い気分になった。
コングとは、今回の闇バイトの指示役だ。
若宮はスマートフォンを取り出し、テレグラムのトーク画面を開いた。
⦅家には七十代の老夫婦しかいない。隣の家まで二百メートル以上ある。家に一千万以上貯め込んでるから吐かせろ。吐かなきゃ、すぐに殴れ⦆
(お年寄りを殴ったら、死んじゃうんじゃないですか?)
⦅いきなり頭はやめろ。金の在処を吐く前に死ぬからな⦆
(レンチや金槌で殴れば、頭じゃなくても死んじゃうんじゃないですか?)
⦅金の在処吐いたら死んでもいいから。どうせ捕まらないから気にするな⦆
(俺、運転手って話だったんですけど)
⦅予定していた二人のうちの一人が、足を怪我して動けないから運転しかできなくなった⦆
(俺は人とか殴りたくないです)
⦅殴りたくなくても殴るしかない⦆
(すみませんけど、今回のバイトはやめさせてください)
⦅無理だ。やらなきゃお前の実家に乗り込むからな⦆
若宮は小さくため息を吐いた。
闇バイトに申し込む時点でコングに要求されて、免許証、マイナンバーカード、実家の住所と家族の携帯番号を書いた書類のスクリーンショットをテレグラムで送っていた。テレグラムとはチャットや通話のできるメッセージアプリで、秘匿性が高く、一定時間が経過するとやり取りが自動的に消去される。
これらの個人情報は、金を持ち逃げしたときのための保険という理由だったので、断れずに送ってしまったのだ。
そもそも、最初は
盗品を運ぶこと自体犯罪だが、若宮が盗むわけではないので気軽に引き受けてしまった。
バイトの報酬が、東京から栃木まで荷物を運ぶだけで五十万円という破格の条件も魅力的だった。
ひとでなしの父親のせいで借金を被ってしまった母親のために、若宮は金を稼ぐ必要があった。
若宮は眼を閉じ、暗鬱な記憶の扉を開けた。
『これは翔真の将来のために貯めてるお金だけん、手ばつけんで!』
競輪場に行くために、若宮の学費として貯めていた箪笥預金を持ち出そうとした父を母が遮った。
『俺が何倍にも増やしてやるけん、おとなしく渡さんね!』
父が大声で母に詰め寄った。
当時十歳の若宮は、震えることしかできなかった。
『いつもそぎゃんことばっかり言うて、どんだけ借金ば作っとるかわかっとるね!?』
『だけんっ、大勝ちしてまとめて返してやるけん、その金ば渡せって言うとるとたい!』
父が母を押し退け、箪笥の引き出しを開けて封筒を鷲掴みにした。
『あんたは、翔真の学費までギャンブルに使うつもりね!? 父親なら、子供の将来のことば考えてお金ば貯めてあげるもんでしょう!』
母が父の腕を掴み、封筒を奪い返そうとした。
『俺あってのぬしらばい! ガキの将来の学費より、いまの俺の生活のほうが大事たい! どかんか! レースに間に合わんだろうが!』
父が母を突き飛ばした。
『母ちゃん、大丈夫!?』
若宮は尻もちをつく母に駆け寄った。
『翔真の学費ば……返して!』
母が、父の右足にしがみついた。
『離さんか、くそアマが!』
父が母の髪の毛を掴み、顔面を拳で殴りつけた。
『母ちゃん! なんばすっとね!』
若宮は恐怖心を忘れ、父に突進した。
『ガキが父ちゃんに反抗するとは、百年早かったい!』
父の蹴りが、若宮の腹に突き刺さった。
息が詰まり、嘔吐した。
床に吐き散らした嘔吐物の上に若宮は倒れ、もがき苦しんだ。
『あっ、百年後は、もう父ちゃん死んどるけん、復讐は無理ばってんね』
若宮は、薄れゆく意識の中で遠ざかる父の高笑いを聞いていた。
父はその日を最後に、家に戻ってくることはなかった。
代わりに、翌日からガラの悪い男達が家にやってきた。
男達は街金業者で、父は勝手に母を保証人にして多額の金を借りていた。
その額は利息込みで八百万円を超えていた。
母は昼間のパートに加え、夜はスナックで働き始めた。
若宮を高校まで行かせながら、母は十年かけてひとでなしの借金を代位弁済した。
長年の無理が祟ったせいか、母はリウマチを悪化させ一日の大半を寝て過ごすようになった。
若宮はコンビニエンスストアや牛丼チェーンでアルバイトを掛けもちしながら、仕事ができなくなった母の代わりに家計を支えた。
