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連載

佐藤 究「テスカトリポカ」 vol.1

【特別公開】祝・直木賞&山本周五郎賞受賞! 鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ! 「テスカトリポカ」#1

佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。



鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。
まずは第一章、メキシコの北西、シナロア州のクリアカンから幕は上がる――。

第一部 顔と心臓イン・イシトリ、イン・ヨリョトル

ただし、神々だけは本物である。
──ニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』
(金原瑞人/野沢佳織訳)

1 cë

 メキシコ合衆国の北、国境を越えた先に〈黄金郷エル・ドラド〉がある。そう信じこみ、そう信じこまずにはいられなかった人々がいる。
 じんのかなたの赤茶けた夜明けに向かって、道なき道をひた歩く者たち。岩とサボテンの荒野で命を落とす危険もかえりみず、十字を切り、疲れ切った足を引きずって進む。
 く手にはアメリカ合衆国の国境警備隊が待ちかまえているが、監視の目は完璧ではない。国境の幅があまりに広すぎる。メキシコとアメリカの国境、それは東西およそ三千キロにおよぶ、地球最大の密入国多発地帯だ。あらゆる方法を駆使して非合法に国境を越えようと試み、逮捕される者の総数は毎年数十万人になり、多い年で百万人に達する。
 だが逮捕を免れたとしても、全員が無事に旅を終えられるわけではない。国境警備隊のヘリコプターに見つかれば、羊の群れのように追い立てられる。人権団体に非難されているこの作戦は、〈ダスティング〉と呼ばれ、低空飛行で迫るヘリコプターによって徒歩集団をかくし、メキシコ側へと追い返すものだ。ヘリコプターを逃れたところで、過酷な砂漠のなかで道に迷い、仲間とはぐれてしまえば、その人間の末路は目に見えている。
 それでも人々は、出口のない貧しさの連鎖から抜けだそうとして、国境をめざしつづける。どうしてもたどり着かなくてはならない。太陽のように燃えさかる資本主義の帝国へ。アメリカへ。

 メキシコ北西部、太平洋側の町に生まれたルシアも、できるならそうしたかった。国境を越えてアメリカへ行ってみたかった。空想上の並行世界パラレル・ワールドにあるような、もうひとつの人生。だが、彼女はそうしなかった。国を出たが、結局、北には行かなかった。
 一九九六年。ルシア・セプルベダは十七歳の少女だった。インディオとスペイン人の血を引くメスティーソ。つややかな黒髪と、その髪よりもさらに色濃い黒曜石のような大きな黒い瞳をしていた。
 彼女の生まれたシナロア州の州都クリアカンは、事情を知らない観光客──そんな人間は絶対に来ないが──には、ごく普通の町のように映るはずだった。しかしその町には、法とは別の秩序があった。暴力と恐怖。どこにでも死体が転がっているわけではない。それでいて町は戦場に等しかった。いつまで待っても国連軍が介入してこないようなタイプの戦争ゲーラがつづいている。それは麻薬戦争と呼ばれていた。

 カルテルが町に君臨し、その構成員の麻薬密売人ナルコがいたるところで目を光らせている。麻薬密売人ナルコは路地裏でこそこそ麻薬を売りさばく末端の売人プツシヤーではない。彼らは高級車のランボルギーニやフェラーリを乗りまわす。アサルトライフルのあつかいにけ、必要とあればテロリストに変わる。
 メキシコのカルテルは国内の町どころか、海外にまでネットワークを広げ、世界規模のビジネスを展開する。主力商品は〈黄金の粉ポルボ・デ・オロ〉、すなわちコカインで、もっとも巨大なマーケットの隣国アメリカを筆頭にカナダ、EU、オーストラリアなどで天文学的な利益を上げている。どれだけ売ろうが、課税されない商品だった。
 アジア──日本、フィリピン、そしてとくにインドネシア──は今後のさらなる成長が期待できるマーケットとして見られている。しかし、それらは今のところコカインよりもイエロのほうが売れている地域だ。イエロとはスペイン語で、覚醒剤の一種メタンフェタミンを指す。
 カルテルはコロンビアやペルーに専属契約の農場を持ち、コカイン生産量を管理し、製造、輸送、分配までをみずからおこない、政治家、官僚、検事、警官らを買収して、彼らを麻薬ビジネスの内側に取りこみながら、新しい資金洗浄法を常に考えている。誘拐、拷問、殺人などの計画的な実行も業務の一部であり、壮大なスケールの犯罪企業体を無数の麻薬密売人ナルコが支えている。空を映しだすハーフミラーの窓ガラスで覆われた立派な本社ビルが建っているわけでもなく、最高経営責任者CEOが会見することもないが、彼らは世界金融に影響を与えられるほどの資産を有している。逆らえる者はいない。彼らに言論の自由は通用しない。表立って攻撃すれば、鎌を持った死神を、家族とすごす自宅のリビングに呼びこむことになる。

