真打は最後に登場する。冲方丁の『麒麟児』が、その証拠である。――と、いきなりいっても何のことだか分からないだろうから、もう少し詳しく説明したい。
二〇一八年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の主役は、倒幕の立役者となった薩摩藩の西郷隆盛である。国民番組の常として、放送の始まる前から今年にかけて、西郷や維新関係の書籍が、次々と刊行された。その中には多数の、歴史・時代小説もある。すでに何冊も読んで、お腹一杯という人もいるだろう。だが、それでも本書を手に取るべきである。まさに今年の西郷本の掉尾を飾るに相応しい快作なのだから。
などと書いたが、物語の主人公は勝麟太郎(海舟)である。題材は、江戸城の無血開城だ。鳥羽伏見の戦いから大政奉還という流れを経て、西郷隆盛を総大将とした官軍が江戸に迫る。もし徳川側との戦闘になれば、江戸は壊滅的な打撃を受け、将軍の座を退いた慶喜の命が奪われる可能性もある。この危機を回避すべく立ち上がったのが、幕臣の勝麟太郎であった。
江戸城の無血開城は、歴史の岐路となった重要なエピソードだが、これをメインの題材にした作品は少ない。すぐに思い浮かぶのは海音寺潮五郎の『江戸開城』くらいである。だが、それは当然だ。戦いが回避された理由は、勝と西郷の会談である。基本的に話し合うだけで、物語を盛り上げるための動きがない。これを面白いストーリーに仕立てるのは困難だ。したがって、扱われることが少ないのである。
この題材に作者は、果敢に切り込んだ。ライトノベルとSFのジヤンルで活躍していた冲方丁は、二〇〇九年、改暦事業を成し遂げた渋川春海の人生を描いた『天地明察』で、歴史小説に乗り出す。以後、『光圀伝』『はなとゆめ』『戦の国』と、堅実なペースで歴史小説を書き続けているのだ。そこで示された手腕は、本書でも遺憾なく発揮されている。まず冒頭で、焦土戦術の噂を流し、官軍を牽制する勝の、したたかな肖像を印象付けるのだ。
そんな勝を訪ねてきたのが、幕臣で剣客の山岡鉄太郎(鉄舟)である。そもそも〝倒幕〟とは何なのかと問う山岡との会話を通じて、複雑な時代情勢が手際よく説明される。歴史小説に慣れていない読者でも、すっと物語に入っていける、語り口が巧みであった。
さらに山岡の存在を奇貨とした勝は、薩摩藩の益満休之助を案内役として、ふたりを江戸に迫る西郷のもとに送り出す。ここからが物語の本番だ。山岡が見事に使者の役目を果たし、勝と西郷の会談が実現。かつて会ったことがあり、互いに通じる心を持つふたりだが、立場が違いすぎる。薩摩藩邸を経て、江戸城で繰り広げられる会談は、緊迫感に満ちており、何度も固唾を飲んだ。ふたりの会談を、これほどのドラマに仕立てた作者の力量が素晴らしいのである。
また、勝と西郷を、運の悪い人間としている点も見逃せない。いわれてみれば、たしかに彼らの人生は蹉跌の連続である。だがそれだからこそ勝と西郷は、己の実力を頼んで生き、歴史の行方を託される存在になった。作者の優れた人間観照が、ストーリーに深みを与えているのだ。
しかも読み進むにつれて、勝の人間的な魅力が際立つ。いや、主人公だけではない。立場を違えながら、勝と同じ着地点を目指す西郷隆盛。勝のボディーガードになる山岡鉄太郎。西郷と勝のために動く益満休之助。幕閣で唯一、勝を理解している大久保一翁。勝の頼みで心意気を見せる、街の顔役たち……。危急存亡の秋に、それぞれの本文を尽くす人々の姿に、何度も感動が込み上げた。
無血開城は成った。しかし以後の展開は、勝や西郷の望む方向に行かない。歴史は非情で無常だ。その延長線上にある現在の日本は、勝の目指した新たな国家たり得ているのか。彼の熱き想いに、今を生きる私たちは、胸を張って応えられるのか。本を閉じた後、熟考せずにはいられなかった。
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