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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.37

【連載小説】信頼できる日本人―ジャポネス・ガランチード―だった女性を探す一家。家族と絶縁中の兄の企みは? 真藤順丈「ビヘイビア」#10-2

真藤順丈「ビヘイビア」

※本記事は連載小説です。
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 本人によれば、ダンスにはバレエから入ったという。交換船で戻った駐在員から入手したフィルムを研究しつくしたという彼女は、そもそもの踊り手としての技量にとどまらず、写真的な記憶能力、世界舞踊史の体系的な理解、仮装や化粧にとことん淫するちゃめっ気をかねそなえて、雛形テンプレートを超えるオリジナリティを発揮した。日本風に表現するなら、彼女のインパクトはそれこそクロフネなみだった。
 風祭喜久子がどうしてサンバ・カルナヴァルに執心していたのか、リオ・デ・ジャネイロではなくなぜリベルダージに現われたのか、もとから本場の熱や技を自国に輸入するつもりだったのか? それらはいずれもさだかではない。間違いなく言えるのは、彼女が〈勝ち組〉と〈負け組〉の対立構図もちゃんと理解したうえで、政治色を帯びた主張に走らず、双方に花を持たせるようにして祝祭の本来的な素晴らしさを、わいわいと心躍る運動会や林間学校のような、子ども時代の延長線にあるカルナヴァルの幸福な一体感を体現していたことだった。
 両親との死別をふっきるために、各地を転々としながらサンバの稽古に明け暮れてきたアナ祖母ちゃんは「あのひとは本物だ」とたった一度の大会で見抜いていた。そしてその瞬間からじつに数年にわたって、オリヴェイラ家の歴史にもリベルダージの郷土史にも語られる、踊り手パシスタの頂点の座をめぐる伝説の激戦がくりひろげられたのだ。
 踊りそのものが雄弁だったし、勝者へのインタビューでいくつかの啓発的な言葉も残している。「ああ、楽しい! 戦争で勝とうが負けようがどっちでもいい。ブラジルにいる日系人のよろこびや希望は、ここで一体となっているみなさんのなかにこそある!」
 数年間のカルナヴァルを通じて、アナ・ハナエ・オリヴェイラとの勝敗は五分で、来期はどちらがトップに立つのかという興味が先行して、〈勝ち組〉ですら太平洋戦争の実際の結果にほとんど拘泥しなくなっていった。わかっている、本当はわかっている、日本は負けた──だがそれでも、敗戦をかこってもわれらがは、これほどまでに優れた人材を送りこんできたではないか。そこには国交回復の象徴という本来の役割をはるかにしのぐ意味があった。遠い異国の文化をここまで研究しつくして、本場のトップ・ダンサーとわたりあえるまでに鍛錬を積んでこられるのだから、祖国の人心もすさみきっていない。日本はいまでも世界と伍せる、世界の注目を集められる豊かな国だ。その未来にはきっと希望があふれている。
「で、彼女こそは信頼できる日本人ジヤポネス・ガランチードだと、そうなるわけですね」
 そこまで聞いたところで、ガフが口を開いた。
 ベアトリスは一息に語りきって、深々とうなずいた。
 ウンベルト祖父ちゃんは張りきりすぎて疲れたのか、居眠りをはじめていた。
「国粋主義の観点からも、風祭喜久子はエポック・メイキングだったんだな」
 城之内にも〈勝ち組〉〈負け組〉の双方からの信を託され、リベルダージの繁栄にも結びつけて語られるという風祭喜久子の真価がすこしだけわかったような気がした。
 戦後のブラジル日本人街の、その起点に立っているひとなのだ。銃後の人たちが避けて通れなかった混乱に終止符を打ち、復興への背中を押してくれたひと。そんな彼女に恩返しができるなら、とオリヴェイラ家は地球を半周して日本へ渡ってきたのだ。
「燃やさんで、祖母さんの紅茶の畑、燃やさんでくれ……」
 祖父ちゃんが寝言を漏らした。夢のなかで記憶が激しく混濁しているらしかった。
 あまりにも遠い時代の、戦争の残響が──城之内のもとにまで届いてくるようだった。
「キクコさんの踊りは見てないけど」とガフが言った。「たぶんわかると思います。凄いのはわかると思います。ぼくたちはカレンの踊りを見たから」
「あら、一世代飛ばしちゃったよ!」とベアトリスが自嘲ぎみに笑った。「わたしは残念ながらそれほどのものじゃなかったけど、たしかにカレンは、最盛期のアナ祖母ちゃんもしのぐ一族の最高傑作と評されている。だけどアッシュは……」
「お兄さんが、〈勝ち組〉の亡霊にかれているというのは」
「あの子がもっとまともなら、今日までの苦労はなかったんだけど」
 ベアトリスは溜息をついて、遠い眼差しを窓の外に投げた。

