商社マンの竹脇正一は子会社で役員まで務めたあと、六五歳で定年を迎えた。これから悠々自適の生活が始まるはずだったが、送別会から帰宅途中、地下鉄で倒れてしまう。意識不明のままベッドに横たわる竹脇の周りには、家族や看護師、旧友や幼なじみが集まってくる。彼らの目には竹脇はただ昏々と眠っているように見えた。しかし、彼の意識は肉体を離れ、行動できる自由を得ていた。マダム・ネージュと名乗る自分よりも高齢の美しい女性に誘われ、高層ビルのレストランで贅沢な食事を取り、妻と同年配の女性と静かな入江の砂浜で夏の日射しを浴びる。隣のベッドで先に逝った男性の身の上話を聞き、彼が会いたがっていた初恋の女性に出会う、といったように。
人間は死にあたって、これまでの人生が走馬灯のように見えるという。意識が戻るかどうか、医師が言葉をにごす状態にある竹脇は、死まであと一歩かもしれない。しかし、決して死を受け入れようとしているわけではない。自分の人生に納得できない理由があるからである。では、その理由とは何なのだろうか。
こ の物語には大きく分けて二種類の視点がある。一つは竹脇の周囲の人々。彼らは外側から竹脇という男を見てきた。同期入社で本社社長にまでのぼりつめた堀田は、すっかり疎遠になっていた竹脇をこう評している。「運のない男だった。生い立ちは不遇で、聞くも語るもつらいほどの話であったから、なるべく話題に上らぬよう気を遣った」。家庭では幼な子を事故で亡くし、仕事でもトラブルに見舞われた。また、ともに親がなく同じ孤児院で育った永山は「おまえの人生はまだ釣り合っちゃいない」と竹脇に語りかける。
もう一つの視点は竹脇自身だ。そして、竹脇自身は自分は幸運に恵まれたと考えていた。戦後六年後に生まれた自分たちの世代は、戦後すぐの飢えを知らず、高度経済成長の追い風で誰もが上をめざせた。しかし、竹脇のその認識は、建前ではないが、混じり気なしの本音でもなかった。それが先述の、自分の人生に納得できない理由である。いや、竹脇本人も意識はしていなかった。心に蓋をし、忘れたふりをしただけだ。その蓋を開けるのがこの物語の軸の一つになっている。
長く生きていれば、ことの大小はさておき、誰にだって口にできない、したくないできごとの一つや二つはある。『おもかげ』は一人の生真面目に生きてきた男性が、人生の後半に至って、意識の奥底にしまっていたしこりのような思いを、少しずつ解きほぐしていく物語なのである。
作者の浅田次郎は主人公の竹脇と同年生まれ。人生の時と「再会」する竹脇が目にする高度経済成長期の光景は、おそらく作者にとっても印象深いものなのだろう。とりわけ初期の代表作『地下鉄に乗って』でも描かれた地下鉄がここでも時空を超越する舞台として見事な効果を上げている。
たとえば、ある日地下鉄で初老の男性とすれ違ったとしよう。その人の記憶の奥底へ下り、人生を垣間見られたら、そこには何があるだろうか。竹脇正一は私たちのすぐそばにいる「誰か」なのかもしれない。
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『霧笛荘夜話 新装版』
浅田次郎
(角川文庫)
浅田作品はストーリーテリングの絶妙さもさることながら、人生の機微をさらりと描く点に大きな魅力がある。この作品は、港町の安アパートに流れ着いた6人が、ここで出会ったことで微妙に人生を変化させていく。愛すべき登場人物たちが一瞬だけ放つ輝きが美しい。
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