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(評者:吉田伸子 / 書評家)
川嶋有人が医師になりたいと思ったきっかけは、叔父と兄と出かけた冬休みの旅行だ。当時、大学病院の勤務医だった叔父が、ニセコへスキーに連れて行ってくれたのだ。帰途、羽田へ向かう機内でドクターコールに応じ、救急患者の対応にあたった叔父は、有人にとって眩しいヒーローとして映った。
有人が私立中学の二年生になったある日、夏休み明けに転入してきた帰国子女の道下が、体育館で突然倒れる。有人の頭をよぎったのは、かつて、機内のドクターコールに応じた叔父の姿だった。思わず道下のもとに駆け寄り、顎を上に向け口を開けさせ、人工呼吸をと道下の鼻をつまむものの、その後が続かない。逡巡している有人の手に、道下が嘔吐したものがかかる。苦しみ意識を失った道下を見て、吐物が詰まっているならかき出して人工呼吸を、と頭では分かっているものの、有人自身も思わず嘔吐してしまう。直後、養護教諭が駆けつけ、道下の症状はアナフィラキシーかもしれないと見立て、彼女が携帯していたエピペンで応急処置を行う。その後、道下は救急車で搬送された。
汚れた制服を着替え、教室に戻った有人を待ち受けていたのは、級友たちからの心無い嘲りだった。臭い、ださい、マジ最悪……。駄目押しは、体育館に有人を誘った男子からの言葉だった。有人が座っている椅子を蹴りながら、彼は言う。「肛門科の息子はおっさんのケツだけ見とけよ」。有人はそのまま教室を出て帰宅。勇気を振り絞って、翌日登校するも、有人を待ち受けていたのは加速したいじめ。早退した有人は、以来不登校となり、引きこもりになってしまう。
月日が流れ、有人にあるのは絶望だけだった。出席日数が足らず、高等部への進学も絶たれ、16歳で迎えた正月。かつては有人の憧れだった叔父が、部屋の前で二時間粘った末に持ちかけたのは、自身が赴任している北海道の離島にある高校への進学だった。この時から、止まっていた有人の時間が、ゆっくりと動き始める――。
この有人がですね、なんというか、もう、読んでいてこちらがいらつくくらいに、いちいちいちいち、物事をネガティブに捉える。そのくせ、島の高校で先輩になった可愛い女子の一言にぽおっとなって、その子に一方的に想いを寄せるわ、その子を振ったという先輩に敵愾心を抱くわで、読みながら、おい! と突っ込みたくなるほど。
けれど、読み進めていくうちに、あぁ、これが乾さんの巧みさなのだ、と分かってくる。離島に渡り、自分を取り巻く状況がリセットされただけで、劇的に何かが変わったりはしない。むしろ、この、延々とマイナス思考から抜け出せない有人の有り様こそが、リアルなのだ、と。
その巧みさは、有人とは全く違う方法で「あの日」を乗り越えた道下と、有人が再会する場面を読むとよく分かる。あの日のことが原因で、道下に軽い言語障害が残ったことを知っている有人は、彼女の人生もまた〝詰んだ〟と思っていて、だから有人は謝罪の言葉を口にする。その有人に対して、道下は言う。自分が有人に会いたかったのは、「あの日のお礼を直接言いたかったから」だと。「川嶋くんだけが、あのときの私に近づいてくれた」と。
けれど、未だに過去を引きずり、いじいじと自分を哀れんでいる有人を知り、道下は言い放つ。「私と川嶋くんを一緒にしないで。取り返しがつかないお仲間に、私を巻きこまないで。(中略)私の言語障害も、一生私の足を引っ張るものだと決めてかかってるんでしょ? おあいにく様、違うから。こんなことで人生狂ったなんてへこたれるほど、弱くないの」。道下のこの言葉は、本書を縁の下で支える言葉でもある。
本書の読みどころは、この、有人が再び自分の人生を取り戻すまでの過程、なのだが、離島という〝密室〟故の功罪もきっちりと描かれているところが絶妙だ。なかでも、離島における医療が綺麗事だけでは済まないことや、島に暮らす人々の覚悟にまで触れているあたり、本書に対する乾さんの、しゃんと伸びた背骨が見えるようでもある。
過去は変えられない。でも、大丈夫、未来はこれから作ることができるから。そんな乾さんの声が聞こえてくる一冊だ。
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