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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.5

【連載第5回】東田直樹の絆創膏日記「謝ることと、許すこと」

東田直樹の絆創膏日記

『自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>第4回 何目線?

 1等前後賞合わせて10億円が当たる年末ジャンボ宝くじが発売された。よく当たる売り場では、長い行列が出来たらしい。
 我が家では、あまり宝くじを買わないので、当選したかどうかのドキドキ感を味わうことは出来ないが、当たった人が、どんなに大喜びしたかと思うと、想像するだけで自分もわくわくする。
 もし、宝くじが当たったら何に使うのか。インタビューを聞いていると、家が欲しい人から高級チョコレートをお腹いっぱい食べたい人まで、人それぞれだった。
 僕ならどうするだろうと考えてみたが、金額が大き過ぎて、逆に思いつかない。
 お金が人生の全てではないが、お金で解決できることがたくさんあるのも事実だと思う。お金は、夢を達成するための手段のひとつなのかもしれない。一か八かの勝負という言葉があるが、宝くじを買う時の心境は、そんな感じがする。
 チャンスがあれば挑戦したいという気持ちは、人間誰しも持っているに違いない。
 いくら当たるかや何人当選するかの数字は、年々大きくなっているような気がするが、当選できなかった人たちの実態は、あまり公にはされていない。これは、オリンピックで金メダルを取った人だけが注目される様子に、似てはいないだろうか。
 華々しい栄光の裏には、多くの人の涙が隠されている。

 僕は、人の顔が覚えられない。小学生の頃は、毎日会っているクラスメイトでさえ、誰が誰だかよくわからなかったので、その子が誰かを知るには、洋服についている名札が頼りだった。
 体型に特徴があったり、眼鏡をかけたりしている子は、比較的わかる。それでも、教室以外の場所で会うと、誰だかわからなかった。
 家族は見間違えることはない。けれど、それは長年一緒にいるからというより、声で区別できているのだと思う。声は、重要な情報源である。
 視線がそちらを向いていなければ、「見ていないとわからない」と注意する人がいるが、僕の場合、見ることと聞くことを同時に行うのが難しい。日常生活であれば、見ながら聞いていても、それほど不便を感じないが、見ることに集中すると、相手が何を言っているのかわからなくなり、聞くことに集中すると、自分が何を見ているのかわからなくなる。
 だから、見るか、聞くか、どちらの機能を優先した方がいいのか、僕は場面に応じて使い分けている。たとえば、テレビでニュースやドラマが放映されていると、画面は見ずに聞いている。画面を見ない方が、言葉を正確に聞き取ることが出来るうえ、想像力を働かせば、自分の中では何倍も楽しめるからだ。
 インターネットの動画は見ることを優先している。画面のインパクトが強く、あっという間に終わってしまうものが多いので、僕は動画を写真のように目に焼きつけて、頭の中に保存している。
 僕にとって見ながら聞くという状況は、右手と左手、両方に箸を持ってご飯を食べているようなものだと思う。

 人に謝るということは、とても難しい。僕自身もうまく謝れなくて、いつも苦労している。僕は、上手に話せない。言葉そのものが自分の意思で口から出てこないため、謝るといっても、「『ごめんなさい』は?」と一緒にいてくれる人に促され、おかしな発音で「ごめんなさい」とオウム返しのように言葉を繰り返すだけである。
 頭を下げれば、それでいいわけではなく、「謝る」で一番大事なことは、相手に許してもらうことだ。許してもらえなければ、どうしようもない。これは、かなり難しいことではないだろうか。
 謝罪で大事なのは誠意だろう。弁償するだけですまされることは少ない。被害を受けた人は、大抵、心からの謝罪を相手に求める。気持ちがすむまで、相手からの謝罪の言葉を聞き、自分は悪くなかったと納得したいのだと思う。
 人は、間違いを犯してしまうものだ。それは、みんなもわかっている。だから、人を許すことを美徳と捉える。許したいからこそ、相手に謝罪を求めるのである。
 矛盾しているようにも見えるが、許すという行為が善い行いであるなら、謝罪はいらないはずなのに、ほとんどのケースで、謝罪を受けることが許すことの前提となっている。
 被害を受けた時、自分ひとりの力で気持ちを整理するには限界があるのだと思う。

「創造力を育てる」という言葉を時々聞く。幼児教育などでは、そのための指導が行われているところもある。
 創造力とは、「新しいものをつくりだす能力で、解答が1つだけではないような課題における思考」を指すらしい。創造力が何かということは理解できるが、これを教育で伸ばすことは本当に可能なのだろうか。
 新しいものをつくりだす能力は、教えて出来るようになる能力とは、正反対のもののような感じがするからだ。教えないことがいいことだとは限らない。教えて出来るようになる能力は、学習の基本だと僕は思っている。
 たとえば、創造力を育てるため、絵を描く時には、子供が描きたいように描かせるべきだと指導している人がいるとしよう。この説明は、何だかおかしい。指導しないのであれば、教育ではない。ただ、遊んでいるだけではないだろうか。そう考えると、子供に必要なのは、好きなだけ自由に遊ぶ時間のような気がする。
 創造力を養うためには、さまざまな課題を子供に与えないといけないという意見もある。けれど、大人が考える課題など、はたして役に立つのだろうか。
 この先、子供はこれまで誰も経験していない新しい時代を、生きていかなくてはならない。求められているのは、古い価値観や考え方に縛られず、自分らしく柔軟に生きていける力。それは、教えられるものではなく、その人の中から生み出されるものに違いない。

 
 

連載「東田直樹の絆創膏日記」は毎週水曜日に配信します。第6回の更新は12月20日の予定です。


『自閉症の僕が跳びはねる理由』もラインナップ
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