人生の最後に飼う猫を「しまいネコ」と呼ぶらしい。群ようこさんにとって、しいは「しまいネコ」ということになる。
『ビーの話』『おかめなふたり』『しいちゃん日記』など、群さんのエッセイにたびたび登場してきたしいも、拾われてから丸十九年が経ち、すっかり老猫になった。飼い主の群さんも還暦を過ぎ、十年一日のような日常に、それでも刻まれた歳月が、さらりとした筆致で描かれたこのエッセイをどうにも味わい深いものにしている。
群ようこの描く猫エッセイにハズレなし。それだけでもう鉄板と言っていい本作だが、映画化された『かもめ食堂』にしろ、『衣もろもろ』や『ゆるい生活』にしろ、図らずも〈女がひとりで生きていくこと〉を描き続けてきた作家である。いつの間にか、若い頃の服は似合わなくなり、体はメンテナンスを必要とするようになり、親を介護し看取る年代になった。そのことを大げさに嘆くでもなく、続いていく日々の喜怒哀楽として描き続けてくれる作家がいることで救われている読者は、私も含め、少なくないのではないか。
生まれながらの女王様気質のしいにかしずき、振り回されながらも、いそいそとお世話に明け暮れる群さんは、かいがいしい乳母であり、忠実な僕だ。いかに完璧に仕え、服従しているかは、七色に描きわけられたしいの鳴き声を読めば、一目瞭然である。
大きな目を見開き「あーっ、あーっ」と言われれば「はいはい、抱っこですね」と抱いてやり、ネコベッドの前で「わあ、わあ」と鳴けば、昼寝前のブラッシングをご所望だとわかる。言われるがままブラシをしてやると、突然「にゃっ」と怒られる。「もういい」というサインなのだ。
カリカリはフランスのメーカーの「気むずかしいネコ用」じゃないとダメだし、ネコ缶だって気に入れば少しだけ召し上がる「懐石食い」で、お気に召すものを探すうち、常に十種類の在庫を抱えることに。病院に連れて行こうとすれば「ぎえええええーっ」と断末魔の叫び声をあげるくせに、看護師さんの前ではおとなしい、いい子になる。とんでもなく内弁慶で手のかかるしいに根負けするのは常に群さんの方であり、この小説は連戦連敗の記録と言っても過言ではない。「世界一飼いネコに叱られている飼い主」というジャンルがギネスにあれば、自分は絶対一位になれると、群さんも断言する。
しかし、それは紛れもない愛の日々だ。不平不満を並べるほど、のろけになるところは、子育てによく似ている。ご近所最強のメスネコとしてオスネコと渡り合ってきたしいも、めっきり外に出なくなり、明け方に群さんを起こしては、自分に何事もないようにお前は見張っていろと言いつけ、すやすやと寝てしまう。一人と一匹は、今や老いの境地を共にする戦友であり、そのことがかけがえのなさに拍車をかける。
〈咳をしても一人〉とは漂泊の俳人・尾崎放哉の有名な一句だけれど〈咳をしても一人と一匹〉、私のそばにはお前がいる。風邪で寝込んでも何をしてくれるわけでもない、いつも通りの女王様だ。でも、そこがいい。猫バカと笑わば笑え。母親の世代と自分の世代では生き方が違うように、女が生きていくということは、いつだって前例のない、前人未踏の荒野を往くことなのだ。超然とわが道を往ゆく相棒がいてくれたら、こんなに頼もしいことはない。
「おかあちゃんのこれまでの人生の中で、いちばんの幸せの山は……うーん、しいちゃんがうちに来てくれたことだな」
群さんは、しいに話しかける。
「しいちゃんも同じ?」
確かめようとすれば、急に真顔になり、しらんぷりをして顔をそむける。しいよ、どうか群さんのためにも長生きをしておくれ。
ある詩人が言った。〈自由とは明るい孤独のことである〉。ひとりで生きる女がいつの間にか身に着ける属性は、たぶん、こんな不敵で愛おしい猫のかたちをしている。