 カレン・オリヴェイラが踊っている。
 運動の速度がめざましすぎて下半身が消える。
 旋回する腰。しなやかにたゆたう両手。両脚の動きは速すぎて、ふたすじのせんの渦がその体を支えているかのように見える。タ・タ・タ・タ・タ・タンとたえまなくノペを刻みながら、緩急自在に体を揺り動かしている。
 城之内には音楽は聞こえない。カレンはiPodにつないだイヤホンで音を聴いている。だから練習場クアドラに音楽は響いていない。鏡張りのレッスン場で、無音のなかで彼女がノペを踏み、指や手で空気を切る音だけが高まって加速していく。そのさまはあまりにストイックで、他者を寄せつけず、どこかしら怖いほどだった。

 若きサンバの王女を送りとどけたその足で、城之内たちは六本木のホテルに滞在しているというアシュレイ・ケン・オリヴェイラを訪ねた。
「お兄さんはなにか隠しているよ、ひょっとしたらカレンも」
 と、ガフが言うからだった。たしかにずっと疎遠だったアッシュが、たまたま一家が滞在している日本に仕事で来ていたというのは出来すぎだったが、それにしてもカレンもなのか? 家族のだれよりも風祭喜久子を見つけたがっていそうなのに。依頼人には秘密がつきものということなのか。
「もしかしたら、兄貴が来日してるのを知ってたとか?」と運転しながら城之内は水を向けてみた。
「それはどうですかね、知ってたならあんなに動揺しますか」
「だったら隠しごとってなんだよ」
「すぐにそれがわかったら、探偵はいりません」
 アッシュが滞在しているのは、豪勢なスイート・ルームだった。こんな部屋があるということは知っていたが、入ったことはなかった。大理石の床、磨きあげられた家具、暖炉、バー、ビリヤードやクラップスのテーブル。アッシュはこれ見よがしなバスローブをまとい、ラップスターの首もけいれんしそうなぶっとい金のチェーンをぶらさげて、室内にもかかわらずミラー・サングラスをかけていた。なんなんだこいつは? バスローブに光り物なんてどこのセレブ像だと城之内は思わずにいられなかった。
「あのおばちゃんチアども、会うたびおれをボッコボコにしやがる。鶏肉にたかる虫みたいに!」
 城之内たちの訪問をアッシュは拒まなかった。ただしコンディションが良好とは言えそうにない。メトロノームのように首を振りながら、自分にしか見えない抽象画を眺めているような奇妙な顔つきをしている。ゾンビのような足取りでたびたびトイレに立って、汗だくで息を荒くして戻ってくる。なんなんだこいつは、妹のカレンは旅先でもストイックに稽古に励んでいるというのに、兄のほうは昼間から鼻の粘膜をただれさせて薬物摂取か?
「頭がおかしくなってるんだ」アッシュはペーパータオルで洟をかみながら、中古の脱水機で絞りだしたような声で言った。「ずっと調子が悪い。ぼろぼろなんだよくそったれ、信頼できる相手は一人もいねえ、こっちのエージェントも業界人もみんなクソだ。それなのに身内すら優しい言葉のひとつもかけてくれやしねえ」
 誘拐未遂の現場にもいたラテンやヒスパニック系の男たちはボディガードか、アッシュのやつまた始めやがったよ、とばかりに肩をすくめている。だいたい日中はこんな調子らしい。モデルの仕事に行かなくていいのか、それとも仕事らしい仕事もないのか。アッシュはひげっておらず、街頭広告ビルボードではきれいなシツクスパックに割れていた腹筋も、いまでは座り心地のまあまあの硬いベンチぐらいになっているようだった。
「無理ないでしょ、妹をあんなふうにさらおうとしちゃったら」ガフが苦笑まじりに言った。
「あのビッチはどうせ、おれからの電話に出やがらねえ」アッシュはいまいましげに答える。
「だからって、誘拐はないですよ」
「うるせえよ、説教しにきたのか? おれは疲れてるんだよ、クソどもの相手をするのはうんざりだ。最近じゃベッドから出る気もしねえ、クラブからも足が遠のいている」
「だったらサンバで汗を流したらどうですか。妹さんが近くの練習場クアドラにいますけど」
