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(評者:梯 久美子 / ノンフィクション作家)
土地は歴史を記憶する。当事者も証言者もすでにいなくとも、そこに足を運ぶことによって、土地そのものが教えてくれることがある――。取材のためにさまざまな場所を訪ねた経験から私はそう実感しているが、本書によって、土地は歴史を「記憶する」だけでなく、「生み出す」ものであるという視点を与えてもらった。
土地が歴史を記憶する、というのは比喩的な言い方だが、土地が歴史を生み出す、というのは比喩ではない。そこでなければ起こらなかった出来事、そこでなければ醸成されなかった思想。それらを生ぜしめたものとしての「地形」を、現場を歩くことで発見していく過程はたまらなくスリリングだ。
右のポケットに地形図、左のポケットに年表をしのばせ(注・私の想像です)、探偵よろしく原さんが訪ねる現場は、岬、峠、島、麓、湾、台、半島の七つ。天皇の家族の物語が秘められた、浜名湖の名もない岬。天皇制と革命思想が対峙し、すれ違った奥多摩の峠。近代の「穢」と「浄」を背負わされた、瀬戸内海の二つの島。多くの宗教が拠点を置き、オウム真理教が世界最終戦争から生き残るための地として選んだ富士山麓。歴史の古層を突き破り、記紀神話の世界が顔を出す東京湾岸。戦時中に昭和天皇が『古事記』から名づけた陸軍士官学校の所在地・相武台。戦前のイデオロギーが冷凍保存されたかのような大隅半島――。
どれも抜群に面白いが、圧倒されたのが、奥多摩の峠を描いた第二景「『峠』と革命」である。ここで原さんは、二〇一三年に皇后(当時)が誕生日に際して発表した文章で「深い感銘を覚えた」として言及した「五日市憲法」を生んだ五日市を訪ねる。そして次に、峠を越えて、奥多摩湖に向かう。かつてここには小河内村の集落があったが、ダムの建設にともなって湖底に沈んだのだ。
ここで語られるのが、小河内村にはかつて、日本共産党が反米武装闘争の一環として組織した山村工作隊が、ダム建設を阻止するために派遣されていたという事実である。若い党員たちは、村民は極貧の生活を強いられて山林地主を恨んでおり、ほとんどが党の味方と教えられていたが、現実は違った。村人たちは工作隊をおそれ、反感を抱き、あるいは敵意を抱いていた。
メンバーが逮捕されて闘争は挫折し、やがて党は、一九五五年の第六回全国協議会(六全協)で、「農村から都市を包囲する」山村工作隊を誤りだったとして切り捨てる。
ダム貯水池の建設に伴って取り壊された寺の、それだけが移築されて現存する楼門を原さんは見に行く。そしてその傍らに、山村工作隊の一員で、二度の逮捕後も活動を続け三五歳で死去した岩崎貞夫という人物のために「同志」が建てた記念碑があるのを発見するのである。
句読点の一切ないその碑文を読んで、首の後ろがぞくっとした。挫折や裏切りを示す語はひとつもなく、表面だけを読めば美しい追悼の文章なのだが、その美しさの底にある種の「圧」がある。それが怖い。原さんはこの碑文を「共産党本部に対する怒りが沸々と煮えたぎるような文章」と書いているが、この地に秘められた歴史を知れば、確かにそうとしか読めない。注目すべきは短い碑文の中に小河内の風景が書き込まれていることで、そのことにもどきりとさせられた。
切り捨てられ、いまは誰も顧みることのない歴史が、数行の碑文の中に痕跡を残している。現地に行かなければ不可能なこうした発見が、本書にはいくつもある。
このあたりは、いくつもの峠が立ちはだかる地形で、原さんも、大小の峠を越え、その地形と風景を描写しながら進む。急峻な峠はその両側にあるものを分断するが、同時に対峙もさせる。皇后がお墨付きを与えた民主主義のお手本「五日市憲法」をもつ五日市と、山村工作隊のアジトがあった小河内は、地図で見るとごく近い位置にあるが、その間には険しい峠が存在するのである。
この旅の終わり、原さんは、大菩薩峠の山荘の食堂で、あるものを見る。そのくだりを読んだとき、ええっ! と声が出そうになった。
そこに行かなければ決して気づくことのできない歴史の痕跡。岩崎貞夫の記念碑が山村工作隊にかかわるものだったのに対し、こちらは皇室にかかわるものである。それが何であったか、もちろんここには書かない。平成から令和に時代が移ったいまこそ、本書を読んで意外な事実に驚いてほしい。
地理と歴史が交差し、ここと何処か、いまと過去が結びついては反転する面白さと怖ろしさ。歴史に対する決まりきった見方を一新してくれる、画期的な一冊である。
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