大坂夏の陣で活躍した毛利勝永に着目した『獅子は死せず』、小豪族の誇りをもって巨大組織と戦った岡本越後守を描き、第五回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞した『もののふ莫迦』など、戦国ものの歴史小説の傑作を立て続けに発表している中路啓太だが、近年は近現代史にも力を入れている。
外務省情報部長・雑賀潤の視点でロンドン海軍軍縮会議を描いた『ロンドン狂瀾』、内閣法制局の佐藤達夫を主人公に日本国憲法制定までを追った『ゴー・ホーム・クイックリー』に続く近現代史ものとなる本書は、岸信介を主人公にしている。信介の実兄で海軍の軍人だった佐藤市郎は、ロンドン海軍軍縮会議の随員だったので、著者は『ロンドン狂瀾』を書いた頃から本書を構想していたのかもしれない。
信介は、経済官僚として満洲国の経営に辣腕を振るい、東條英機内閣では閣僚として大東亜戦争中の経済統制、物資動員を立案、戦後は戦犯として逮捕されるも釈放され、保守合同による自由民主党の結党を主導して要職を歴任、首相にまで上り詰めるという波瀾に満ちた生涯を送っている。
そのため本書も、政府による経済統制を主張していた商工省(現在の経済産業省)次官時代は、財界出身で市場経済重視の大臣・小林一三(阪急電鉄、宝塚歌劇団の創始者)と仁義なき戦いを繰り広げ、戦時中は東條に反旗を翻したことから文字通りに命の危険にさらされ、群雄が割拠した終戦直後の政党政治の現場では硬軟取り混ぜた手段で頭角を現すなど、信介の人生がダイナミックかつスリリングに描かれており、上下巻七五〇ページを超える大作だが一気読み間違いなしの圧倒的なドライブ感がある。
昭和史の〝光〟にも〝闇〟にも深くかかわった信介は、〝昭和の妖怪〟の異名を持ち、日本国憲法制定直後から憲法改正を主張し、首相として日米安保条約の改定に力を注いだことから、タカ派、対米追従との批判を受けてきた。
これに対し著者は、信介は軍が独断と専横を強めた昭和初期に、武官ではなく文官こそが国を主導すべきとの信念を持っていたとする。本書のタイトルは、信介が卒業した第一高等学校の校章にローマ神話の軍神マルスを象徴する柏葉と文化の神ミネルヴァを象徴する橄欖(オリーブ)があしらわれていたことに由来しており、最後まで読むと、信介がミネルヴァ=〝文〟を重んじたとの著者の主張も納得できるだろう。
また対米追従についても、旧満洲の利権をめぐる対立が日米開戦の原因であり、日本が侵略国家として一方的に非難される理由はないと考え、また国際法上の根拠がない戦犯容疑で収監されたこともあり、信介は単純な親米主義者ではなかったとする。日米安保の改定も、反共産主義の必要性からアメリカと歩調をあわせるが、あくまで日本に不利な条項を改正し対等な日米関係を構築するために行ったというのだ。
このほかにも著者は、一九四二年のいわゆる翼賛選挙では、大政翼賛会の推薦を受けていない議員が二割も当選しており、日本は一党独裁の下で戦争に突入したドイツ、イタリアとは違っていたなど、最新の研究を踏まえながら歴史の常識を覆していくので、新たな発見も多いのではないか。
改めていうまでもないが、現首相の安倍晋三は信介の孫にあたる。安倍政権は、政府主導で企業に賃上げを要請し、携帯電話料金値下げも指導しているが、これらは信介が進めた経済統制に似ているとの指摘もある。外交政策や憲法改正への執念も、信介の路線を踏襲しているように思えるが、果たして現政権が信介ほどのしたたかさを持っているのかも含め、本書は現代日本の政治のあり方、さらにその先を考える上で示唆に富んでいるのである。
信介は、日本国憲法の改正を果たせないまま首相の座を降りた。著者は、次の首相になった池田勇人が「所得倍増計画」を推し進め、高度経済成長期の空前の好景気が政治より経済という流れを生み出したとする。この風潮が現在も続いていることを考えれば、本書は国民生活に直結する増税や経済政策だけでなく、日本の将来を左右する政治問題について議論する大切さにも改めて気付かせてくれるはずだ。
書誌情報はこちら
>>『ミネルヴァとマルス 上 昭和の妖怪・岸信介』(上巻)
>>『ミネルヴァとマルス 上 昭和の妖怪・岸信介』(下巻)
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