 クリアカンに暮らすルシアは、幼いころ、首都メキシコシティの私立高校へ入学する夢を描いていたが、小さな食料雑貨店を細々と経営する両親に、生活費と二千ペソの月謝を払わせることなどできなかった。ルシアは知っていた。おそらく自分は地元の高校にも入れない、と。両親は麻薬ビジネスとは無縁でいつでも貧しく、借金もあった。相談もせずに高校進学をあきらめたルシアは、食料雑貨店を手伝いはじめた。
 雨季の七月の午後、彼女が店番をしているときに、二人の男が入ってきた。一人はビデオカメラを回していた。町の人間ではなかった。テキサスからやってきた観光客かと思ったが、今のクリアカンは観光にはふさわしくない。
 二人は観光客ではなかったが、アメリカ人だった。ビデオカメラを持ったアメリカ人が「僕はジャーナリストなんだソイ・ペリオデイスタ」と笑顔でルシアに言った。もう一人はだまったまま、袋入りアーモンドと日焼け止めのクリーム、それにアルファベットのXが二つ並んだラベルの瓶ビール〈ドス・エキス・アンバー〉を二本レジに持ってきて、最後まで何も言わずに代金を払った。
 ジャーナリストと聞いてルシアは不安を感じた。この町で取材の対象になるのはだけだ。
 彼女の不安は的中し、翌日二人はどこかで連絡を取りつけた三人の麻薬密売人ナルコを引き連れて、昨日と同じようにルシアの店でドス・エキス・アンバーを買い、野球帽をかぶってバンダナで顔を隠した男たちに冷えた瓶を手渡した。男たちはその場でビールを飲みはじめ、よりによって食料雑貨店のなかでインタビューがはじまった。
 ルシアはアメリカ人の無神経さを呪いつつ、どうか何ごとも起きませんように、と神に祈った。聞きたくもなかったが、男たちの低い声は店のなかによく響いた。ほかに客はいない。彼らがいては誰も寄りつかない。
 ベルトに拳銃を挟んだ三人は、ビデオカメラを向けられるのを楽しんでいる様子だった。
「この世でいちばん強いのは、自分たちだと思ってる?」アメリカ人がく。
「それは信仰の話か」と麻薬密売人ナルコの一人が訊き返す。
「いや、現実の話だよ」
「だったら、おまえらアメリカ人グリンゴの軍隊は強いだろうな。海兵隊」
「へえ、そう思うの?」
「おれたちはこの国の海軍省SEMARと撃ち合ったことがある。特殊部隊のやつらだ」もう一人の麻薬密売人ナルコが答える。「おまえらの海兵隊はあいつらより強いらしいから、それなら強いだろうな」
 仲間の話をだまって聞いていた一人が笑いだす。「ただし連中が最強ロス・マス・フエルテスなら、おれたちは死の笛シルバト・デ・ラ・ムエルテだ」
「どういうこと?」とアメリカ人が尋ねる。
「おれたちが笛を吹けば、すぐに死がやってくるってことさ」
 男たちは空の瓶をレジに残して出ていき、撮影係があとを追いかけた。
 死の笛シルバト・デ・ラ・ムエルテ。その言葉の響きが、ルシアの耳にこびりついて離れなかった。

