【連載小説】中止になったアダルト・ビデオ、失踪した少女――村上刑事らは謎の鍵を握る、医者のもとを訪れるが……。赤川次郎「三世代探偵団4 春風にめざめて」#8-2
赤川次郎「三世代探偵団4 春風にめざめて」

※本記事は連載小説です。
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木枠の歪んでいそうな、ガラスをはめた扉の中は暗かった。
ガラスに書かれた文字は半ば消えかかっていて、充代から、
「〈
と教わらなかったら、とても読めないだろう。
「久我というのか」
と、村上が言った。「もう眠っているのかな」
「そうですね。確かもう八十近かったと思いますから。こんな時間には起きてないでしょう」
と、充代は言った。「それに、たいてい夜は酔っぱらっていて。けが人が出て、夜中に呼びに来ても、全然起きてこないことがあるんです」
「しかし、今夜は起きてもらおう」
村上が呼び鈴を鳴らしたが、一向に反応がない。
「──どうする?」
と、有里は言った。「マナさんのことが心配よね」
「確かにね。しかし──」
と、村上が考えている間に、有里は玄関脇に転っていたコンクリートブロックのかけらを手に取ると、扉のガラスを叩き割った。
「おい……」
村上が目を丸くすると、
「私、少年院送りになってもいいから。中へ入りましょ」
と、有里は言った。
充代が感心した様子で、
「凄いわね、あなた!」
と、声を上げた。
「仕方ない。入ろう」
ガラスの割れたところから手を入れてロックを開けると、三人は中へ入った。
古ぼけた待合室。──患者が殺到しているとはとても思えない。
「久我さん!」
と、充代が上り込んで、奥へ声をかけた。
「寝てるんですか? 急用です!」
廊下の明りを点けると、先に立って奥へ入って行く。
「──待て」
村上が充代を止めて、自分が障子を開けた。
明りを点けると、殺風景な茶の間だった。
「その奥が寝室で」
充代が
「おかしいわ」
六畳間だが、布団も敷いていない。そして、押入れの戸が開いたままになっていた。中の戸棚の引出しが空になっている。
「──出て行ったのかしら」
と、有里が言った。
「そうだな。この様子だと……」
「出て行くって……。どうして急に?」
充代が面食らっている。
村上は台所を見回して、
「久我は一人暮し?」
「ええ。奥さんに逃げられたとかで、もう何十年も一人だったようです」
「洗濯機の中に、下着が入ったまま」
と、有里が言った。「でも、お風呂場はまだ床が濡れてるわ」
「そうか」
と、村上は肯いて、「おそらく、吉川マナちゃんの事故のことを、しゃべられては困ると思った誰かが、久我に金をやって、どこかへ行かせたんだ」
有里は、ちょっと間を置いて、
「たぶん……マナさんって人、生きてないね」
と言った。
「おそらくね。しかし、そうと決ったものでもない。ともかく、久我を見付けよう」
村上と有里は、手がかりを求めて、部屋中を捜し回った。
「──これ、見て」
色んな物が押し込んであるマガジンラックから有里が取り出したのは、破れかけているうちわだった。「居酒屋〈E〉って文字が入ってる」
「そこは久我がいつも通ってたお店です」
と、充代が言った。「スタッフから聞いて、捜しに行ったことがあるわ」
充代は有里を見て、
「あなた、本職の探偵さんのようね」
と、感心して言った。
翌日、昼過ぎに起き出した有里は、母の
「──夕方、居酒屋が開くのを待って行ってみるよ」
と、村上が言った。「久我の故郷の町にも連絡しておいた」
「一つ、忘れてたことがあるわ」
と、有里が言った。「あの〈Kビデオ〉の事務所で、あの男が捜してたもの」
「そうか!」
村上が舌打ちして、「うっかりしてたよ」
「ね、あのとき、男は見付けてなかったわ。だから、捜してたものは、まだあそこに残ってるのかもしれない。──でしょ?」
「これから行ってみる。あそこは鍵をかけてあるから、誰も入れないだろう」
「私も行く!」
「しかし……」
と言いかけて、「来るな、と言っても来るよね」
「もちろん! じゃ──一時間後に、あのビルの前で」
通話を切って、有里は振り向いた。
文乃が、こわい顔をして、腕組みしたまま、有里をにらんでいた……。
▶#8-3へつづく
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