大学には進学しなかった。
若宮は迷いなく、社会人の道を選んだ。
女手一つで命を削るようにして育ててくれた母を楽にしたい。
学生という縛りがなくなった若宮は、時給の高いバイトを求めた。
キャバクラやコンカフェのボーイで、いままで以上の金を母に仕送りできるようになった。だが、母の病状が悪化して介護もできる家政婦が必要となった。
若宮が母の世話をすれば収入源が断たれるので、人を雇う必要に迫られた。
さらに金を稼ぐために、ホストになる決意をした。
幼い頃から女の子みたいにかわいい顔をしているとちやほやされ、親戚からはアイドル事務所への応募を勧められてもいた。
実際に、小学校、中学校、高校と女子からモテてきたが、若宮は家庭環境が複雑なこともあって恋人を作ったことはなかった。
高校生になってからはバイトを始めたので、なおさらだった。
若宮はビジュアルのよさと若さでホストクラブに採用されたが、女性経験のなさが災いして苦戦を強いられた。
顔がよくても女子とコミュニケーションが取れずに会話が続かないので、若宮は席に着かせてもらえずに雑用要員になってしまった。
大金を稼ぎ母に楽をさせるつもりが、キャバクラのボーイをやっていたときの給料のほうがよかった。
ホストクラブを辞めた若宮は、検索エンジンに「高収入、資格なし」と打ち込み、仕事を探した。
そんなとき、あるネット広告が目に入った。
荷物を運ぶだけで五十万円の報酬という
あのとき、もっと慎重になっていれば……もっと疑っていれば……。
母に楽な生活を送ってもらうため……ただそれだけの思いだった。
金は必要だ。
だが、人を傷つけて金品を奪ってまでほしいとは思わなかった。
なにより、押し込み強盗をした金だと母が知ったら喜ぶはずがなかった。
だからといって、若宮が断ればコングの手下が母に危害を与えてしまう。
どうすればいい……。
時間を巻き戻せるなら、闇バイトに申し込む前に戻りたかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか?
「おい、聞いてんのか?」
岩田の声で、若宮は現実に引き戻された。
「お前が先に選んでいいよ」
長髪で顔色の悪い岩田が、金槌とレンチを空に掲げていた。
闇バイトに参加する前は違法ドラッグの販売会社に勤めていたらしいが、摘発されて店がなくなり無職になったという。
本人もドラッグをやっているのか、いつも瞳が泳いでいた。
へらへらしているかと思えば急に怒り出したりする感情の起伏の激しさも、ドラッグの影響かもしれなかった。
「俺は、いいよ」
若宮は言った。
「なんで?」
岩田が
「だって、老人だろ?」
「老人でも抵抗するかもしれないじゃん」
「そんなもので殴らなくても、勝てるだろう?」
老人を殴るなど、口にするのも嫌な気分になった。
「わからねえじゃん! ジジイでも柔道とかボクシングとかやってたらどうすんだよ!? 元ヤクザでドスとか日本刀とか持ち出してきたらどうすんだよ!?」
岩田が眼を剥き、唾を飛ばしつつ声を荒らげた。
どうやら、地雷を踏んでしまったようだ。
「なあっ、どうすんだよ!? なあっ、どうすんだよ!? なあっ、どうすんだよ!? なあーっ、どうすんだ……」
「おいっ、落ち着けって! これから
坊主頭のメンバー最年長の中井が、若宮と岩田を
中井は元自衛隊員でガタイもよく、三人の中で一番荒事に向いていそうだった。
足を怪我しなければリーダー格として、若宮の代わりにターゲットの家に押し込む予定だった。
「俺ら、本当に捕まらないって保証はありますか?」
若宮は思い切って中井に訊ねた。
強盗が成功しても、逮捕されてしまえば母に仕送りができなくなってしまう。
なにより、息子が犯罪者になったことでショックを受けるだろう。
「相手は年寄りだし、こんなド田舎じゃ目撃者もいないし、お前らが下手を打たないかぎり捕まるわけないだろ?」
中井が呑気な口調で言った。
「ですよね……」
若宮は薄闇の窓の外……どこまでも広がる田畑の海に視線を移した。
人はもちろん、犬猫の姿も見当たらない。