 二人のアメリカ人は週末まで取材をつづけ、ルシアが彼らの強運と神のご加護を信じはじめた直後、日曜日の朝に、町の外れの空き地でどちらも死体となって発見された。
 二人が麻薬密売人ナルコ理由は謎だった。ジャーナリストを演じる麻薬取締局DEAの捜査員と思われたのかもしれない。どれほど注意深く行動しても、ほんのささいなことで命を奪われる。二人は額に銃弾を撃ちこまれ、破裂した頭蓋骨を飛びだしたのう漿しようが野球帽の内側にペースト状になってこびりついていた。ビデオカメラやレコーダーは消え、財布や身分証もなくなっていた。撮影係のカーゴパンツのポケットに、ルシアの店で買った日焼け止めクリームのチューブだけが残っていた。
 二人の死を小さく報じる新聞記事を見て、ルシアはため息をつき、目を閉じた。
 これが、私の住んでいる町。

 ルシアには二歳上の兄がいた。名前はフリオ、やせて骨ばった体つきで、背が高く、肩幅が広かった。地元の仲間に〈エル・オンブロ〉というあだ名で呼ばれていた。
 フリオもまた、たくさんの人々と同じように、アメリカに渡って働き、貧しい両親に送金して生活を支えるのが望みだった。
 長く働くためには、どうしても不法に国境を越える必要がある。
 だが一人では不可能で、密入国ブローカーの力を借りなくてはならない。
 不法にアメリカに入るルートは〈コヨーテ〉が仕切っていた。彼らは麻薬密売人ナルコにつながる密入国ブローカーで、ようするに事実上カルテルの一部だった。
 フリオはコヨーテではない密入国ブローカーを懸命に探した。そんなことはエメラルドエスメラルダを掘り当てるより困難だぞ、と友人に笑われてもあきらめなかった。
 一度でもコヨーテの力を借りてしまえば、麻薬密売人ナルコと縁ができる。その縁は生涯つづく。コカインの運び屋や最末端の売人をやらされ、際限なく神経を張りつめる人生が待っている。
 ついにフリオは「おれはコヨーテじゃない」と話す男を見つけた。元国連職員だったというその男に運命を託して、フリオは苦労して貯めた二万ペソを払った。それはあまりに無謀な賭けだった。
 二日後、見知らぬ男がフリオの前に現れ、「国境を越えたいのなら追加で二万ペソを払え」と告げた。「払えないならアメリカにコカインを運ぶしかない」
 つまりフリオが見つけた相手も、当たり前のように麻薬密売人ナルコとつながっていた。それだけの話だった。
 フリオは男の要求を断った。運び屋をやれば死ぬまで抜けられない。二万ペソを返してほしかったが、あきらめるよりほかなかった。だまされて金を巻き上げられた──普通であればこれで話は終わるはずだった。しかし、クリアカンでは終わらない。ものごとの結末は、麻薬密売人ナルコの考えしだいで決められる。

 翌日、フリオは変わり果てた姿で見つかった。両目をえぐりだされ、舌は切断されていた。全裸で路上に転がされていたが、長い手足はすべて関節のつけ根から切り落とされていた。フリオはコヨーテ以外の密入国ブローカーを探した罰を受け、見せしめにされた。
 こうしてルシアの兄は、十九年の生涯を終えた。
 敵に顔を知られないように黒い目出し帽をかぶった警官たちが死体遺棄現場にやってきて、黄色い規制線を張り、写真を撮り、現場検証をすばやく終わらせた。規制線が外され、鑑識に回すフリオの死体が車で運び去られるまで、二十分もかからなかった。
 アスファルトに染みついた血、すなぼこりの交ざった風、うなだれて歩いてきて血の臭いを嗅ぐ肋骨の浮いた犬。
 麻薬密売人ナルコによる虐殺は、避けがたい自然現象と呼べるまで日常に浸透していた。町の人々と同じように、ルシアもこう思っていた。もう誰も助けてくれないのだ、と。

