誰よりも正義の人であったソクラテスが告発され、死刑になったことに衝撃を受けたプラトンが、裁判でソクラテスが何を語ったかを伝えたのが『ソクラテスの弁明』である。これを読めば死刑判決に至る裁判の経過を知ることができるが、それだけではない。
ソクラテスは次のようにいっている。
吟味されない人生は、人間にとって生きるに値しない
われわれはあたかもアテナイの人々と共に裁判の場に居合わせ、ソクラテスから自分自身の生き方について厳しく吟味されることになるのである。
一体、何が吟味されるのか。
世にも優れた人よ、君たちは知力においても武力においても、アテナイというもっとも評判の高い偉大な国家の一員でありながら、お金ができる限り多く手に入ることには気を使い、そして評判や名誉には気を使っても、知恵や真実には気を使わず、魂をできるだけ優れたものにすることにも気を使わず、心配もしないで恥ずかしくはないのか
さらに、「何かをする時、それが正しいことなのか正しくないことなのか、善き人がすることなのか、悪しき人がすることなのか」だけが重要であり、生きるか死ぬかという危険は考えてはいけないともいう。
ソクラテスはまず、お金を得ること、評判や名誉ではなく、知恵と真実、魂を優れたものにすることに気を使っているかと問う。
次に、自分がすることが正しいかそうではないかということだけを考えているかと問う。これはまさにソクラテスが現代を生きるわれわれに突きつける問いである。
ソクラテスが偉大なのは、彼が従容として毒杯を仰いで死んでいったからではなく、死をも恐れず正義を貫き、不正に決して屈することがなかったからである。それにひきかえ、現代人はソクラテスとは真逆の生き方をしているのではないだろうか。
三木清が「精神のオートマティズム」という言葉を使っている(『人生論ノート』)。これを破るのは懐疑である。
ところが、常識を疑おうとしない人は、成功することが幸福だと思い込み、お金と名誉を得ることにばかり汲々として生きているのである。
三木は次のようにもいっている。
部下を御してゆく手近な道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである『人生論ノート』
出世こそ人生の大事と説き、昇進などの見返りをちらつかせると部下は言いなりになる。自分に従わなければ冷遇すると脅された人は、上司の顔色を窺い、上司の命じることを何でもする、たとえ不正であっても。
不正を働くことで一時的に評判を落とすことがあっても、出世のためなら不正を厭わない。そのような人は「恥ずかしくはないのか」というソクラテスの言葉に耳を塞ぎたくなるだろう。
ソクラテスは自分は神によって国家にくっつけられた虻だといっている。アテナイという国家は大きく素性のいい馬だが、大きいために鈍いので目を覚まされなければならない。そう考えて、ソクラテスは人々と膝を突き合わせて対話をした。
ソクラテスは虻として惰眠を貪る人を刺し、常識が決して真理ではないということを教えた。ソクラテスと対話をし自分が何も知らないということに気づかされた人々は、眠りかけている時に起こされたら腹を立てるように、自分を起こした虻を叩いて殺そうとした。実際、ソクラテスは死刑になった。
しかし、ソクラテスが死の危険をも顧みることなく正義を貫いたのは、誰よりも祖国アテナイを愛していたからだ。ソクラテスは国家を愛していたが、あるいは愛していたが故に、政権と国家を混同することなく政権を批判し、人々の生き方を吟味することをやめなかった。
『ソクラテスの弁明』を読めば、ソクラテスの棘ある言葉にいたたまれない気持ちになるかもしれないが、元の人生には戻れなくなるだろう。一読を強く薦めたい。