「なあ、おい」アッシュがサングラスを外さずににらんできた。「お前ってなにじんだよ、アジア風情がおれを舐めてるのか? あのくされビッチと腰をぶつけあうぐらいなら、浮浪者のゲイにカマ掘られてるほうがマシだ」
「地元のリベルダージでも、仲の悪さは有名だったそうですね。それなのに無理やりさらおうとした意味がわかりません」
 アシュレイとカレンは、ちいさなころは仲の良いきようだいだったのよ──母のベアトリスがそう言っていた。サンバの名家オリヴェイラ家に生まれ、競いあいながら練習に打ちこんでいたという。幼稚園に通いだしたころからアッシュは女たらしで、お遊戯でみんなで踊っているときでも女の子にせっせと股間を当てにいっていた。
 アッシュがとにかく女の子を口説くのに夢中になって、親の目が届いていないところでつるつるの性器をさわりあっていたとしても、とりたてて問題はなかった。親戚たちはみんな、アッシュがちいさなカサノヴァの素質を見せはじめたことを歓迎していた。異性を誘惑することでしか増量されないフェロモンは、サンバにおいても大きな武器になってくれるからだ。アッシュは同い年の園児だけじゃなく、玄関ポーチから道行く全世代の女たちに声をかけた。どこに行くの美人さん、よかったらぼくちんの子守りをさせてあげるけど!
 カレンはそんな兄にも増して、お目々はきらきらと愛らしく、ほおはふっくらして、輝かしいまでにかわいい子どもだったが、モテることそのものを恥じるような傾向があったという。それこそ兄が反面教師になったのか、男の子との接し方もウブで、盛り上がってもせいぜいバスで隣の席に座るか、大通りから見えない路地を並んで歩くぐらいで、アトピー性の皮膚炎が治るまではどんな男の子にも指一本ふれさせなかった。
 両極端といえる兄と妹だったが、どちらもサンバにだけは情熱を注いでいた。オリヴェイラの家に生まれるというのはそういうことだった。国民舞踊のサラブレッドとして他の習いごとの必要はなかった。伝統を抜きにしても、二人とも踊り手でいることを楽しんでいた。おたがいをパートナーとし、好敵手として、しょっちゅうけんもして地面に投げ飛ばしあった。練習後には、お兄ちゃんの髪が臭い! お前のほうが臭いぞ、とおそろいの癖っ毛に鼻をうずめて頭皮の臭いを嗅ぎあっていた。このころが兄と妹の関係においては黄金時代で、後年になってリベルダージ名物の兄妹喧嘩──おたがいに公的な場でディスりあい、恥のかかせあいや罵倒合戦をめず、ごうかん未遂のきっかけまで作った骨肉の争い──その予兆といえそうなものはどこにもなかったのよ、とベアトリスは戻らない過去にその胸を焦がしていた。
「おい、聞いてんのか」アッシュが言った。「うるさいばばあチアどもが守りを固めてるし、迎えをやって車の扉を開けてやったところでどうせ乗りやしない。あいつが地元のカルナヴァルに見切りつけてんのは知ってるか? あいつはオリヴェイラの籠の鳥をやめたがってんだよ。だから日本こつちのエージェントを紹介してやろうと思ってな」
「えー、それが誘拐の理由なんですか」
「悪いか、おれたちはそういう兄妹なんだよ。外国人のモデルやタレントに強いエージェントがいて、動画を視聴してあいつにれこんだ。先方にもかならず連れていくって約束してたんだよ」
 芸能界に顔を通してやろうとしたってことか? いかにも取り繕ったような言い分だった。ガフもいぶかしんでいる。アッシュが適当な言い逃れをしようとしていると疑っているようだ。
「こっちはトラブルを抱えてる。朝起きられないし、食欲も抑えられないし、酒もドラッグも定量オーバーだ。そんな兄の危機も助けられて、妹の夢もかなえられて、これ以上ないぐらいの良い話なんだよ」
「わかりました。それは妹さんと相談してもらえれば」ガフはそう言うと話題を替えた。

▶#10-3へつづく
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