 泣き叫ぶ両親の代わりに、ルシアは葬儀の手配をし、遺品のうちで金に換えられる物はみんな売り払い、兄の余計な思い出は一つも残さないように努めた。
 決断するならこれが最後のチャンスだ。ルシアはそう思った。ここで行動を起こさなければ、恐怖に身がすくむばかりで、一生この町を抜けだせない。
 両親への置き手紙すら書かなかった。下手な証拠を残せば誤解が生まれ、麻薬密売人ナルコに目をつけられる原因になる。だまって一人で消えるしかないのだ。彼女は誰にも伝えずに、ひっそりと寝室の十字架に口づけして、シナロア州クリアカンに別れを告げた。
 兄とはちがって、コヨーテ以外の密入国ブローカーを探したりはしなかった。そもそも他人を頼らなかった。
 国境の北、アメリカへ渡るのに麻薬密売人ナルコへ金を払わなくてはならないのなら、はじめからアメリカに行かなければいい。
 彼女は南をめざした。

 十七歳のメキシコ人少女の冒険。
 牛肉を運ぶトラックの荷台にまぎれこみ、毛布にくるまって木陰で眠り、知らない州の知らないバスに乗り、ひたすら南下する。やせこけた老人が乗る牛車よりもさらにのろまな農家のトラクターを呼び止めて、むりやり乗せてもらったこともあった。
 相手がどんなにやさしげな笑顔を見せてこようと、信用しない。
 彼女は故郷でそれを学んできた。たとえ老婆だろうが、身の危険を感じれば服の下に隠した小型の山刀マチエーテで殺すつもりだった。
 ナヤリット州、ハリスコ州、ミチョアカン州──いくつもの夜を乗り越えて、十七歳の少女は南下をつづけ、太平洋をのぞむゲレーロ州の港湾都市アカプルコにたどり着く。

 まだ生きている。

 潮風に吹かれながら、ルシアはぼうぜんと空を見上げた。犯されて喉を切り裂かれてもいないし、泥の色をした川をうつぶせになって漂ってもいない。信じられないが、一人でここまでやってきたのだ。
 ルシアは十字を切り、グアダルーペの聖母ヌエストラ・セニヨーラ・デ・グアダルーペに祈りを捧げた。それでも喜びはたいしていてこなかった。自分が何十歳も年老いてしまったような気がして、どこかあきらめに似たあんに包まれただけだった。
 観光客でにぎわう九〇年代のアカプルコの光景が目にまぶしかった。クリアカンにくらべれば天国のような土地だった。
 やがてこのアカプルコも麻薬密売人ナルコの戦場となり、リゾートホテルから客が消え、毎晩のように殺人が起こるようになるが、それはまだもう少し先のことだった。
 町の食堂コメドールに職を見つけたルシアは、支給された制服とエプロンを身につけて、テーブルに酒や料理を運んだ。ゆたかな黒髪に褐色の肌、黒曜石のように澄んだ大きな瞳をした少女はスペイン語しかできなかったが、すぐに世界中から来る観光客の人気者になった。アカプルコ滞在中に何度も店に現れる客もいた。デートに誘われて、チッププロピーナをほかの従業員より多くもらった。
 食堂コメドールではいつも明るく振る舞っていたが、ルシアの心は晴れなかった。これまであまりにもおそろしい日々をすごしてきたせいで、心に穴が空いてしまい、何もかもがトンネルを抜けるようにその穴を通過していった。他人への警戒と、冷め切った視線を押し隠して、彼女は客に笑いかけた。
 いらっしゃいませブエナス・ノーチエス、と言った。

