彼女は無邪気に、優雅に、意味もなく、他人を不幸に陥れる。
一木けい『悪と無垢』
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一木けい『悪と無垢』
書評:久田かおり(精文館書店中島新町店)
人はどんな時に嘘をつくのか。
何かから逃れたり誰かを陥れたりすることで自分が得をするためか。その嘘の大小を問わず大抵は「自分への利益」を得るために嘘をつくのだろう。それはよくわかる。そういう嘘はついたことがあるし、つかれたこともある。そこは納得理解の嘘である。そんな納得も理解も自分の中から一ミリも湧いてこない嘘にまみれた小説がこれだ。
2016年に「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し2018年に『1ミリの後悔もない、はずがない』でデビューした一木けいの最新作『悪と無垢』。
読み終わったすぐの感想が「あぁ、これが小説でよかった」だ。こんな人がそばにいたら……と思うだけで全身に鳥肌が立つ。絶対嫌だ、と細胞レベルで思う。久しぶりだ、ここまで「嫌な感じ」を堪能したのは。
デビュー作『1ミリの~』のあとも『愛を知らない』『9月9日9時9分』で中高生のひりひりする心の痛みを描いてきた一木けいのどこにこんな悪意玉が転がっていたのか。あ、いや三作目の『全部ゆるせたらいいのに』はアルコール依存症の夫を持つ妻の話だったか。今回はアルコールではなく「嘘」への依存ということなのか。
誰でも他愛のない、どうでもいい嘘をつくことはある。ついた噓がばれたとしてもお互いにとって大したダメージではない嘘。けれどこの小説の主人公英利子は相手が奈落に落ち血を吐き続けるような決定的な嘘をつき続けるのである。まるで息をするように。しかも、その必然性が全く見えない。なぜ、なんのために。理解も共感もできない嘘への感覚的恐怖たるや。
さらに英利子の怖さは、その嘘をつくべき相手とそのタイミングを本能的に見つけ出すということ。混乱と不安の中でもがく隙のあるターゲットを見つけ出す眼。これは一種の才能なのか。なんて恐ろしい才能なんだ。
英利子とその息子が何をしてきたのか、を二人の女性がブログと小説という形で描きだす。ブログには被害者の目から見た「起こったこと」、つまり被害者と英利子の息子との不倫が描かれているのだけど、これがまた何だかよくわからないのだ。多分被害者本人が一番わからないままなのだろう。そのよくわからない不気味な母息子と一緒に時が戻されていく。そして英利子の娘が嘘に翻弄された被害者たちのそれぞれの「起こったこと」を小説という形で描いていく。五十代から三十代、そして中学時代へとさかのぼる嘘。
あるイタリアンレストランに勤める社員の母親として、異国のコンドミニアムに住み、ドイツにルーツを持つ親切で上品な女性として、貧しい港町で交通事故に遭った女性を助ける親切な人として、そしていじめに遭う同級生を助ける中学生として。
年齢や見た目が変わっていっても手の甲に残る歯の跡とイニシャル付きのハンカチは残っていく。嘘の真実の証として。
嘘の糸で絡み取られていく被害者たち。彼女たちはなぜ選ばれたのか。もしも自分だったら逃れることはできたのだろうか。いや、そもそもターゲットとしてロックオンされただろうか。
人間関係の整理のために相関図を描きながら二度三度と読み直していくうちに、ふと自分の中にある英利子への気持ちの変化に気付く。息をするように意味のない嘘をつき続ける女への生理的嫌悪感の中にある得体の知れないナニか。生身で会うには危険すぎる女から放たれる甘い毒。
これが小説でよかったと思ったはずなのに、こんな女が身近にいなくてよかったと思ったはずなのに、なぜだろう。英利子のような女になりたいのか? 嘘で人を地獄に落とす悦楽に浸りたいのか。くもりなきまなこで自分の心を見つめる。もしかして私は英利子に見つけられたいのか。混乱の中で自分を見失っているその絶妙なタイミングで嘘という甘美な地獄にはまりたいと思ってしまっているのか。
例えば被害者たちを一堂に集めて、それぞれから英利子へなぜあの時あんな嘘をついたのか、そのせいで自分はどれだけ苦しんだのかわかっているのか、と問い詰めさせたとして、彼女は一ミリもひるむことなくアルトのハミングを口ずさみ続けるだろう。糾弾や悲鳴が高まれば高まるほど彼女の微笑みは深まるのだ。なぜなら、彼女の魂は1ミリの隙もないほどに無垢なのだから。孤高の無垢さに惹かれ絡めとられていく快感。嫌悪感に酔いしれる自分が怖い。
作品紹介・あらすじ
悪と無垢
著者 一木 けい
定価: 1,925円(本体1,750円+税)
発売日:2022年10月28日
彼女は無邪気に、優雅に、意味もなく、他人を不幸に陥れる。
「逃げなきゃ。この女のそばにいるのは危険すぎる」
新人作家、汐田聖が目にした不倫妻の独白ブログ。ありきたりな内容だったが、そこに登場する「不倫相手の母親」に感情をかき乱される。美しく、それでいて親しみやすさもある完璧な女性。彼女こそ、聖が長年存在を無視され、苦しめられてきた実の母親だった。ある時は遠い異国で、ある時は港の街で。名前も姿さえも偽りながら、無邪気に他人を次々と不幸に陥れる……。果たして彼女の目的は、そして、聖は理解不能の母にどう向き合うのか?
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