中井の言う通りだ。
もし追いかけられたとしても、老人二人なら振り切ることはできる。
車もコングが用意した金融流れの盗難車なので、足がつく心配はない。
ただし……。
「コングさんは、信用できると思いますか?」
若宮は心に
「なんだよ? いきなり」
中井が怪訝な声で言い、岩田が舌打ちした。
「老人二人しかいないとか、盗難車だから足がつかないとか、全部コングさんの言ってることですよね?」
「コングさんは
「嘘じゃなくても、情報通りじゃない可能性はありますよね? たとえば、いつもは老夫婦の二人暮らしだけど、たまたま子供が遊びにきてるとか?」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえよ! やるしかねえんだよ! 子供がいたら殴りゃいいんだよ!」
岩田が興奮した口調で割って入ってきた。
こんな情緒不安定な男とタッグを組むことが、若宮の一番の不安の種だった。
「すぐに興奮しないで落ち着けって! お前もさ、腹括れよ。俺らは後戻りできないんだから前に進むしかないんだ。中途半端な気持ちだと、下手を打つぞ」
中井が岩田を一喝した返す刀で、若宮に苦言を呈した。
「すみません」
若宮はとりあえず詫びた。
これ以上、空気を悪くしたくなかったからだ。
チームワークが悪ければ、失敗する可能性が高くなる。
「頼んだぞ。一人が下手打ったら、みんな捕まってしまうんだからよ。さあ、到着だ」
中井は言うと、車を停めた。
二、三十メートル先に見える平屋建てが、ターゲットの家に違いなかった。
急に、若宮の心臓が早鐘を打ち始めた。
「コングさんに、到着の報告するから」
中井がスマートフォンを操作しながら言った。
テレグラムでメッセージを送っているのだろう。
一分ほどして、中井のスマートフォンが震えた。
「お疲れ様です。はい、はい、はい……準備はできてます。あ、はい、代わります。コングさんだ」
中井が岩田にスマートフォンを渡した。
「お疲れっす! はいっ、大丈夫っす! 余裕でぶん殴れますよ! 俺、年寄りは嫌いなんすよ!
臭いし汚いし! はい! 任せてください!」
岩田の受け答えを聞いているだけで、若宮の鼓動の高鳴りに拍車がかかった。
「おい」
岩田が差し出すスマートフォンを若宮は受け取った。
「お疲れ様です」
『緊張してるか?』
受話口から、聞き覚えのある陰気な濁声が流れてきた。
コングとは、闇バイトを申し込んだときに、折り返し非通知で電話がかかってきて一度だけ話したことがあった。
「少しだけ」
『ターゲットは七十代の夫婦だ。殴れるか?』
「必要があれば……」
若宮は歯切れ悪く答えた。
『必要がなくても殴るんだよ』
コングが押し殺した声で言った。
「年寄りを凶器で殴ったら死んじゃうんじゃないですか?」
勇気を出して、若宮は言った。
『お前、まだそんなこと言ってんのか? 死んだほうが都合がいい。死人は喋れないからな』
コングが笑いながら言った。
「え……それじゃあ、殺人犯になっちゃいますよ!」
若宮は思わず大声を出した。
『なってもいいだろ? お前ら初対面でつながりもないし、
コングが罪悪感のかけらもなく言った。
「でも……」
『いいか? ジジイババアに同情して失敗したら、お前の母親が代わりに死ぬことになるのを忘れるな』
コングの恫喝に、若宮の全身の血液が凍てついた。
『五分以内が勝負だ。一分過ぎるたびに成功率が下がる。母親を助けたかったら、他人に同情は禁物だ。中井に電話を代われ』
若宮は強張った顔で、中井にスマートフォンを戻した。
「お前、足引っ張んなよっ」
岩田が血走った眼で若宮を睨めつけた。
若宮は笑う膝を両手で押さえた。
眼を閉じた。
引き返す道を断たれた以上、前に進むしかなかった。
眼を開けた。
若宮の眼前には、変わらず闇が広がっていた。
☆
ターゲットの平屋建ての玄関の前に到着した。
築五十年以上は経っていそうな老朽化した木造住宅で、一千万以上の箪笥預金があるような家には見えなかった。
「いいか? 押すぞ」
平屋建ての玄関の前で、岩田が言った。
