ファンド・マネージャーという経歴を生かしたエンタメ経済小説で人気の波多野聖。もし著者名を伏せられたまま『花精の舞』を読んだとしたら、波多野聖の手によるものだとは思わなかったかもしれない。それほど従来の作風とは一線を画した新境地だ。
物語は、女性編集者の佳鶴子が定年を迎える場面から始まる。彼女は定年に際し、三十年前——昭和の終わりに取材を申し込んだ、ある尼僧のことを思い出していた。滋賀県の古刹に住む大妙尼大禅師、通称『比丘尼』と呼ばれる女性である。
明治生まれとは思えぬ美しさ、法話の素晴らしさ、謎に包まれた経歴。取材は断られたものの、佳鶴子は個人的に比丘尼と会う機会を得て、その前半生を聞くことができた。
そこから比丘尼——本名・綾の人生が語られ、ときおり比丘尼と佳鶴子の会話が挿入されるという、二段階の回想構造で物語が進む。
まず、この綾の物語が魅力的だ。
序盤で比丘尼は佳鶴子に「愛するより前にまず、女は愛されることよ」と告げる。この時点で、もしや現代には合わない価値観を押し付けてくるのかな?と不安になったことを告白しておこう。だがその不安はすぐに雲散霧消した。綾は自らの求めるところを、自らの手で掴んでいく女性だった。
能楽師の家に生まれ、能の美に惹かれた綾は、女は舞台にあがれないというしきたりを盾に反対する父を六歳にして説き伏せる。津田塾大学の前身・女子英学塾に入学し、帝大や二松學舍の男子学生のいるサロンで哲学や美学についての議論に耳を傾ける。貿易を営む男性に嫁いで夫とともに渡欧。そこでダ・ヴィンチの絵画に触れ、パリのルーヴル美術館で『サモトラケのニケ』に衝撃を受け、美に愛と財産を注ぐことを惜しまない侯爵夫妻と出会う。骨董、観劇、美食。一九二〇年代の、夢のようなヨーロッパでの日々。
こうして表面だけを書いていくと随分と贅沢に思えるが、決してそうではない。あらゆるものに触れた綾は、見た目ではなく、心を震わせる〈美〉の真髄を、自分の学んできた能の型に引き寄せ、見極めようとするのだ。
ここに描かれているのは、自分が求めるものが何かをはっきり自覚し、それを形作るという意志である。それは生きていく上での核を自分の中に作るという行為に他ならない。これを別の言葉で〈使命〉と呼ぶ。美の本質を理解した綾は、美を後世に伝えるために生涯を賭けるのだ。裕福な家に育った特権階級である綾の、ノブレス・オブリージュとして。なんと清々しく、凜とした人生だろう。
圧倒され、憧れ、浪漫に酔う。芳醇な葡萄酒のような物語である。だが、これが二段階の回想として語られるという点にこそ注目願いたい。
華やかな大正モダニズムの頃の思い出を、バブル期に聞いた佳鶴子。佳鶴子の前には本物の美味しさを追求したご馳走が出され、細やかで粋を集めたもてなしが供される。そこまで含めて、夢の時間なのである。
それを今、思い出すことの意味。それこそが本書のテーマだ。
一般に〈美〉の対義語とされるのは〈醜〉だが、綾は別の言葉を挙げた。それはまさに現代を表す言葉である。大正モダニズムやバブル期とは決定的に異なる現代だからこそ、〈美〉を守り続けることの必要性を、綾は、そして本書は説いている。
綾の思いは、佳鶴子のある決意へと結実する。エピローグを読めば、なぜ今この物語が書かれたかがわかるとともに、〈使命〉は受け継がれていく、という著者の強い意志を感じる。
何より、バブル世代として背筋の伸びる思いがした。浮ついた狂乱の時代と思われがちだが、芸術も文芸も学問も食べ物も、あらゆる本物に触れられる時代だった。そんな時代を知る者としての責任を、本書はあらためて感じさせてくれたのだ。〈使命〉を受け継ぐのは、佳鶴子だけではない。著者もまた、そのひとりなのである。
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