 観光客でにぎわう暑い五月の午後、いかにも金まわりのよさそうな、身なりのいい白人の若者が食堂コメドールにやってきた。連れはいなかった。若者はミチェラーダを飲み、薄切りの牛フィレステーキカルネ・ア・ラ・タンピケーニヤを黙々と切り分けていたが、ふとナイフとフォークを置いて、テーブルの隅にマッチ棒を並べはじめた。縦向きに三本、先端の薬剤の色は白だった。中央の一本だけ軸木を折ってあった。
 並べられたマッチに気づいた瞬間、ルシアの顔はひきつった。何も気づかなかったふりをして、若者のグラスに水をぎ足し、ちゆうぼうに引き下がった。いちばん仲のいい同僚のアレハンドラを呼び寄せて耳打ちした。「あのテーブルにいる奴、気をつけて」
「どうしたの?」
「声をかけられたり、名前を覚えられたりしないで」
「あいつ、何かふざけたこと言った?」ペルー出身のアレハンドラは眉をひそめた。
 ルシアは固く口を結び、何も答えなかった。
 ほどなくして白人の若者は食事を終え、静かに口をナプキンで拭き、代金とチッププロピーナを置いて店を去った。警戒を解かずにいるルシアを尻目に、アレハンドラはつかつかとテーブルへ歩み寄り、ルシアに目くばせして代金とチッププロピーナを回収してきた。
 戻ってきたアレハンドラは笑っていた。「もしかしてあのマッチ棒?」
 今度はルシアが眉をひそめる番だった。アレハンドラも、あの意味を知っているのだろうか?
「引っかけようとしたってだめよ」アレハンドラはなおも笑いながら言った。「麻薬密売人ナルコが来たってサインでしょ? 最近、あれっているから」
 言葉の出ないルシアのエプロンのポケットに、アレハンドラは紙幣をねじこんだ。「ほら、あんたのチッププロピーナよ」

 食堂コメドールでの勤務後、アレハンドラと夕食に出かけたルシアは、『マンダミエント』というタイトルの連続テレビドラマについて教えられた。
 ハリウッド俳優も出演している人気シリーズで、物語の舞台はアカプルコ、主人公はカルテルの幹部をめざす若い麻薬密売人ナルコだった。アレハンドラが言うには、マッチ棒を置くサインはドラマのなかの印象的な場面で何度も登場していた。いたずらなのか、自己満足なのか、いずれにしても白人の若者は、ドラマにかぶれてをしただけだった。
 ルシアは食事をしながら、本気でおびえた自分をばからしく思った。だが声を出して笑うことはできず、自分が故郷でマッチ棒のサインを目にして、その直後に起きた銃撃戦に友人が巻きこまれた話を、アレハンドラに打ち明けることもしなかった。
 兄のことを思いだす。それと両親。神の教えに背いて自分は老いた父と母を見捨て、故郷を出てきた。でも、と彼女は考える。最初に神に逆らったのは誰? 兄をあんなふうに殺して平然と生きているのは? あいつらからコカインを買っているのは? テレビドラマ? 麻薬密売人ナルコを気取った観光客? この世は救いようのない、巨大な冗談なんだわ。

 ルシアがアカプルコで働くようになって一年がすぎた。仕事を終えたロッカールームで、アレハンドラに「もうすぐ店をやめる」と告げられた。ルシアのたった一人の友人は、勤務用に束ねた長い髪をほどき、頭を左右に振りながら言った。「ちょっとだけ故郷のペルーに帰って、つぎは日本ハポンで働くの」
 思いがけない言葉だった。日本ハポン。名前くらいは知っているが、地図のどこにあるのかまではわからない。日本人観光客は食堂コメドールによくやってくるが、正直に言って中国人と見分けがつかなかった。
「短期滞在ビザで入国して、そのあいだにとにかく円を集めるのよ」とアレハンドラは言った。「日本の通貨は強いから。あんたたちみたいに隣にアメリカがある国民とちがって、ペルー人は日本へ出稼ぎに行く。トーキョー、カワサキ、ナゴヤ、オオサカ──」
 ルシアにとって、それは驚くべき発想だった。そしてアレハンドラの言うとおり、たしかにメキシコ人は人生の転機がアメリカにしかないと考えがちだ。だから、命がけで国境を越えようとする。
「向こうで日本人と結婚できれば、もう言うことなしね」給仕の制服を脱いで下着一枚になったアレハンドラは、ロッカーのなかに腕を伸ばし、ハンガーにかけたオレンジ色のTシャツをつかんだ。「そうしたらずっと働ける」
「どこにあるの、日本って?」ルシアはまだ給仕の制服のままだった。袖のボタンすら外していなかった。
 かぶったTシャツのなかでもがいていたアレハンドラは、いきおいよく頭を突きだすと答えた。

 太平洋の端アル・ボルデ・デル・パシフイコ

#2へつづく
「カドブンノベル」2020年12月号より)


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