防犯カメラどころか、インターホンのモニターカメラもないという情報はコングから事前に知らされていた。
若宮は緊張した面持ちで頷くと、岩田がチャイムを鳴らした。
反応がなかった。
まだ午後七時なので、寝ているとは考えづらかった。
岩田がドアに耳を当てた。
「テレビの音がするから、留守じゃねえな。ボケて耳が遠くなってんだろ」
岩田が毒づき、ふたたびインターホンのチャイムを鳴らした。
また、反応がなかった。
「くたばってんじゃねえのか」
吐き捨てながら岩田が三度目のチャイムを鳴らそうとしたときに、いきなり解錠の音がした。
目出し帽を被る間もなく、ドアが開いた。
「あれ、お巡りさんでないかい」
目の前に小柄な老婆が現れた。
想定外の流れに若宮の頭は真っ白になった。
岩田が若宮を肘で小突いた。
「け……警察……」
若宮の声は裏返り、言葉が続かなかった。
「なんだね?」
老婆が若宮を促してきた。
「あのですね……強盗が……いや……」
通り魔殺人犯を強盗と言い間違えてしまい、動揺に拍車がかかった。
「強盗がどうしたね?」
怪訝な顔で、老婆が訊ねてきた。
「使えねえ野郎だっ」
岩田が吐き捨て、靴脱ぎ場に踏み込むと老婆を羽交い締めにした。
「な、なにをするんだね……」
「金はどこだ!?」
老婆を廊下の奥に引き摺りながら、岩田が訊ねた。
「なにをするんだい……や、やめてちょうだい……」
老婆が引き摺られながら、恐怖に強張った顔で言った。
「ぶっ殺すぞこら! 金はどこだ!?」
岩田が老婆の耳元で叫んだ。
「なんだ、騒がしい……」
部屋から出てきた老爺が、言葉の続きを呑み込んだ。
「そこに跪け! 言うこと聞かねえとババアをぶっ殺すぞ!」
岩田が老婆を羽交い締めにしたまま、レンチを振り上げた。
「わ、わかったから、婆さんにひどいことをしないでくれ……」
老爺が跪きながら懇願した。
「なにボーッとしてる! 手錠だ!」
岩田の怒声に若宮は、弾かれたように老爺のもとに駆け寄った。
「すみません……」
若宮は小声で言いながら、制服とともに購入したイミテーションの手錠を後ろ手にした老爺の手首にかけた。
イミテーションといってもステンレス製なので、老人の力では壊すことは不可能だ。
「おいっ、ジジイっ、金はどこだ!?」
「ちゃ、茶の間の箪笥の一番下の引き出しに入ってる……」
「ババアも拘束して見張ってろ!」
岩田が若宮に命じ、茶の間に駆け込んだ。
「少しの間、我慢してください」
若宮は言いながら、老爺と同じように後ろ手に老婆に手錠をかけた。
「お金は持って行ってもいいから、婆さんに怪我をさせないでくれんか……」
悲痛な顔で懇願してくる老爺の夫婦愛に、若宮の胸は締めつけられた。
「大丈夫です。お金さえ貰えば、すぐに出て行きますから」
若宮は老爺を安心させるように言った。
「あなたたちは、お巡りさんじゃなかったのかい?」
老婆の哀しげな瞳が、若宮の胸をさらに抉った。
「すみません……」
若宮は詫びることしかできなかった。
「こんなことをしていたら、だめだよ。まっとうに生きなきゃ……」
相変わらず哀しげな瞳の老婆が、諭すように言った。
「おいっ、ジジイっ、百万しか入ってねえぞ!?」
茶の間から封筒を手に戻ってきた岩田が、物凄い形相で老爺に詰め寄った。
「それがうちの全財産じゃよ……」
「ふざけんじゃねえっ! この家には一千万以上あるって、わかってんだよ!」
岩田が老人の前に屈み、胸倉を掴んで前後に揺すった。
「去年までは……あったさ。東京でレストランをやってる息子から経営が苦しいから助けてほしいと連絡があって……それで一千万を送ってあげたんじゃ……」
老爺が苦しげな声で言った。
「はぁ!? 息子に一千万を送っただぁ!? てめえっ、嘘吐いてんじゃねえぞ! 本当のこと言えや!」
岩田がレンチを老爺の右肘に叩きつけた。
「うぉっぐぁ!」
「じいさん!」
老爺と老婆の叫び声が交錯し、骨の砕ける音が若宮のほうにまで聞こえてきた。
「おいっ、やめろよ! 死ぬぞ!」
「てめえは黙ってろこら! 本当のこと言わねえとぶち殺すぞ! ジジイっ、一千万はどこにあるんだ!」
