実写映像化も話題となった大ヒット作「万能鑑定士Q」「探偵の探偵」シリーズを終了させ、文科省のノンキャリア事務官を探偵役に据えた「水鏡推理」シリーズを着々と育てていた松岡圭祐が、その筆を一旦止め、歴史小説へと舵を切ったのは二〇一七年四月のことだった。一九〇〇年の北京で実際に起こった義和団事件の始まりから終わりまでを書き尽くす『黄砂の籠城』に始まり、近現代史の実際の事件や人物を材に取ったエンタメ作品を、なんと二ヶ月に一冊の超ハイペースで発表し続けてきたのだ。その最新の成果であり、デビュー二十周年というアニバーサリー・イヤーのラストを飾る一作が、文庫書き下ろしで刊行される長編『ヒトラーの試写室』だ。松岡圭祐の歴史エンタメにこれから挑戦したいという人は、この一作から読めばいい、と断言できる。
本を開くとまず目に飛び込んでくるエピグラフは、「この物語は史実から発想された」。間もなく二十歳になる柴田彰が、家業を継がず活動写真(映画)の俳優になるという夢を告白し、大工の父に勘当を言い渡されるシーンから物語は始まる。恋人の敏子や家族が暮らす東京郊外の町を出て、夢の入口を探し求めて東奔西走。やがて辿り着いたのは、日独合作の大作映画『新しき土』のオーディションだった。そこで出会ったのは、十四歳の新進女優・原節子。ドイツの「総統」という単語が出てきたところで、時代背景が確定される。第二次大戦開戦直前、日本映画の黎明期だ。
現代に比べて職業選択の自由やチャンスが乏しく、なりたい職業に就くための情報が圧倒的に少ない。それゆえに、あれよあれよと思惑からは外れていって、彰が根を張ることになったのは大手映画会社の特殊技術(現代で言う「特撮」)の部署だった。主任は、戦後に「ウルトラシリーズ」で特撮ブームを巻き起こす、円谷英二。師の薫陶を受け、彰は才能を開花していく。
松岡圭祐の歴史エンタメの特徴は、主人公が所属する自国(日本)と他国とのカットバック構造にある。自国から他国はどのように見え、当の他国かには自国がどのように映るのか? 本作で据え置かれた他国の視点とは、ナチス=ドイツだ。「総統」ヒトラーから宣伝省大臣に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスは、国家啓蒙のための国策映画を製作していた。ある日、円谷率いる特殊技術班の実力を、フィルムを通じて目の当たりにして——。
二国の複数の登場人物の視点で進んでいく物語は、第二次大戦の開戦前後からスケールが拡大していく。とはいえ、画面の真ん中にあり続けるのは、二十歳を過ぎてから訪れた彰の青春&特殊技術を必要とするお仕事小説としての快感だ。例えば、寒天のプールに浮かべた模型船が、本物の船に見えるためにはどう撮影すればいいか? その船には、無数の人間が本当に乗っていると感じさせるには? 戦時下ゆえに特撮のための素材は集まらず予算も厳しいなかで、彰は仲間たちとアイデアを交わし合い、小さなクエストを次々にクリアしていく。その積み重ねが、映画は戦争とどのように関わり、時に戦意を高揚させ時に戦争を止める術になり得るのか、という大きなクエストへと有機的に繋がっていくのだ。特撮の舞台裏を描くことで戦争の舞台裏を描く、その試みには明らかに「ポスト・トゥルース」に象徴される現代社会の潮流——信じたいものを信じるために、事実に目をつぶる——が反映されている。あるいは、先の大戦を語ることへの過剰な情熱、過剰なフォビア(恐怖症)が渦巻く日本の空気が、ありありと。この小説が二〇一七年の今書かれたことには、意味がある。
題材とテーマの幸福な合致があり、史実と虚構の境目を感じさせない驚異のネタ密度が実現。なめらかで繊細、それでいて大胆な物語のハンドリングに成功している。そして、抜群に読みやすい。作家のこれまでの経験や技術は、この一作を書き上げるために培われてきたのだ。松岡圭祐の、これが新たな代表作だ。
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