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『秋雨物語』貴志祐介(KADOKAWA)
評者:吉田大助
二〇二〇年刊行の前著『我々は、みな孤独である』から、貴志祐介が新たなフェーズに入った気がしてならない。王道の輪廻転生物語に、二一世紀突入後に提唱され注目を集めるサイクリック宇宙論(宇宙には始まりも終わりもなく、収縮、衝突、ビッグバン、膨張、収縮……というサイクルを繰り返しているとする宇宙論。一説によれば、現在は五〇回目の宇宙である)を掛け合わせたとも取れる同作は、この世界は一つではない、という真実を恐るべき迫真性で伝達することに成功した。夢と現実、前世と現世、天国と地獄、彼岸と此岸といった分かりやすい二分法では、もはや貴志祐介のホラーは語れない。世界は幾つもに分岐しそれぞれに私という存在がいて、ふとした瞬間に別の私に意識が切り替わって別世界への瞬間移動が実現してしまう─新たなるフェーズに突入した恐怖の根幹にあるものは、世界の二分化ではなく、多世界化だ。
全四編収録の短編集『秋雨物語』は、その路線を正統に継ぐ。『我々は、みな孤独である』よりも前に発表された短編を含むこちらの方が、真の出発点だったのかもしれない。
本文二三ページとごく短い冒頭の一編「餓鬼の田」からフルスロットルだ。二五歳の会社員・谷口美晴は社員旅行で立山の弥陀ヶ原を訪れていた。二日目の早朝、同じ課の先輩・青田好一が散歩へ出かけた姿を見かけ、後を追う。「青田さんは、彼女はいないんですか?」。以前から気になる存在だった青田にアプローチをかけたのだ。彼は、女性と一度も付き合ったことがないと語った。たとえいい仲になりそうになっても、なぜか最後に必ず失敗するのだと言う。霊能者によればそのさだめは、前世の因縁からもたらされる業だった。そんなオカルトめいた告白を聞いても、美晴の思いはブレなかったが……。青田の視点に立って考えてみればすぐ分かる。ラストで起きているのは、先程までいた世界とほとんど同じ別世界へのワープだ。第一編のラストシーンで降り出した秋雨は、以降の短編で降り続く。止まない雨は、先程までいた世界とほとんど同じ別世界への移動のシグナルである。
第二編「フーグ」は本書を象徴する、多世界へのワープをダイレクトに表現した物語だ。編集者の松浪弘は、失踪したホラー作家・青山黎明の未完原稿を読む機会を得る。作家の秘書であり恋人のような存在である亜貴は、原稿について「ほとんど実話じゃないか」と証言した。松浪が読み進める原稿が、作中作として読み手の眼前に突き付けられていく。そこに記されているのは、幼少期から始まり今なお続く解離性遁走(フーグ)の記録だ。それは、多世界へのワープだった。
第三編「白鳥の歌」は悪魔との才能の取引というホラー定番の題材を取り上げ、第四編「こっくりさん」は日本一有名な降霊術の別バージョンを創出し、恐怖と脅威をアップデートしてみせた。
貴志作品において別世界へのワープは、丁寧に手順を踏んで行われることもあれば、ふとした瞬間、例えばコップの水を一口飲むようなことだけで発動してしまう場合もある。だから、怖いのだ。読んでいる間中、気が抜けない。そして読み終えた瞬間、気付くだろう。今の自分と、『秋雨物語』を読む前の自分は違う。なぜならこれからはこの本を読んだ、という経験と共に生きていくしかないからだ。『秋雨物語』を読んでいない自分として生きる世界から、『秋雨物語』を読んだ自分として生きる世界への移動。これをワープと言わず、何と言えばいいだろう?
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