岩田が若宮を一喝し、裏返った声で老爺を問い詰めた。
「ほ、本当に……それだけしか……」
「まだ言うか! うらっ、うらっ、うらあーっ!」
岩田が老爺の右腕、右肩、背中をレンチで殴り続けた。
「じいさーん!」
「おおぅ……あああ……」
老爺が倒れ、激痛に身悶えた。
右腕は肘関節が折れているのだろう、おかしな曲がり方をしていた。
「おいこらババアっ、金はどこだ! まだ一千万あるだろうが! 正直に言わねえと、ジジイを殴るからな!」
岩田が喚き散らした。
「本当に一千万があるなら、言ってるだろ! 息子さんに仕送りしたんだよ!」
若宮は必死に岩田に訴えた。
「てめえは黙ってろって言ってんだろ! 百万じゃ俺らが殺されちまうよ!」
岩田は半狂乱になっていた。
岩田はコングを恐れていた。
コングはこの老夫婦宅に、一千万円以上の箪笥預金があると思っている。
じっさい、去年まではあったのだ。
百万円しかなかったです、などと報告すれば残りをくすねたと思われる可能性が高い。
「ババアっ、一千万はどこだ!?」
「信じておくれ……それだけしか……」
「うらぁ! うらぁ! うらぁ!」
老婆の言葉を遮るように、岩田が老爺の顔面にレンチを振り下ろした。
なにかが飛んできて、若宮の腕に当たった。
足元に落ちていたのは、破損した老爺の入れ歯だった。
老爺の顔の中心部はすり鉢のように陥没し、血塗れになっていた。
死んでしまったのか……殺人犯になってしまったのか……。
若宮の全身から血の気が引いた。
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……」
老婆は正気を失い、手を擦り合わせお経を唱え始めた。
「おいっ、ババアっ、お経なんか唱えてもジジイは生き返らねえよ!」
岩田もまた、完全に正気を失っていた。
このままでは、老婆の命も危ない。
わかっていたが、恐怖に若宮の足は竦んで動けなかった。
「残りの金はどこだーっ!?」
岩田が血に塗れたレンチを振り上げ、老婆に歩み寄りながら叫んだ。
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……」
老婆は一心不乱にお経を唱えていた。
「薄気味悪いから、それやめろやー!」
岩田が裏返った声で叫んだ。
「お、お婆さん、やめたほうが……」
若宮は老婆の耳元で囁いた。
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……」
老婆には若宮の思いは届かず、お経を唱え続けていた。
「金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだっ、金はどこだーっ!」
岩田がフルスイングで老婆の横っ面をレンチで殴った。
老婆のお経が途切れ、仰向けに倒れた。
「ひぃやほぉうふぁぁぁぁぁーっ!」
岩田が老婆に馬乗りになり、レンチで顔面を滅多打ちにした。
一発、二発、三発、四発、五発……。
老婆の頬骨が裂けた皮膚から露出し、眼球が眼窩から零れ出した。
若宮の顔面を生温かい返り血が濡らした。
込み上げる胃液――若宮は慌てて口を押さえた。
「おい……ババアっ、おい! ババアっ……」
憑き物が落ちたように不意に我に返った岩田が、老婆の体を揺すった。
「やべえ……死んじゃったみたい」
ふらふらと立ち上がった岩田が、放心状態で呟いた。
若宮は口を掌で押さえながら、変わり果てた老夫婦を涙目でみつめた。
「おい、ボーッと突っ立ってねえで、逃げるぞっ。
岩田はなにごともなかったように若宮の肩を叩き、茶の間をあとにした。
ごめんなさい……ごめんなさい……。
若宮は心で老夫婦に詫び、嘔吐感に抗いながら岩田の後に続いた。
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連載小説『ダークジョブ』は毎月末日の正午に配信予定です。更新をお楽しみに!
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