空前のペットブームである。私たちと犬や猫との関係性も密なものになっている。動物愛護法が改正されるたびに、飼い主の責任と義務とが重くなっているのはその象徴だろう。そう考えると、江戸幕府の五代将軍徳川綱吉が制定し、「天下の悪法」とも言われる生類憐れみの令にも一理あると考える現代人がいてもおかしくない。だが、その実態はどのようなものだったのだろうか。諸田玲子の新刊『元禄お犬姫』は、生類憐れみの令に翻弄される人々を描きながら、江戸文化華やかなりし元禄という時代を浮き彫りにしている。
主人公の知世は十七歳。鷹狩に使われる犬の養育や訓練をする御犬索の家柄、森橋家に生まれた。だが、生類憐れみの令により仕事がなくなり、一家は野犬を収容する御囲の管理を行っている。御囲には十万匹以上の犬が収容され、二六時中吠え立てる。そのため母が体調を崩してしまい、知世と四歳下の弟、祖父とともに小石川の剣術指南、堀内先生のもとに身を寄せることになった。知世は「涼やかな目元とふっくらした口元」をした「男勝りで天真爛漫」な娘である。そして、どんな気性の荒い犬でも手なずけてしまう。「お犬姫」という異名のゆえんである。
小石川に落ち着いた知世のもとには犬にまつわる相談事が次々に持ち込まれる。病に倒れた犬の世話や逃げ出した犬の探索……と言うと牧歌的に聞こえる。だが、生類憐れみの令の下では、犬に万が一のことがあれば厳罰に処される。したがってことは内密に解決しなければならない。依頼者は切羽詰まった状態なのである。しかもそれらの事件には複雑な背景があった。
一方、『元禄お犬姫』にはもう一つ重要なモチーフがある。赤穂浪士四十七士の討ち入りである。江戸幕府が体制を確立したことにより、武士はかつての軍事的な役割を形骸化させ、官僚として上意下達の世界に生きている。そんな時代にあって、赤穂浪士は仇討ちが幕府から御法度とされているにもかかわらず、昔ながらの武士の本懐を遂げようとする。知世が思いを寄せる真之介も仇討ちを密かに志しており、武士とはどうあるべきかという問いを投げかけるのだ。
さらに、知世の前に現れる大きな敵が、犬を使った犯罪を続ける「盗賊お犬党」と呼ばれる一味である。首領はお香という女性で、知世とは面識があり好感さえ抱いていた。お香はなぜ犬を使うことにこだわるのか。そして、本当の目的は何なのか。武士としてどう生きるかを模索する男たちと、幕府の命令で運命を狂わされた女たちの人生が交錯するとき、華やかだったはずの元禄の陰にある深い闇が見えてくる。
諸田玲子は「お鳥見女房」や「あくじゃれ瓢六」などの人気シリーズのほか、四十七士を題材にした異色作『四十八人目の忠臣』などで知られる。どの作品にも共通するのは、歴史に大書されることのなかった女性たちからの視線だ。この『元禄お犬姫』の知世もまた、そうした諸田作品のヒロインの系譜に連なる新たな主人公である。もの言わぬ犬たちの心を知る知世は、犬たちを救うことで人間たちをも救おうとする。お犬姫の活躍をぜひお読みいただきたい。
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『楠の実が熟すまで』
諸田玲子
(角川文庫)
十代将軍家治の治世。金遣いの荒い禁裏の実態を探ろうとした幕府側の隠密が次々に殺される。そこで切り札として選ばれたのが郷士の娘、二一歳の利津だった。公家に輿入れした彼女は真相を探るのだが……。利津の勇気と活躍に声援を送りたくなるスリリングな作品。
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