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レビュー

戦後最大の誘拐事件を現代と重ね合わせる社会派ミステリの傑作 『罪の轍』(新潮社)

今月の太鼓判!

本選びに失敗したくない。そんなあなたに、旬の鉄板小説をドドンとオススメ!

奥田英朗『罪の轍』(新潮社)

 吉展よしのぶちゃん事件をご存じだろうか。東京オリンピックの前年(昭和三八年)に、四歳の男の子が誘拐された事件である。犯人が警察の鼻を明かし身代金を奪い逃げ去ったこと、にもかかわらず男の子が帰ってこなかったこと、警視総監がマスコミを通じて犯人に人質返還を呼びかけたこと、警察が脅迫電話の音声を公開したことなどにより、国民的関心事となった。二年三カ月後に事件がようやく解決した後も、本田ほんだ靖春やすはるのノンフィクション『誘拐』が高い評価を受け、『誘拐』を原作につくられた恩地おんち日出夫ひでお監督のテレビ映画『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』が伝説的な作品となるなどいまも語り継がれている。犯人の自白を引き出したのが、昭和の名刑事として知られる平塚ひらつか八兵衛はちべえだったことでも有名だ。そのほか事件をヒントにしたと思われるフィクションも数々つくられてきた。
 奥田おくだ英朗ひでおの『罪のわだち』も吉展ちゃん事件がモティーフになっていると思われる。事件が起きた年、社会の反響など類似点が多い。しかし、現実にあった事件を「いただいて」小説を書いたわけではない。事件をばらばらに解体し、同時代の犯罪や社会的事象を組み合わせ、吉展ちゃん事件とは似て非なる世界をつくりあげた。その骨組みの堅牢けんろうなこと、細部にわたるリアリティは驚嘆すべきだ。
 礼文島れぶんとうで昆布漁に出ている宇野うの寛治かんじは二十歳。子供の頃から記憶障害があり、周囲から「莫迦ばか」だと見下されていた。父を知らず、母からは愛されず、友人も恋人もいない。お金がなくなると、とくに良心の呵責かしゃくを感じることなく空き巣を繰り返し、やがて島にいられなくなり東京へ向かう。寛治はチンピラの明男あきおと友だちになり、働き始めたストリップ劇場で踊り子の里子さとことつきあい始める。故郷では得られなかった人間関係ができたことで、寛治は居場所を得たと感じた。だが、お金を稼ぐのは容易ではなく、空き巣をやめることはなかった。そんなとき、裕福な元時計商が殺され、寛治が捜査線上に浮かぶ。さらに六歳の男の子が誘拐され、身代金を奪われるという大事件が起こる。
 物語は寛治のほか、二つの事件を追う捜査一課の刑事、落合おちあい昌夫まさおと、労働者の街、山谷さんやで旅館を営む在日韓国人の町井まちいミキ子の視点で描かれる。昌夫はまだ珍しかった大学出の刑事で、警視庁内部の古い体質に疑問を持っている。ミキ子は差別を理由に警察を目の敵にする母にも、反権力を旗印に白も黒にしようとする左翼活動家にも同調できず、いつか山谷を出て自活しようと考えている。二人は私たち現代人に近い感性を持つ、新しい時代の人間であり、感情移入しやすい。
 一方、寛治は豊かになっていく社会から取り残された人間だ。ささやかな人間関係さえつかみ損ねてしまう。その姿に、私はこの物語から五年後の昭和四三年に連続射殺事件を起こす永山ながやま則夫のりおを重ねて読んだ。
 家電話という新しい通信手段が犯罪を複雑化した。誘拐事件の被害者宅にマスコミが押し寄せ、いたずら電話がひっきりなしにかかってくる。『罪の轍』に描かれていることは昔話ではなく、五六年後の私たちが、別のかたちで直面している現実と重なって見える。

あわせて読みたい

奥田英朗『最悪』(講談社文庫)


犯罪は時代の影を象徴している。バブル崩壊後の川崎を舞台に、零細鉄工所の社長、若い女性銀行員、20歳の無職男性。出会うはずのなかった彼らが、追い詰められたあげく犯罪で結びつく。犯罪者は他者ではなく、もう一人の自分かもしれない。奥田英朗の犯罪小説の原点ともいえる名作。


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