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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.33

【連載第33回】東田直樹の絆創膏日記「失敗談は誰のもの」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第32回】東田直樹の絆創膏日記「父の日、ありがとう」

 サッカーワールドカップの日本代表が2対1でコロンビアに勝った。
 歴史的な勝利に日本中が歓喜に包まれた。全力でプレーする選手たちに僕も感動した。どちらが勝つのか最後までわからない試合だったと思う。
 どこかのテレビ番組で、この状況に対する世間の評価を、「手の平返し」という言葉で表現していた。初戦に勝ったことで、日本チームの人気が急上昇したようである。
「手の平返し」という表現は、おもしろい。
 手の平は、すぐにひっくり返すことが出来るうえ、ひっくり返したことを自分であまり意識もしない。でも、何かを受け止める時には、手の平を上に向けなければならない。手の甲と手の平では、役割がまるで違うのだ。
 僕は、サッカーのルールはわからないが、アナウンサーが大きなかすれ声で「ゴール」と叫んだり、家族が「やった!」と歓声を上げたり、テレビの中と外で、みんなが大騒ぎする様子を見るのが楽しい。喜んでいる人たちの様子を眺めながら、僕の気持ちも高揚していく。
 人の感情は、伝染していくものではないだろうか。
 煽られてつい買ってしまったり、真似をしてみたいと思ったり、人は結構流されやすい。
 大きなうねりは、人の気持ちを後押しする。その波をつかまえたいのだ。ビッグウェーブに乗れば、自分も最高の興奮を味わえるに違いない。

 人が動物の着ぐるみを着ることがある。顔は人間で、二本足で立ち、言葉を話すにもかかわらず、その動物になりきろうとしている姿は滑稽にも見える。だけど、次第に着ぐるみの人に違和感がなくなって来るのだ。
 僕もウサギの着ぐるみを着た人を見て、最初は「こんな大きなウサギなんていない」と笑っていても、だんだんと愛着がわき、側に近づきたくなる。人参をあげ、頭をなでてあげたいと本気で思うのである。本物のウサギと一緒にいるような気分になるからかもしれない。本物のウサギにしてあげたいことを、着ぐるみのウサギにしてあげたくなるのだ。着ぐるみのウサギであれば、ウサギが好きな僕の気持ちを全て受け止めてくれるだろう。
 でも、実際は着ぐるみのウサギは、ウサギではない。いくら着ぐるみのウサギが喜んでくれても、本物のウサギは、僕が近づくだけで逃げ出すだろう。
 人間はウサギではないから、警戒されるのが当たり前なのだ。押しつけがましい関わりは、動物にとって迷惑なだけである。
 着ぐるみを着ている人は、動物になりきっている間、動物の味方に違いない。人間だけれど、今はウサギ、今はクマ、今はライオンなのである。
 人間は、すぐにその気になる。
 動物になりきる、動物になった人に愛情を感じる。
 着ぐるみを着ている人も、周りで見ている人も、ある意味、大真面目なのだ。
 動物への恐れと畏敬の念を抱きながら、そんな気持ちを心の隅にしまい込み、友達のふりをする人間を、動物たちは、さぞかし笑っていることだろう。

 今日も雨。雨を見ていると、だんだん寂しい気持ちになって来る。
 どこかで誰かが泣いているような、落ち込んでいるような、そんな感じ。
 降り続く雨は、まだ止みそうにない。なんて悲しげな空の色。
 シトシト シトシト ポタポタ ポタポタ、雨の音は滴の音。
 雨音の隙間を埋めるように、僕を呼ぶ君の声が耳の奥に響く。
 ここにいるよ、ここにいるよ、ここにいるよ、僕は答える。
 濡れた町をじっと見つめ、君に思いをはせる。
 君は泣いているのだろうか。
 自分の気が晴れるまで、ただ泣けばいい。涙の滴をポロポロと、ただ流し続ければいい。雨に隠れながら、雨の後ろで。
 雨の日は、どうしてこうも心が弱くなるのだろう。
 今日だけは泣いてもいい、そう空に許しを請う。
 明日は晴れるに違いない、そう思うことで今日を乗り切る。
 雨の音に耳を傾ける。ポトポト音が聞こえたら、それは君の涙の音。
 聞こえないふりをして、僕は君を見守ろう。
 天を仰ぎ見ながら、黙って祈りを捧げる。
 雨の音は滴の音、滴の音は涙の音。
 明日になれば、すべて解決する。それは夢物語かもしれないが、雨上がりの風景は、君の心に変化をもたらす。
 やがて雨も涙も流れ去り、君は新しく生まれ変われるはず。

 人の失敗は、なんやかやと気になるものだ。でも、失敗とは自分が経験しない限り、いくらたくさんの失敗談を聞いても、役に立たないものなのかもしれない。
 自分の失敗には、もっともな理由を言い訳にしていたにもかかわらず、自分と同じ失敗をした人の話を聞いた時には、どうしてそんなことになったのか、不思議に感じることさえある。
「大変だったね」「かわいそう」と同情することは出来る。けれど、そこに自分はいなかったのだ。見たり、聞いたりしていたわけではない。
人の失敗は、どこか他人事なのだ。相手から、どんなに詳しく説明してもらっても、それほど実感はわかない。
 誰かの失敗談を自分に置き換えようとしても、所詮無理な話だ。人の想像力には限界があるからだろう。
 失敗談を話してくれた人には、大抵の人が「大丈夫だよ」と声をかける。何が大丈夫なのか漠然としていても、「そうだね」と相手も答える。きっと、その人は、話すことで気持ちを切り替えたり、どこがいけなかったのかを、もう一度考えたり出来たのではないだろうか。
 失敗談というのは、結局のところ、失敗した人のためにあるのだ。
 失敗を笑い話に出来る人もいる。そのとたん、苦しかったであろう失敗が、楽しかったかのような思い出話にすり替わる。
 起きた事実は変えられなくても、その人の失敗談は、いつの間にか人を笑顔にさせる新たな成功談に置き換えられたのだ。


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